レッド・アイズ

在間久秀

第1話

 コテージの隙間から漏れる陽光の中を、黄金色の羽虫のように舞っていた埃は焼き焦がされるように煌めいて、やがて視界から消えていった。その様子を長い時間眺めていたせいか、光で溢れた視界が白く霞んでくる。体中の熱が集まってきているかのように眼だけが熱い。どろどろと目尻から溶け零れそうなのは涙なのか眼球自体なのかわからず、僕はしばらくの間、瞬きをすることができなかった。

「…何やってんだよ」

 コテージの床に座り込んでいたケイスケがそう言って笑う。返事をしようと体を起こすが上手くいかない。力を抜いてソファーに転がる。顔を埋めたソファーのクッションは、日向で捕まえた猫の背中の匂いがした。

「何でもないけどさ…。それ…、どうする、巻くやつとか持ってる?」

 僕は横になったままそう返す。ケイスケは首を傾げながら考え込む。

「いや、持ってない…、煙草ばらして巻くのもめんどくさいしな。でもすごいねこれ、乾ききってないし、鮮度高いんじゃない…、どうやって手に入れたの」

 ケイスケは煙草の煙を吐き出すと、大麻が入ったパケ袋の中に鼻を突っ込んで匂いを嗅いでいる。

「道路から入ってすぐの入口んところさ、小屋あったでしょ。そこに居た奴…、わかる?」

「あったけど…、人は居なかったな」

「…ここ、どうやってきたの?」

「ん…、カブだよ。港に迎えに行ったやつと同じ」

「何?」

「カブだよカブ…、バイク。すぐに仕入れに行こうって言うから急いで来たのにさ、お前もう手に入れちゃってるし」

「言ったけど違う。周りはさ、同じようなコテージだらけでしょ、どうやってこの部屋だってわかったの」

「ああ、ここね。背の低い…、管理人かな、そこをぶらついてたからさ、その人に訊いて来た」

 ケイスケは煙草を挟んだままコテージの外を指差す。

「陽に焼けてた奴?」

「そうだけど、この辺の人ってみんな焼けてんじゃん」

「そいつだよ、たぶん。そいつにそれ貰ったの」

「へえ、そういやずっと目が緩みっぱなしだったな。プッシャーかな」

 ケイスケはそう言いながら煙草を床に押し付けて火を消した。

「知らないけどさ、なんかやばい奴なのかもね…」

 僕はそう言いながら男の顔を思い出した。管理人らしきその男は、入口の小屋で見掛けたときからずっとにやついていた。陽に焼けてくすんだ肌に濡れた目を輝かせながら、大きな中華鍋を揺らして料理を作っていたが、なんだ、あいつ。

「…で、どうすんの」

「あ、ごめん…、何?」

 僕が聞き返すとケイスケが笑う。

「いやさ…、これからどうするよ」

「…取りあえずさ、何かで巻けないのそのハッパ、匂いだけ嗅いでても面白くないでしょ。それとも先に買い出しに行くか…。リズラとか売ってるとこあるんじゃないの」

「あるけど、それも面倒だしな。何か紙とか持ってない? メモ帳とかでもいいんだけど」

「そんなの持ってないよ…」

 そう言ってすぐに、僕はジーンズの後ポケットに仕舞っていたフライヤーを取り出した。

「あるじゃん。何それ」

「…港で貰ったんだけどね、今思い出した」

 僕はフライヤーを一目見てケイスケに渡す。コピーにコピーを重ねたような粗末なもので、イベントか何かの告知だろうとは思ったが、太陽か月らしきものが描かれていること以外、内容はよく理解できなかった。フェリーから島に降り立ったときにこれを渡してきたオカマの笑みと、薪を燃やしたような香水の匂いを思い出した。

「…それで巻ける?」

「ちょっと固いけど、いけると思う」

「煙草なしで巻いてよ。さっきの管理人が巻いたやつ、きつい煙草入っててさ、重くて落ちそうだったよ」

 何度か頷きながら背中を丸めると、ケイスケは破いたフライヤーでジョイントを巻き始めた。床に目を落としたまま手先だけを動かしている。

「それ、なんの告知なのかな。わかる?」

「なんつったかな…、名前忘れたけど、パーティがあるんだよ、イベント。そういや今日だったかな」

「へえ。でかいイベントなの?」

「すげえ盛り上がるよ…、行けそうなら行ってみるか」

「寝床決まってたらね。落ちつかないよ、ここじゃ」

「この部屋じゃあな…、雨漏りとかしそうじゃん」

「待合室みたいなもんだって言ってたから、ここで寝るわけじゃないんだろうけど、実際わかんないな…、部屋空いたら知らせてくれるって言ってたけどさ。そっちのホテルはまだ空かないのかな。空いてんならさっさと移りたいんだけど」

「どうだろ…、今日中にはって言ってたんだけどね。空いたら絶対移ってきたほうがいいよ、ほんとぶっトンでる奴ばっかだから」

 そう言ったケイスケの手元にラッパ状のジョイントが出来ようとしていて、僕は体を揺らして笑った。

「何だよその馬鹿でかいのは…」

「殺人クラッカー…、純度百パー」

 ケイスケは口の端に咥えたジョイントを笑顔を震わせながらそう言った。僕は笑い転げてソファーから床に落ちる。腹筋が痙攣しそうになり、息が詰まりそうになるまで笑うのを止めることができなかった。ジッポーのフリントが擦れる音がして、ケイスケが煙を吸い込み始める。僕は床に転がって息を整えながらケイスケの様子を眺める。ケイスケが溜め込んだ煙を肺から吐き出す。粉が舞ったように部屋の空気が白く濁る。ケイスケはそのまま動かない。手にあるジョイントの先から漏れた煙が天井に向かって揺らめいている。ケイスケは緩んだ目でそれを見上げている。ゆっくりと息を吹き付ける。煙は壊れなかった。ケイスケの息に巻き込まれながら乱舞するように絡み付いている。水の中を漂う精液のようだ。触れば手にまとわり付くんじゃないかと思った。

 部屋の外から砂を潰すような音が聞こえてくる。人の足音だ。夜通し聞き続けたフェリーのエンジン音のせいか耳鳴りが残っていて、水中に居るように頭の中で足音が反響している。部屋に窓がないせいか時間の感覚がない。ケイスケがこの部屋に来てからどれくらい経ったのだろうか。ケイスケはジョイントを口から離して僕を見る。何も気にしていないといった顔をしている。

「ヒロシさんが様子見に来るとか言ってたけど…」

 ケイスケが口にしたのは知らない男の名前だった。それを訊こうしたとき、ノックもなくドアが開いた。部屋の中を覗き込んだのは大麻をくれたコテージの管理人らしき男だった。シャツを着ておらず上半身裸だ。浅黒い肌に彫り込まれたような目で、床に寝転がっている僕を見る。

「海には行かないんだな…、立てる?」

 思ったより外が明るく、開いたドアから溢れてきた光に僕は目を細めた。睨んでいるように見えたかもしれないと思ったが、男はジョイントを手にしているケイスケを見て笑った。

「…部屋、空いたの?」

 僕が口を開くと、男は笑うのを止めて考え込む。

「いや、まだだね。午後から出るって客が居たんだけど、ぐずぐずしてる。出ないかもしれない」

「…空いたら言ってくれよ」

「わかった」

 男はそう頷くと、膝で切られたジーンズのポケットから、使い込まれて皺だらけのパケ袋を取り出した。

「こっちはやらないのかな…、タダとは言えないけど」

 パケ袋の中にはラムネのような錠剤が見えた。男は辺りの様子を気にしながら、手の平で包み隠すようにそれを見せてくる。はっきりとは見えなかったが、ピンクか白か丁度その中間の色で、何粒か数えている内に男はそれをポケットに仕舞った。

「今はいらない。でもそれ何?」

「一晩中踊ってられるクスリ…、害はない」

 嘘付け。

「用があったら呼ぶからさ、とにかく部屋が空いたら言ってよ。ここじゃ寝れない」

 男はドアノブを握ったまま頷くと、目が合ったらしくケイスケに会釈して、にやついた。

「わかった。腹が減ったら言ってくれよ、何か作るから」

 そう言った男は玩具のパーツを填め込む子供のような笑みを浮かべたまま、ドアを閉め切るまで僕から目を離さなかった。ドアが閉まった後、金具が緩んでいるのか反動で少しドアが開く。その隙間からコテージから離れていく男の足音が聞こえてくる。

「なんだあいつ。管理人なの、それともプッシャーなの」

 しばらく黙っていたケイスケがそう言って笑った。

「両方でしょ。それに、コックもやってるみたいよ」

 僕はそう言いながら体を起こす。男の足音がいつまでも聞こえていて、消えそうな気がしなかった。にやついた男の顔が頭から離れない。入口の前で足踏みをしながら部屋の中の様子を伺っているんじゃないかと思った。ドアを閉めようと立ち上がる。足を前に出そうとしたとき視界がずれた。立ち眩みがする。もつれる足を抑えながらコテージの壁に手を突く。

「何やってんの…」

 ケイスケが笑う。僕は何も返す余裕がなかった。こめかみに錨を括り付けられたかのように頭が揺れている。視界が締め付けられていくようだった。吐き気がする。滲んでいた涙がこぼれてくる。涙を拭った手の甲は僅かに濡れた程度だったが、すぐに蒸発していきそうなほど熱かった。何が可笑しいのかケイスケはずっと笑い続けている。前のめりでドアノブに手を掛ける。閉めようとしたつもりだったが力の加減ができず、勢いで逆にドアが開く。まばらな林が視界に広がる。見える範囲には誰も居なかった。林の木々の先端に、枝の間を埋めるような青い空が見える。僕はドアノブを握ったまま動きを止める。何故立ち上がったのかも忘れていた。そのまま外に出る。高床になっているコテージの階段に座る。空気が冷めているのは体の熱気が晒されたからで、部屋の中で感じた寒気とは違っていた。管理人の男が何度も海に行けと勧めてきたことを思い出す。林の先には海があって、周りの砂地はそのまま浜辺に繋がっているんだろうと思った。ここからでは何も見えなかったが、波の音が聞こえてきそうな気がする。フェリーに乗っているときに見た入道雲は、青空と混ざり合うように掠れきって空を漂っていた。

「…だから、何やってんのよ」

 ケイスケもコテージから出てくる。僕の横に座る。

「この林の辺りって砂地じゃん、これって砂浜なのかな。潮満ちてくるんなら楽しそうだよな」

「何だよそれ、よくわかんないなあ」

 ケイスケがまた笑う。しばらく続いた笑い声が止むと、入り組んだ木々の奥から人の声が聞こえてくる。入口の近く、管理人の男が居る小屋の辺りだと思う。言葉としては理解できないほどの微かな音だったが、パーツごとに分解して掴めそうなほど鮮明に聞こえた。会話が終わったのか声がしなくなると、風が吹いた。木の葉が擦れる音に紛れて砂を踏む足音がする。誰かが近付いてくる。

「…おいっす」

 ナイフを刺されて飛び出る人形のように木の陰から男が出てきた。ケイスケが笑い出したので、釣られて僕も笑った。男を指差しながら途切れそうな声で、「ヒロシさん」とケイスケが言った。

「ここに泊まるん? 寝床にするんはきついなあ…、小屋にしか見えんけど」

 ヒロシが僕とケイスケの前に立ってそう言った。ケイスケに話し掛けているのだろうと思ったが、野球帽の鍔の陰から見えた目の先は僕に向けられていた。

「ヒロシさんもいっとく? 俺もさっき来たばっかなんだけど、一人でぶっトンでたんだよ、こいつ」

 手にしたジョイントをヒロシに渡しながらケイスケがそう言った。

「島に着いたばっかしやろ、右も左もわからんのにようやるなあ」

 ヒロシは唇を歪ませて笑みを作りながら、ジョイントを吸い込む。

「…いや、ここの管理人が変な奴で、プッシャーなのかもしんないけど、挨拶代わりってやつかな、結構なもの貰っちゃって。最初はガツンときちゃってたからさ、動けなかったよ」

 僕がそう言うと、ジョイントを口から離したヒロシが何度か頷く。

「モノ、だいぶいいみたいやね」

「うん、そんなに知ってるわけじゃないけど、結構上のほうだろうなって」

「さっき違うクスリ売りつけられそうになったから、たぶんプッシャーだよ。ヒロシさん、知ってる?」

 ケイスケはそう言いながら縮れた髪を掻き上げると、手にしていた薄い緑色のサングラスを耳に掛けた。

「この辺の海岸沿いってそういうの一杯おるやろ…、ちょっとわからんなあ。でも、気を付けてな、滅多にはおらんとは思うけど、タレコミやら何あるかわからんから。欲しいモノあったら僕に言ってくれたらいいよ、何でも持ってるから」

「何でもって…」

「うん、何でもやね…、揃わんモノないと思うよ。別にプッシャーとは違うから、商売でやってるわけじゃないんやけどね」

「何でも揃っててプッシャーじゃなかったら、相当なコレクターだよね、やばいじゃん、かなり」

 僕がそう言うとヒロシが笑う。

「…島に来た初日からぶっトンでるんには敵わんけどね」

 ヒロシの言葉に釣られてケイスケも笑った。

「ホテル空きそうかな…、できたら移らせたいんだけど」

 ケイスケは煙草を咥えながらそう言うと、青い塗装が剥がれかけたチタンのジッポーで火を点けた。

「そうやね…、来たらいいよ。空きそうな感じはしてたから、サクラ・バーにでも行って聞いてみようか、誰か知ってるかもしれんから」

「…荷物、どうしよう」

 僕の代わりにケイスケがヒロシに訊いた。

「置いとけばええよ、空いてんのわかったら取りに来ればええし」

 ヒロシは手にしていたジョイントを地面で踏み消すと、元来た道を入口に向かって歩き出した。ケイスケが歩いていくヒロシを指差す。

「あの人やばいからさ…、付いていったら楽しいよ、絶対」

 ケイスケがそう言ってにやつく。僕はケイスケが咥えていた煙草を奪って吸った。ケイスケは僕の顔を見ながら立ち上がる。ズボンのポケットから潰れかけた煙草のケースを取り出すと、そのまま僕の胸ポケットに押し込んでくる。

「煙草、無いなら売ってるとこ教えとくよ。お前が吸ってんの、あれ売ってるとこってあんまないからさ…」

 ケイスケはそう言うと、ヒロシの後を追って歩き出す。僕は煙草を咥えたままゆっくりと立ち上がる。しばらく二人の背中を眺めていると、ケイスケが振り返る。目一杯の笑みを浮かべている。

「ウェルカム…、よく来たな」

 ケイスケはそう言いながら、僕に向かって両手を広げた。林の間から射してきた陽が、サングラスに当たって輝いている。

「…なんだよそれ」

 僕は笑いながら二人の後に付いていく。前を歩く二人の背中が真っ白な光の中に溶け込んでいきそうな気がした。しばらく歩いていると、林の中からノイズのような音が聞こえてくる。何かの機械が動いているんじゃないかと思ったが、それらしきものは見当たらなかった。

「なんだろあれ…、あのジーッて音」

「ああ。蝉…、でっかい蝉がいるんだよ、この島にしか居ない種類なのかも。どこに行ってもさ、しょっちゅう鳴いてるよ」

「ラジオみたいだな…」

 僕が呟いた声はケイスケには届かなかった。ケイスケは何も反応せずに歩いている。いつまで経っても鳴りださない壊れたラジオを聞いているようで、僕は何でもいいから音楽が欲しいと思った。

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