第174話 ネトゲ廃人のトリック
……え?
一瞬、僕は固まった。
AVGだったらほぼ間違いなく「GAME OVER」の文字が出て当たり前のピンチだ。それなのに、身動きもできないのにはわけがある。
あまりにも信じられないものを見て、思考が停止してしまったのだ。
吸血鬼ヴォクス男爵が、目の前で、しゃがんでいた。
いわゆるウンコ座りをして、床に落ちた豆を拾っている。
……何で?
考えているヒマはなかった。うまく行けばヴォクスを倒す絶好のチャンスなのだ。腰をかがめて背中を丸めたまま、ひたすら指先で小さな豆をひとつずつ拾っては、もう一方の手の中に放りこんでいるのだ。
こんなに無防備な状態はない。
……でも。
吸血鬼を倒す方法は、そんなにないのだった。ニンニクでは追い払えるけど、倒せないし、だいたい、ここにはない。十字架にできそうなものも、ない。白木の杭と木槌も、どこかに置いてきてしまった。
とりあえず、この小屋から出て、戦う道具になりそうなものを村の人に持ってきてもらうしかない。
豆を拾うのに夢中のヴォクスを置いて、壁の穴から外に出るのは何でもないだろう。その大穴の外では、僕が引いてきた荷車が、いつの間にか横倒しになっている。
でも、それを小屋から引っ張り出した村人たちは、どこにもいない。それどころか、馬から逃げ回っていたはずの人たちも、いない。
馬は馬で、とっくにどこかへ行ってしまっていた。
……逃げちゃったんだ、な。
すると、ヴォクスからは逃げるしかない。そのうち、リズァークもテヒブさんを追って、この村にやってくるはずだ。そうなれば、城での戦いが再現されることになる。わざわざ僕がヴォクスと戦うことはないのだ。
さっさと逃げようと思ったけど、そこで気付いたことがあった。
リズァークじゃ、ヴォクスを倒せない。
そんなことができるんなら、こんなことになってない。
自分で何とかするしかなかった。
どうやら、吸血鬼には僕が知らない弱点があったらしい。豆みたいに細かいものを見ると、つい、拾ってしまうのだ。
……と、いうことは。
逃げる時に何かバラまいていけば、時間だけは稼げる。じゃあ、何をって話になるわけだが、ここには1つしかない。
僕は豆の袋を掴んだ。結構重かったけど、引きずれないほどじゃない。ヴォクスはそれを、ものすごい目でじっと見ていたけど、何もしてこなかった。その手が、やっぱり豆を拾っていたからだ。
横倒しになった荷車は、豆の袋なんかよりずっと重かった。でも、それを起こす時間はたっぷりあったわけだ。
その上に積んだ豆の袋の封を、ちょこっとほどく。荷車を引いて歩きだすと、小さい粒がぽろぽろと地面にこぼれていった。
思った通り、ヴォクスは豆を拾いながら歩きだした。その一粒ずつにいちいち指を伸ばしては拾い、拾った豆をいちいちもう一方の手の中に入れる。
そのうち、手の中の豆はいっぱいになってこぼれる。するとヴォクスはそれを拾うことなく、目の前の豆を拾いはじめるのだった。
……そんなのに構ってられない!
重い荷車を引きながら、なんべんも後ろを振り返って、それだけ分かれば充分だった。
ただでさえ遅い僕の足は、もっと遅くなったけど、なんとかヴォクスを倒す方法を考える時間だけは稼げる。
でも、そのタイムリミットが意外と早くやってきた。
豆が、なくなった。
拾う者がなくなれば、ヴォクスはまた追ってくる。それも、たぶん一瞬で。
コウモリになったり霧になったり、そうじゃなくても、吸血鬼が本気出したら、稼いだ距離なんかすぐに詰められてしまう。
……まずいなあ。
ヴォクスが来ないか気になって、後ろをちらっと見たら、違うものが見えた。
遠くで、何かの火がたくさん揺れている。
いつも、それは松明で、そこに行くと嫌なことばっかり起こった。村の人に捕まって閉じ込められたり殴られたり、森の中で松明持った兵士についていったら捕まって縛られたり。
……捕まってばっかりだ。
近寄らないのがいちばんいい。でも、今度は、何だろう。
ヴォクス? そんなわけない。今は、小さな豆を拾うのに夢中のはずだ。
じゃあ、リズァーク? たぶん、そうだ。
……ククルたちが、大人たちを呼びに行ったはずだけど。
そう思って辺りをぐるっと見てみたけど、誰も来ない。みんな怖がって、家の中に閉じこもってるんだろうか。
でも、そのうち出てこないわけにはいかなくなる。リズァークはテヒブさんを探しにきたのだろうから、見つからなかったら、今度こそ家の中まで探し回るだろう。
でも、もう、そんなことを気にしている場合じゃなかった。
《どこだ? 小僧》
リズァークの声が聞こえた。近くにはいないみたいだったけど、拾う豆がなくなったら、追いかけて来るのなんか、すぐだろう。
僕はその場に、荷車を置いて逃げた。こういうときは、真っ先に危ないところから遠くへ行くのがいちばん安全だってことを、僕はネトゲでよく知っていた。
とにかく、生き残る。
でも、僕にそのチャンスはなくなった。
「グェイブ!」
どこかで聞いたような声が聞こえたと思ったら、足が何かでロックされて動かなくなった。
何か魔法か呪いが懸かったじゃないかと思って下を見てみると、誰かがしがみついている。
でも、怖い感じはしない。何だか、子犬がじゃれついているみたいだった。
「ククル?」
さっき、リズァークがやってくることを教えてやったククルが戻ってきたのだ。逃げたいんだけど、こうしっかりと抱き着かれていては、振りほどくこともできない。
でも、ヴォクスの声はしっかり、後ろから聞こえてくる。
《逃がさんぞ、リューナを返せ》
その声が聞こえたのか、僕の足を抱えたまま、ククルは動かなくなった。大人が聞いてもビビるくらいなんだから、子供がこうなっても仕方ない。
……と、いうことは?
連れて逃げるしかない。
かわいそうだったけど、僕はククルの手を強引に引き剥がした。そのまま掴んで走りだそうとしたけど、だめだった。ククルが動かないので、2人まとめて転んだ。
仕方がないので、持ち上げて荷車に乗せることにした。僕の腕には重かったけど、そんなこと言っていられない。
あれだけベタベタしていたククルなのに、今は荷車の上で人形みたいにじっとしているのだ。
ただでさえ重い荷車なのに、ククルが乗ると余計に動かなくなる。引いて歩くのはすごく大変だった。
ヴォクスはまだ来ない。豆を拾い終わるのはいつかと思うと、胸がバクバク言いはじめる。
僕の身体も限界だったけど、荷車もそうだった。急に斜めになったかと思ったら、すぐに動かなくなった。
「え?」
しゃがんで下を覗いてみたりしたけど、空に掛かっているのが細い三日月じゃ、暗くてよく見えない。
それだけじゃなかった。ただでさえ暗いのが、僕の後ろにいつの間にか誰かが立っていたもんだから、よけいに物が見えない。
……誰が? まさか?
ヴォクスかもしれない。振り向くのが怖かったけど、見ないと本当はどうだか分からない。
ちらっと後ろを眺めてみたら、確かに、人の影が見えた。
でも、ヴォクスにしては小さい。
そこで、男の子の声がした。
「ククル?」
あの子だった。僕との間を遮るように。いつもククルにくっついている男の子だ。
ほっとしたけど、そんなに安心もしていられなかった。
《逃げてもムダだ》
ヴォクスの声だった。それは確かにそうだろうけど、だからといって何もしないわけにはいかない。僕だけじゃなくて、ククルの命までが懸かっているのだ。
それなのに、この男の子まで……僕ではとても守り切れない。
正直、焦った。そんなに体力もなくって身体も小さいのに、この壊れた荷車を2人も乗せて引っ張っていかなくちゃいけない。
でも、その心配はなくなった。あんなに重かった荷車が、簡単に動き出したからだ。振り向いてみると、もう、誰もいない。
ヴォクスもリズァークも、いつ来るか分からなかった。男の子を慌ててあちこち探してみたら、荷車の向こうに何かいる。
それで、謎が1つ解けた。男の子が荷車を、後ろから押してくれていたのだ。
でも、間に合わなかった。
《そこか》
ヴォクスは、僕に気付いたようだった。そうなると、僕の選択肢は異様に少なくなる。
懸命に走った。足が痛くなる。
そのうち、身体がふっと軽くなって、地面にごろりと転がる……はずだった。
本当は、思いっきり滑って転んだんだけど。
……ククルは? あの男の子は?
それを心配したとき、遠くでラッパを吹くみたいな音がした。たぶん、映画に出てくる角笛の音だ。
軍隊でよく使う、ラッパの音だ。
つまり、リズァークはすぐそこまで来ているということだった。
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