第161話 炎の中を行ったり来たり
ケルピーの呪いで溺れかかったばかりだった。しまったと思ったけど、身体は沈まない。何が起こったのかよく分からなくって辺りを見回すと、僕の身体に固く巻きつけられたロープが、炎を吹き上げる塔の抜け穴から伸びていた。
……何だ、これは?
考えているヒマはない。身体は冷えかかっていたけど、何とか水の中から這い上がることはできた。
そこで僕が叫んだのは、いちばん大事な一言だった。
「リューナ!」
火傷の危険からもおぼれ死ぬ危険からも逃げられたのはいいけれど、あの炎の中にリューナが倒れているかもしれないのだ。ずぶ濡れの身体は重かったけど、そんなこと言っていられない。
だいたい、全身がこれだけ水浸しなら、そんなに早く火が燃え移ることもないはずだ。思い切って、突っ込めばいい。まずは、リューナのところへたどり着くのだ。
歩くたびに全身からザブザブこぼれる水はうっとうしく、服は手足に絡みついたが、僕は気持ちの上だけでもそういうものを片っ端から引き剥がして、塔の抜け穴にたどりついた。
そこで僕が見たものは、炎に巻かれて倒れ伏した、人の身体だった。
「リューナ……」
では、なかった。背甲が、炎の色を照り返している。その傍らにはハルバード《斧鉾》が深々と床に突き刺され、僕の身体に括りつけられたロープは、その長い柄から伸びていた。
「リューナは……」
地下室はそんなに広くなかったが、他の誰の姿もない。代わりに、頭の中に響く声が答えた。
《ここだ》
ヴォクスかと思ったが、他の人の声だ。
すると、これができるのはあと2人しかいない。吸血鬼の下僕にされたリューナか、それとも……。
《リューナはオイが連れていく》
上へと続く螺旋階段から、リューナを穀物の袋のように担いだ小柄な男が見下ろしていた。
「テヒブさん!」
これは何といったらいいんだろうか、守ってくれているのか、さらっていこうとしているのか、どっちなんだろう。
《嫌なら、奪い返してみるか?》
テヒブさんとしては、さらっていくつもりらしい。でも、グェイブは階段のどこに落としたか分からない。使えるとすれば……。
僕はとっさに、地面からハルバードを抜こうとした。
《嬉しいぞ、シャント》
テヒブさんは満足げだったが、褒められても、あんまり嬉しくない。ここは暑いし狭いし、武器も使い慣れていないものだ。相手がテヒブさんでは、勝ち目などあるわけがない。
《来い。オイは片手でも戦える》
たぶん、そうだろう。この兵士だって相当訓練を積んでいるんだろうけど、ハルバードを振るってさえテヒブさんには敵わなかったのだ。やっと棒を振り回せる程度で、今までグェイブの魔力に頼っていた僕なんか、片手で張り倒されるかもしれない。
……でも!
テヒブさんに習った棒の要領を思い出しながら、ハルバードの先を階段に向かって突き出す。思いっきり突き出せば、届くはずだ。
確かに、届いた。でも、当たらなければ意味がない。鋭くなった先端の部分は、テヒブさんの手の甲で軽く弾かれてしまった。
《甘いな》
「この!」
それなら、手を払えないようにすればいい。今度は斧の先を寝かせて、思いっきり横に振ってみた。1歩退いて斧をかわしても、さっきの穂先が身体を切り裂くはずだ。
思った通り、手でハルバードを弾き返されることはなかった。テヒブさんは1歩退くことさえしない。でも、やっぱり命中はしなかった。
テヒブさんはリューナを担いだまま、斧の高さギリギリに跳躍したのだった。
《いい思い付きだ。長い柄の先の重い斧を横に振った分、勢いもつく。だがな……》
長々と話すテヒブさんに、僕は何もできなかった。説明された通りのことが起こったからだ。
大振りのハルバードには、それなりの破壊力があった。でも、目標に当たらなければ、意味がないどころか、圧倒的に不利な状態になる。
斧の部分が、壁にめり込んで抜けなくなってしまったのだ。
《威力の大きな武器を使うんなら、その後のことも考えることだ。どうもグェイブは、オンシの手には負えんようだな》
燃え盛る炎の中で必死にハルバードを抜こうとしている僕に、テヒブさんは吸血鬼の下僕っぽい冷たさで言い残した。壁に刺さったハルバードの長い柄が邪魔になって、近づくことも出来ない。
「テヒブさん!」
僕が呼ぶ声に返事はなかった。リューナをかついだまま、テヒブさんは螺旋階段を2段くらい飛ばして、さっさと登って行ってしまった。
追いかけたって、絶対に間に合わない。でも、僕は少しほっとしてもいた。
テヒブさんなら、絶対にリューナを守ってくれるはずだからだ。この炎の中から僕が引きずり出すよりは、はるかに安全だろう。
すると僕も、ここからはさっさと脱出したほうがいい。もう、階段は炎の光で真っ赤だった。焼け死にたくなかったら、まず、水のあるところへ行かなくてはいけない。
もう、服も乾き切ってぱりぱりになっていた。このままだと、どこかに火がついたら黒焦げにされてしまう!
そう思ってるうちに、もう、体中からぶすぶす黒い煙が出ていた。とにかく、ここから離れなくてはいけなかった。
とりあえず、僕は煙の出ているところを片っ端から叩きながら、塔の抜け穴めがけて突進した。炎に包まれた塔の中に比べたら、外はどれだけ涼しいか分からない。
村長が暮れた狩人の服をどう脱いだらいいか分からなかったから、とりあえず、地面を転がって、どこかに移ったかもしれない火を消すしかなかった。
どこをどう転がったのか分からないうちに、ふっと身体が軽くなった気がした。
……やばっ!
目の前に堀の水が見える。転がり落ちないように手で地面の端っこを掴んで、ブレーキをかけた。
「おおおおおお!」
全身の力を指と手首に集中して、水に落ちるギリギリのところで身体を止める。
「危なかった……」
また、あの寒気が襲ってくる。でも熱いところにいたからちょうどいいとか、そういうふうにはいかない。ケルピーの呪いなのだ。身体がガタガタ震えて背中がどんどん丸まっていく。
でも、そんなことばかりもしていられなかった。震えている手の辺りに、何か大きな固いものが突き立てられたのだ。
どこかで、誰かが叫ぶ声が聞こえる。
「……! ……殺せ!」
何とか聞き取れた異世界語に、思わずビクっとして、身体が勝手に跳ね起きる。何が起こったのか見てみると、枯れた堀の端っこに残った地面に、ハシゴが斜めにかかっていた。堀の向こうの、高いところからだ。
リズァークの兵士たちは、さっさとハシゴを渡ってきた。僕を見つけたのか、お互いに声をかけあう。
「……! 逃がすな!」
「捕まえろ! ……!」
こっちもヴォクスと戦っているのに、明らかに敵だと思われていた。ここはもう、逃げるしかない。でも、まだ身体がすくんで動けなかった。もしかすると、ケルピーの呪いなんかじゃなくて、ただ単に怖かっただけかもしれない。
どっちでもいいけど、這って逃げるしかなかった。もちろん、手も足もなかなか動かないから、全然進まない。
ひとり、またひとりと、ハシゴから下りてきたのが分かった。何人もの足音が近づいてくる。
逃げ切ろうと思ったら、行く場所は一つしかない。塔の抜け穴からは、炎が噴き出している。ここに潜り込むのだ。
何とか這い込むと、頭の上を熱い炎がどっと吹いて通っていった。
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