第2話

 『サクラ・バー』の看板を縁取る白熱灯の灯りを、止んだと思っていた雨が掠めていった。背後を振りかえると、陽が落ち切った空は真っ暗で何も見えない。屋根の外に伸ばした手のひらに水滴が弾けていく。辺りの広場にはサクラ・バーと同じく、柱と屋根だけの露天バーがひしめきあっている。充満する嬌声に掻き消されて雨音は聞こえない。雨は、暗幕に染み込んでいくように静かに降っていた。

 雨水を吸った深緑色のスニーカーがどす黒く変色している。濡れた生地が素足に張り付いていて、高い椅子の足に引っ掛けているが、すぐには乾きそうもない。探していたわけではないが、カウンターの端で飲んでいるケイスケの高い声が聞こえてくる。隣の女と話し込んでいて、こちらを気に掛けているような様子はなかった。目が緩んでいて、随分と酒が入っているようだった。

「ケイスケくん、クサも結構キマってたでしょ。大丈夫なん、あれ…」

 横に座っていたヒロシが話し掛けてくる。僕は何も答えずに首を傾げてみせる。ビールの小瓶を傾けてみるが空だった。瓶を置こうとすると女の歓声が上がる。釣られてそちらを向いたので、傾いた瓶がカウンターの上に転がった。ケイスケがカウンターに俯せになっている。隣に座っていた女とバーの中に居る女達が手を叩いて喜んでいる。

「何…」

 僕は小さく呟く。

「さあ…、何やろうね」

 尋ねたわけではなかったが、ヒロシがそう答えた。

「テキーラ…、いっちゃったみたい」

 女の声がした。同時に伸びてくる細い腕。カウンターに転がっていたビールの空き瓶を持ち上げる。腕を引いた後、微かに香水の匂いが残る。金木犀の香りだと思う。横目に映ったその女は薄暗くてよくはわからなかったが、それほど日焼けしているようには見えなかった。目が合ったので思わず外して、もう一度ケイスケの様子を見る。ケイスケはカウンターに俯せになったまま、ショットグラスを握り込んだ手を宙に掲げている。眉を顰めていて、そのまま地面に崩れ落ちていきそうだった。何か呻いている。

「何やってんだあの馬鹿…」

 僕の言葉にか、それともケイスケの様子にか、掠れそうな声で女が笑った。

「同じのでいいの?」

 持ち上げた空瓶を女が振る。瓶を持つ右手の薬指に、歪な形をしたの銀の指輪が、絡みつくように二つ並んで嵌められている。ビールでいいと僕がした返事は思った以上に声にならず、女には届かなかった。

「これにすればええよ。この辺りで地元の人がよく飲んでるやつ」

 もう一度答えようとした僕に向かって、ヒロシがグラスの氷を鳴らす。それがどんな飲み物なのかはわからなかったが、頷いた僕を見て女がグラスの用意を始める。

「ケイスケくんは島に来たときからああやったけど、そういう縁みたいなの切れん人間っておるから、君なんかもそうなんやろ。どこに行っても似たようなもんが集まってきてね、同じようなことやってるんやろうね」

 ヒロシは横目で僕を見ている。僕は何を返したらいいのかわからず、また首を傾げる。目の前にグラスが置かれた。女が微笑みながら僕を見ている。手に取って口を付ける。何のことはない、ウィスキーか何かのコーラ割りだった。ケイスケが居るほうからまた歓声が上がる。二杯目のテキーラに手を出したようだ。ケイスケは先ほどと同じようにカウンターに俯せになっている。今度は余り動いていない。その様子を見たヒロシはしばらくの間、声を出して笑い続けた。

 背中を軽く叩かれる。振り返ると知らない男が立っていた。ヒロシが男に会釈している。

「このバーのオーナー…、ええ人でね」

 ヒロシが僕の耳元でそう言った。男は癖のない長髪に、殆ど焼けてない白い肌をしていた。

「ケイスケくんの友達でしょ」

 ヒロシと挟み込むような形で僕の隣に座った男がそう言った。眼がぶれていて、どこを見ているのかわからない。誰に向かって訊いたのかわからず黙っている僕を見て、ヒロシが口を開く。

「そう。島に来たばっかりなんやけど、ここ来る前に迎えに行ったら真っ昼間からジョイント回しててね、ケイスケくんとガンギマり…、今日が初日やってのにね」

 男はヒロシの話に手を叩きながら仰け反って笑う。ヒロシはにやつきながら男を見ている。

「…セントラル泊まる客はみんなそうだよね、ほんとぶっトンでる奴ばっかでさ、笑えるよ。アキラって言うんだけどさ、俺…、この島、長く居るんでしょ、よかったら一緒に遊ぼうよ」

 アキラはゆっくりとそう言った。ぶれる目が時折僕に向けられていたので、今度は僕に言ったんだろうと思った。

「ホテル・セントラルだっけ…、ケイスケとかが泊まってるホテルだよね。移ろうとは思ってるんだけど、まだ部屋空いてないらしくて…、今はまだ大通りにあるコテージなんだけど、そこに居るよ」

「ああ、そうなんだ、どこのコテージだろ…、大通りって海岸沿いのでしょ、あの辺ってそういうのばっかだからさ」

「ちょっとわかんないな。フェリーから港に降りてすぐにケイスケのカブで連れていってもらったんだけど、後ろに乗りっぱなしだったから、場所とかよくわかってないんだよね。結構海の近くだとは思うんだけど」

「近いよ…、砂浜のすぐ側なんやないかな。僕なんかが知らんプッシャーがおったらしくてね、そのコテージの管理人みたいなんやけど、そこでクサ仕入れたらしくて、ケイスケくんとジョイント回してたみたい」

 ヒロシが僕とアキラを交互に見ながらそう言った。

「ヒロシくんが知らないプッシャーなんてよっぽどだね。でも、セントラル空いたらさ、早いとこ移ってきたほうがいいよ、ホテルっていっても二階建てだし、言うほど立派でもないんだけどさ。俺もさ、今は女んとこだけど前はそこで暮らしててね、一階だと蟻とか虫が入ってきちゃうから二階のほうがいいんだけど、空くんならどっちでもいいからさ、早いとこ来たらいいよ、面白いからさ、絶対」

「今夜ケイスケに連れてって貰う予定だったんだけど、あれだと無理かな…、完全に潰れちゃってるし」

 僕はケイスケのほうを一瞥してそう言った。アキラは口を付けようとしていた赤紫色の瓶を離して笑い出す。

「僕が連れてくよ。さっき訊いたら朝に一部屋空いたはずやって言ってたから、今日部屋取るといいよ」

 そう言い終えたヒロシも、アキラに釣られて笑い出した。

 背後から水が跳ねる音がして振り返る。広場の入口に停められたカブから、男が降りて歩いて来る。

「…パーティー、中止だよね」

 立ち止まった男がこちらに向かって声を掛けてくる。灯りが届く場所までは近付いて来なかったので姿がよく見えない。男は子供のようにも老人のようにも見えた。

「やってるかもしれんけど、この雨やしね…、知ってるんは誰も遊びに行かんと思うよ」

 振り返ったヒロシが男に答えている。男は軽く手を挙げて、そのままカブに戻っていった。

「あれ、おんなじホテルに泊ってる人…、キュウさんっていうんやけど」

 そう説明するヒロシに僕は目線を送っただけで返事をしなかった。キュウという男がカブに跨って走り去っていく。エンジン音はしなかったが、タイヤが水溜まりを弾く音が聞こえてきた。

「僕らの中では一番年上やと思う…、多分やけど。セントラル来るんやったら、その内また会うと思うけどね、クサしかやらんみたいやけど、起きてる時間はずっとキマってて、いつ会っても目細めててね、シラフでおるときなんか見たことないよ」

 離れていくキュウを見ながら、ヒロシはそう言った。

「歳はわかんないけど一番狂ってる…、それだけは確か。あの人もう人生とかどうでもいいんだよ。ずっとあのままで死ぬまでキマり続けてたいの。溜め込んだ金あるんだろうけど、それちびちび使ってさ、どうにかして今の生活を死ぬまで続けようとしてんの」

 アキラはそう言い終えると煙草に火を点ける。空に向かって吐きだした煙を無表情で眺めていた。

 グラスに何杯目かのウィスキーのコーラ割りが注がれる。ヒロシもアキラも別の女と話している。何もやることがなくカウンターの中を眺めていると、指輪の女と目が合った。女は微笑みながら、積み木のような玩具をカウンターの前に置いた。

「何これ…」

「…ただのおもちゃ」

 女はそれだけ言って体を引いた。店の中央にあるテーブルにもたれ掛かっている。僕がグラスを握ったまま黙っていると、アキラが積み木を崩して自分の前に掻き寄せた。

「興味ないかな、こういうのは」

「…いや、やったことないし、初めて見たよ」

「そっか…、そりゃそうだろうね」

 アキラは咥えた煙草の煙に目を細めながら積み木を積み始めた。

「まあ、こんなもんだよ。ここの遊びなんてさ、海も山も最初は楽しいかもしれないけど、すぐ飽きるしね。俺なんて様子見がてらに毎日ここに顔出してるけど、酒飲んで潰れてるだけでさ、こんなことばっか…。何が楽しいんだかわかんないけど、どうしてかね、こんなこと繰り返してるうちに、いつの間にかね、この島にも住んじゃったりなんかして、こんなバーなんか始めちゃったりしてさ、何でだろうね。でもさ、君なんかこういうの向いてるんじゃないの。たぶんだけどさ、初めて会って言うことじゃないかもしんないけどさ、俺なんかよりよっぽど向いてるよ、うん。もしさ、この島に居続けるんだったらさ、このバーやってみたらいいよ…、その気があるんだったら譲ってあげるから…」

 アキラは独り言のように喋り終えると黙り込む。積み木に集中している。本気で言ってるのか冗談で言ってるのかよくわからない。しばらく返事ができずにいる僕を見て、ヒロシが笑い出した。

「いや…、なんて言うかさ、アキラさんはどうするの?」

 僕が答えるとアキラが手の動きを止める。

「俺はさ、まあ、壊れちゃってるから…。いつまでも続かないと思うんだよね、実際」

 アキラは咥えていた煙草を指に挟み直して、吐き出すようにそう言った。

「…積木もええけど、こんだけ壊れてるん揃ったんやし、どっか遊びに行ってみようか。雨やから遠くはしんどいけど、その辺の…、バーハーツとか、どう」

 ヒロシがそう言って立ち上がる。財布から札を抜いてカウンターの上に置いた。

「うん、そうだね…。君は?」

 僕を見ながらアキラが訊いてくる。

「え…、いや、壊れてはないとは思うけど」

 アキラが笑う。

「違うよ…、これからどうするのかなって。でも、壊れてないならこの島には居れないよ。ここに居るから壊れるんじゃなくて、壊れてないとこの島には居れないんだ」

 アキラの目はもうぶれてはいなかった。しっかりと僕の目を見据えていた。

「またね」

 指輪の女がカウンターの中から手を振る。僕は財布を取り出そうと椅子から立ち上がる。

「奢りよ、ヒロシのね」

 笑みを浮かべた女はヒロシが置いた札を指先に摘んで見せる。嵌めている二つの指輪が白熱灯の灯りで橙色に輝いた。

 サクラ・バーの屋根から少し離れる。雨は弱まっていた。霧雨に変わって辺りに舞っている。ヒロシがカウンターにうつ伏せになったケイスケの肩を揺らしている。

「バーハーツ行くけど…、ケイスケ君どうする」

 ケイスケは動かなかった。ヒロシはにやつきながら僕を見て、首を傾げる。

「無理っぽいから、あたしが部屋まで運んどく」

 隣に座っていた女がケイスケの代わりにヒロシに答える。先ほど誰よりも大きな歓声を上げていた女だった。

「そう…。ちゃんと運ばんと風邪引くよ、ケイスケ君」

「わかってるわよ」

 女はそう言い放つとヒロシの顔を睨み付けた。ヒロシが何も答えず二人から離れると、その目を僕に向けてくる。鮮明な瞼の輪郭のせいか上目がぶれる気配がない。ヒロシと同じように睨まれているのだと思ったが、唇には微かに笑みを含んでいた。

 背の低い女がカウンターの中から出てくる。店を離れようとしていたヒロシを呼び止めている。何かを話しているようだが聞き取れない。アキラがようやく立ち上がってくる。

「…バーハーツ行くなら私も行く」

 こちらを向いた女がアキラに声を掛けている。僕と目が合うと大きな唇で笑みを作った。

「セントラルに泊まるっていってた新しい子でしょ? 私ナオミっていうの、よろしくね」

 ナオミは僕の返事を待たずにアキラに体を寄せる。耳元で何かを喋っている。アキラがナオミに何か返した後、すぐに離れる。アキラとヒロシが歩き出したので僕も続く。ナオミが僕の横に並んできた。

「もうどっか遊びに行ったの? 今日島に来たんでしょ」

「いや…、海は見えなかったけど海岸沿いの砂浜かな…、そこでケイスケとニヤニヤしてた」

「何それ…、変なこと言うのね」

 ナオミが体を折り曲げて笑いだす。少し離れていたヒロシが振り返ってこちらを見る。にやつきながら声を上げる。

「よく行くクラブなんやけど、そこ出たらすぐ近くやから…」

 広場から歪に踏み固められた土の路地に出る。隣を歩くナオミが目で何かの合図をする。ナオミの視線の先にある建物が真っ白な灯りに溢れていて、夜空に浮かんでいるように見える。そこに向かっていることはすぐにわかった。足下の水溜まりを避けるように飛び越える。よく見ると通りは水溜まりだらけだった。辺りに揺らめく水溜り全てに、白く輝く建物の灯りが写り込んでいた。

 建物に近付くにつれて人の密度が高くなってくる。漏れてきたベース音が聞こえてくる。塀代わりに植えられた木々の間を抜けて建物の敷地に入る。建物の周りには石畳が敷かれていて、野外用のプラスチックのテーブルが並べられている。無造作に人が入り交じっている。ぶつからないように歩いていても熱気が体に触れてくるようだった。少し離れたところに大きなモニターが置かれている。誰もがそのモニターの前で足を止めているせいで、人の流れが停滞している。その様子を眺めているとヒロシの声がして、僕は呼ばれていることに気付く。立ち止まった僕の周りには誰も居なかった。辺りを探しているともう一度呼ばれる。ヒロシは建物の壁際近くで僕に手招きをしていた。側のテーブルにアキラが座っている。そこに向かっている途中にナオミとすれ違う。

「喉乾くでしょ…、暑いもんね。何か飲み物買ってくるから」

 ナオミはそう言い残して僕から離れる。群衆に飲まれて、モニター近くで姿が見えなくなった。テーブルに近付くと、座っていたヒロシが余っていた椅子を引っ張り出してくれた。アキラに促されて、僕はその椅子に座った。

「…セントラルにも当分行ってないから、知ってる人も居なくなっちゃってたりするんだろうけどさ、今度遊び行こうかな」

 誰に向かって言ったのかわからなかったが、アキラが呟く。テーブルの上の水滴を削ぎ取るように手を滑らせている。跳ねた水滴がテーブルから零れ落ちる。

「そんなに代わり映えはせんかな。ずっとおるんはキュウさんぐらいやけど、雰囲気は何も変わらんよ。今はまあ、ケイスケ君もおるから賑やかになったし、この子も来るしね…、遊びに来たらええよ」

 ヒロシがそう言うと、アキラは考えるそぶりを見せながら黙り込む。シャツで手を拭っている。ヒロシは気にすることなく僕のほうを向く。

「…ケイスケ君、やっぱり来れんみたいやね」

 周りの騒音に掻き消されて聞き取り辛かったので、僕はヒロシに顔を近付けた。

「あれだと多分無理かも…、もうホテルに戻ってるんじゃないかな。どこあるか知らないけど、近いのかな、ホテルって」

「この建物の丁度裏手やね、近いよ」

 ヒロシが親指で裏手と言ったほうを指す。建物の隙間から僅かに見えた空は真っ暗で何も見えなかった。

 ナオミが戻ってきた。抱え込むように持っていた何本かの瓶を、僕の脇からテーブルの上に置く。着ていたTシャツが雨で湿っている。体温で蒸れた空気が香水に混じって漂ってくる。赤紫色の瓶がテーブルに転がる。アキラが手を伸ばして栓を開けている。ナオミは持ち上げた瓶を僕とヒロシに近付けてくる。

「ナオミちゃん、あんまり気使わんでもええよ。僕ら適当にやってるから」

 ヒロシが瓶を取ってナオミに声を掛ける。僕も瓶を受け取る。ナオミは大きな唇を緩ませて笑みを作って見せた。

「座る?」

 椅子の数が足りずに立ったままだったナオミにそう訊いてみたが、ナオミは首を振った。受け取った瓶を開けて飲んでみる。シャンパンのようだったが少し濃い。薄い炭酸が口から溢れそうになる。口の端を手の甲で拭って、僕は椅子に座り直した。

「ワインクーラーよ…、ちょっと甘いかもね。あたしは好きだけど、ビールのほうがよかったかな」

 ナオミは僕の返事を待たずにテーブルから離れる。アキラの後に回って建物の壁にもたれ掛かっている。アキラが胸ポケットから出した札の前で二人は何か言葉を交わしたようだったが、ナオミがそれを受け取ったときにはもう会話は終わっていた。

 モニターの辺りから歓声が上がった。僕だけが目を向ける。ヒロシとアキラは気に留めることなく何かを話し込んでいて、側でナオミが笑っている。歓声はすぐに止んだが熱気はそのままだった。僕は足下に落とした煙草を踏み付けて立ち上がる。ワインクーラーの瓶を手に持ったまま、モニターの側まで歩く。群衆の隙間から見えた画面に映っていたのはサッカーの試合だった。濃い緑と薄い緑のストライプの芝の上を滑るようにボールが転がっている。辺りの喧噪に掻き消されて映像の音声が聞こえないせいか、深夜の広場で人知れず行われている静かな競技を見ているようだった。

「…雨ん中ようやるね」

 ヒロシが側に立っていた。ジーンズの後ポケットから財布を取り出している。

「これ…、ええもんあげるよ」

 財布の中から引っ張り出したのはしわくちゃの銀紙だった。ヒロシはそれを僕の手の中に押し込んでくる。にやついている。僕は何度か周りを確認して、握りしめていた銀紙の包みを開く。薄いピンク色が混じった岩塩の欠片のようなものがいくつか見えた。

「この辺じゃあそんなに心配いらんよ…、誰もチクらんから」

 僕は銀紙を閉じるとシャツの胸ポケットに仕舞った。

「色々持ってるんだね、ヒロシさんも。何だろこれ、体に害はないってやつかな」

 ヒロシがワインクーラーの瓶を口を付けたまま笑う。瓶の中の泡が踊るように揺れている。

「何やろうね。苦いクスリやけど、良薬やないことは確かやね」

「…ヒロシくん、プッシャーやるらしいからさ、今からお得意さん作っとかなきゃって感じかな」

 側に寄って来たアキラがそう言いながら、ヒロシの肩に手を回す。

「そんなん違うよ。どうせ自分もやるんやから、ちょっと大目に仕入れて何人かに声掛けるだけ…。上がりなんて期待してないし、商売にまではならないから仲間内で楽しめればいいってくらい。広く浅くより、狭く深くね。それはサンプルみたいなもんやから、試してみて気に入ったら言ってくれればええよ、何回か分はあるはずやから、残りは後でケイスケ君とでもね」

 ヒロシが僕とアキラを交互に見ながらそう言った。アキラが笑いながらヒロシの側から離れる。

「海も山もね、ハッパもクスリもみんな一緒…。同じとこに居るとね、結局は飽きちゃうよ…」

 アキラが宙を掻き混ぜるように腕を回して歩き出す。建物の入口に向かっているようだった。

「指揮者みたいでしょ…、オーケストラの」

 ナオミが笑いながら続く。アキラが飲み切ったワインクーラーの瓶をごみ箱に投げ入れる。倒れそうなほどごみ箱が揺れる。大きな音がしたが誰も見向きもしない。その様子を見ていたヒロシが僕のほうを向いてにやつく。僕は胸ポケットの中に入れたまま、銀紙の包みからクスリの欠片を取り出す。舌にくるませるように口の中に入れた。

「器用やなあ…、そんなに気にせんでもええって」

 ヒロシが笑う。塩の固まりを焦がしたような苦い味がして、僕は眉間を縮ませる。すぐに飲み込んだが喉の奥に引っ掛かる。ワインクーラーで流し込む。炭酸が口の中を抜けた後、苦みは消えたが粉っぽいレモンのような匂いがしばらく鼻腔に残った。

「これ、食ってもいいんだよね。モノがわからずにキメるのは初めてかも…」

「何でもありやと思ったけどね、君なら」

 ヒロシはまだ笑っている。顔や腕に薄く張り付いた雨が体温で蒸発していきそうだった。歩き出したヒロシの後を追って、僕もバーハーツの入り口に向かった。

 外の灯りが届く範囲から建物の中に一歩踏み込むと、ずっと聞こえていたベース音のボリュームが一気に上がった。外で聞こえていたリズムからテクノ系だろうとは思っていたが、思ったよりポップなハウスだった。それほど踊っている客もいなかったが靄のような熱気が渦巻いている。立ち止まっているうちに、ヒロシの姿を見失ったことに気付く。踊り場の中に進みながら薄暗いフロアを見渡すが、アキラとナオミも見当たらない。何色ものムービングライトに足を掬われそうになる。微かな振動が衝撃のように僕の体に響く。握り込んだゴムの玉を放したかのように弾けた心臓が、体の外に飛び出していきそうだった。瞬きの合間に見えた青白い光の束が辺りに飛び散っていった後、視界が絞られるように縮んでいき、光と音が一緒に無くなったかと思うと、また傘のように開いていく。あのクスリはこれだろうなと、僕は思った。入口のすぐ横にビリヤード台が並べられている。台を囲む男達の中にヒロシが居た。こちらには気付いていない。踊り場は円形に仕切られていた。壁の切れ目から奥にバーがあるのが見える。壁に沿って奥に向かう。バーのカウンターにもたれかかっているナオミが見える。横にアキラも立っている。僕が近付くとナオミが笑みを浮かべる。ナオミはボールのような丸いグラスに挿されたストローを咥えている。アキラは僕を気にかけることもなく、踊り場に視線を置いたままだった。電気で痺れたように体を揺らしながら、煙草を挟んだ指先を細かく震わせている。僕はカウンターの中に居た売り子に持っていた瓶を見せて指差す。女だと思っていた小柄な男はすぐに立ち上がり応じる。カウンターの上部に掲げられた何本もの酒瓶の中に見覚えのあるバーボンの瓶を見付ける。それにしとけばよかったと思いながら、ワインクーラーの瓶を受け取る。バーの端に立つと入口のビリヤード台が見えた。背中を丸めて球を突いているのはヒロシだった。打ち終えたキューを床に付けた拍子にヒロシがこちらに気付く。にやつきながら僕に向かって手を挙げた。

 曲の替わり目を待っていたらしく、アキラが跳ね上がるように飛び出していった。早歩きで踊り場を駆けるように回っている。小刻みに体を震わせながら、音の波に手を泳がせている。見えない音を追いかけて、捕まえようとしているようだった。僕は腰を折って笑い出す。ナオミも同じように笑っている。

「アキラの踊り、すごいでしょ」

 ナオミが僕の耳元で声を張り上げた。

「うん、すごいすごい…。あんなの見たことないよ」

 僕は何度か頷きながら、しばらくの間、笑い続けていた。

 何杯目なのかも覚えていなかったが、空けたグラスが手から転げ落ちる。僕はそのまま踊り場のスピーカーの前に座り込んだ。風に晒されているように、スピーカーからの音圧でシャツが震えている。ナオミに勧められて飲んだ現地産のウィスキーが効いた。ウィスキー自体を煮詰めて焦がしたような味が口の中に残っている。サクラ・バーで飲んだコーラ割りの元はこれだろうと思った。昼間のコテージに顔を出した、陽に焼けた男のにやついた顔を思い出す。現地産を舐めてるからだよ、という声が聞こえてきた。周りを見回すが誰も居ない。自分で呟いたんだろうと思う。そのまま寝転がる。コンクリートの床が冷たい。クスリと酒と音楽に煽らされた血液の熱に溶かされて、雪原の中に沈み込んでいくようだった。目を閉じる。瞼の裏まで届く天井のストロボで意識が痺れていく。気を失いそうだと思った。壁にもたれ掛かりながらゆっくりと起き上がる。いつの間にか踊り場は人で溢れている。ヒロシ達を探そうとするが、人の数が多すぎて誰にも焦点が合わなかった。諦めて歩き出そうとすると足がもつれそうになる。踊り場から一端、奥のバーに戻る。人で溢れた踊り場の熱気で視界が歪みそうだった。この熱気は人が捌けた後も消えることはなく、次の晩まで残っていくのだろうと思った。

 外周沿いの壁を辿るように歩いて建物の外に出る。急激に音が絞り込まれて平衡感覚を失いそうになる。視界がぶれる。近くのテーブルにあった椅子の背に手を掛ける。座ると意識がなくなりそうだったので、立ったまま辺りを見回す。あれだけ人で溢れていた野外テーブルには誰も座っていなかった。耳を刺すような電灯のノイズが聞こえてくる。夜の川辺でせせらぎの中に包まれているようだった。建物からの漏れる音楽は残っていたが、静かだと思った。

 バーハーツの敷地から通りに出る。振り返って、ヒロシがここの裏手だと指差したほうを眺めてみる。微かに陽が射した夜空が濃紺に変わってきている。夜が明けようとしていた。見上げた建物の屋根にバーハーツの看板が目に入る。空に浮いていたと思っていたバーハーツは地上に建っていた。そんな当然のことに気付いた自分が可笑しくて、僕は笑い出す。バーハーツの裏手に向かって歩いていく。来たときに真っ白に輝いていたいくつもの水溜まりは泥にまみれていて、今見えているのはただの薄汚れた路地だった。

 十字路を曲がってバーハーツの裏手に出る。辺りを見渡すが、ホテルらしき建物は見当たらない。水溜まりが更に増えてきて、避けながらホテルを探しているとよろめきそうになって足を止める。バーハーツの裏手に当たる建物は、店内が開放されたオープン・レストランのようだった。軒先のテントの下には魚屋のような棚が置かれていて、立ち止まっていると海辺の匂いが漂ってくる。海草か魚貝が乾いたような、島の港で嗅いだ匂いを思い出す。フェリーからこの島に降り立ったのが、もうずいぶんと前のことのように思えてくる。薄暗い店内には誰も居ない。奥の壁一面に見たこともない魚の絵が描かれていた。もう一度辺りを見回してみる。民家か小店舗としか思えないような建物ばかりで、やはりホテルらしき建物は見当たらない。ケイスケやヒロシの言葉を思い出そうとするが、それらしき記憶は思い出せない。水溜まりが続く道の先に、大通りらしき舗装路が見える。港に繋がっている道路だろうと思う。この島で唯一記憶にある地理だった。あの道路を歩いていけば、コテージに着くだろうと思った。いずれにしても荷物を取りに行かなければいけない。コテージまでの距離感が掴めなかったが、歩くしかなさそうだった。

 水を弾く音と金属が軋む音がして振り返る。二人乗りのカブがバーハーツの通りで止まった。後に乗っていた女が前の男に声を掛けながらカブから降りる。そのまま走っていくカブには目もくれず、こちらに向かって歩いてきた女は僕の前で立ち止まった。

「何やってるの?」

 女が声を掛けてくる。すぐには気付かず返事をしなかったが、サクラ・バーでケイスケの隣に座っていた女だった。それに気付いた瞬間に、この女に訊けばホテルの場所がわかるかもしれないと浮かべた僕の笑みが可笑しかったらしく、女は腹に手を当てて笑い出した。

「ホテル…、ケイスケの泊まってるホテルって知ってるよね」

 いつまでも笑い続けていそうだったので、遮るように僕は訊いた。

「…一人? ヒロシはどうしたの」

 笑い終わった女は膝に手を付いたまま、僕を見上げてそう言った。

「はぐれた」

「何それ…、あいつ、私にはちゃんとケイスケ連れてけって言っといて、自分ができてないじゃない」

「ケイスケは?」

「部屋で寝てるわ。潰れちゃってつまんないから遊びに行ってたの」

「そこの場所、教えてくれる?」

 女がまた笑った。

「よっぽど酷い目に合ったって顔よ…、笑えるわ」

 なんだこいつは。

「そうだね、ケイスケは殴っておかないとね」

 辺りの民家なんて初めから存在していないと思っているかのように大声を出して、女がまた笑う。

「じゃあ私が代わりにやっとく」

 握り拳を作って見せた後、女が歩き出す。オープン・レストランの脇に、知らなければ絶対に入ることはないだろうという細い道があって、女が入っていく。僕も女に続いた。建物と建物の間のとても意図して作られたとは思えない道を抜けると、思っていたより広い空間に出る。中庭らしき敷地にL字型のホテル、というよりかはアパートのような建物が現れる。中庭の入口に立てられた看板には装飾された文字で『ホテル・セントラル』と描かれてあった。

 中庭の端まで進んだ女が振り返る。

「泊まるんでしょ、管理人呼んでくるわ」

「いや、こんな時間だし、寝てるんじゃないかな」

「平気よ、起こしてくるわ。お客さんなんでしょ、あなた」

「いいよ悪いから…、ここで寝てるからさ、起きてきそうな時間に行ってみるよ。一応さ、ケイスケには伝えといてよ」

 僕は中庭にあった木製のベンチに横たわる。黒ずんで角や端がささくれているベンチは寝転ぶと少し軋んだが、壊れることはなさそうだった。すぐにでも目が閉じていきそうで、指先で瞼を擦る。

「ケイスケの部屋、そこよ」

 女が一階の部屋を指差す。

「わかった…、ちゃんと殴っといてくれよ」

 女がまた笑う。

「サエコよ」

 静かな声だったが思ったよりも近い。瞼を開いてサエコを見ると、ベンチのすぐ目の前に立っていて僕を見下ろしていた。

「あなた、ここで恋人居ないでしょ。今度紹介してあげるわ」

 そう言うとサエコは僕に背を向けて歩き出す。ケイスケの部屋の前で一度こちらを向いたので、僕は手を挙げて応える。

「じゃあね」

 サエコは恐らくそう言って、笑みを浮かべたまま部屋の中に消えていった。

 僕はベンチに横になったまま、手を組んで頭を抱える。中庭の木々の間から見えた空が輝いている。バーハーツを出た頃よりも空が明るんできていて、頭上の雲が紫に染まっていた。瞼を閉じる。暗闇は広がらなかった。真っ白な視界の中に、すぐに意識は消えていった。

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