第160話 ネトゲ廃人は学ばない

 やっとの思いで這い上がろうとした砂地に誰かが立っているのは分かっていた。たぶんヴォクスだと見当がついたときは、さすがに、もうおしまいだと思った。

 もう一回沈められるか、それとも力任せに引きずり上げられて、サンドバッグにされるか。

 でも、さっき、ヴォクスが僕にしたのは、頭を踏んづけて、堀を渡るための飛び石にすることだった。

 そこで思い当たったのは、なぜ、僕を水中で仕留めなかったのかということだ。理由は、すぐに分かった。

 吸血鬼は、流れる水を渡れない。あのとき、泳げない僕はじたばたもがいたけど、そのとき、渦か何かができたのだ。それも水の流れだから、ヴォクスは僕に触ることもできなかったのだ。

 このまま水の中にいれば、多分安全なんだろう。でも、身動きも取れない。水の中にを鎮めていると、息も続かない。

 それに、身体がどこまでも冷たくなって、手足の自由も利かなくなってきた。心当たりのある感覚だった。

 ケルピーの呪いだ。

 水車小屋の近くでも、こうなった。ましてや、水に浸かったりした日には、もっと恐ろしいことになっても不思議はない。

  水から上がらないと、死んでしまう!

 ……何とか、ヴォクスがここを離れてくれれば。

 そう思ったときだった。

 何か明るいものが頭の上にずらっと並んだかと思うと、ヴォクスは砂地を蹴った。何かが堀の上から、凄い勢いで水の中に撃ち込まれる。僕は慌てて、水の中から上がった。

 ……助かった!

 思いっきりぜーぜーと息をついたけど、誰も気にする者なんかいないくらい、水の上はたいへんことになっていた。

 堀の上から、次々と兵士が転落してくる。水面に浮かんでくるのは、背甲と胸甲バック&ブレストを装着した兵士たちだ。その背中や腹には、バリスタと呼ばれる太い矢が刺さっている。

 そこで、僕は気付いた。

 ……リズァークが帰ってきたんだ!

 堀の向こうからも火の手が上がる。たぶん、ヴォクスに対する陽動だ。僕なら、城を守ろうとするヴォクスを背後から襲うという作戦を立てる。これをリズァークが思いつかないわけがない。

 ……ということは?

 ヴォクスにとって、今の僕は、いわゆるアウトオブ眼中だ。リズァークから城を守るので精一杯なはずだ。

 逃げるなら、今がチャンス。戦闘にさえ巻き込まれなればいいんだ。タイミングとしては、ヴォクスがタワーディフェンス……っていうかキャッスルディフェンスに回ったときなんだろうけど。

 崖の上では、まだ戦闘が続いている。ヴォクスが霧やコウモリに変身して逃げようにも、リズァークの軍勢が猛攻をかけていて、とてもそんな余裕がないのだ。

 ……もう少し、待とう。

 問題は、このままリューナまでが落城に巻き込まれるんじゃないかってことだ。おかしな話だけど、この場合はなんとかヴォクスやテヒブさんに持ちこたえてもらうしかない。

 その隙に、僕は僕で村へたどり着いて、もう一度、吸血鬼退治の装備を揃えるのだ。

 でも、そのテヒブさんはどこにいるんだろうか。もう、堀を越えてリズァークの軍勢と戦っているんだろうか?

 そんなことを考えているうちに、さっき抜け出してきた塔の根元の抜け穴に、ぼんやりとした光が差してきた。

 ……やっと来た!

 そう思ったけど、松明の炎がリューナを照らし出したとき、傍らに立っていたのは期待した相手じゃなかった。

 背甲と胸甲バック&ブレスト、腰の剣で武装した、リズァークの兵士だったのだ。

 暗いし、遠いからよく分からなかったけど、地下室の床で真っ赤に揺れるリューナの服は、胸元が大きくひらいてゆっくりした、ネグリジェみたいな……。

「おおおおおお!」 

 叫んでいるのが自分でも分からなくなるくらい、思考はとっくの昔に停止していた。そうでないと、考えたくないことも考えてしまいそうだった。

 リューナはヴォクスに血を吸われて、今はもうもう下僕にされている。僕もさっき、喉に牙を突き立てられるところだった。

 白状すると、僕を呼ぶ声も、耳元の息もすっごく甘かった。あのまま血を吸われてもいいんじゃないかって気がした。

 もし、リューナが目を覚まして、あの兵士に同じことをしたら……絶対にイヤだ、そんなの見たくない!

 牙の感触が首筋に来て、ハッと正気を取り戻したのは、このままエナジードレインされたら、僕も吸血鬼にされると感じたからだ。絶対にそれはイヤだったのだ。

 でも、もがいても頼んでも、リューナは放してくれなかった。腕の力なんか物凄くて、今でも関節が痛い。

 もしかすると兵士も抵抗するかもしれない。もし、リューナに倒されたら、吸血鬼が1人増える。そんなことは最悪の事態だし、リューナにもさせたくない。

 でも、今、リューナは白バラの力で気を失っている。このまま殺されてしまうかもしれない。いや、それどころか……!

 そういうエロゲがあるって、知ってはいた。戦闘で巨乳系でも貧乳系でも、とにかく相手の女の子を倒して、その後は……。

 考えたくなかったし、リューナをそんな目に遭わせるなんてことはできない。僕は全力で丸木橋の上を駆け出した。

「あっ!」

 どれだけ自分を忘れるくらいカッとなっても、トラップを無意識のうちに突破できるなんてことはあり得ない。そんなのは、マンガかアニメの世界だけだ。

 僕は足を滑らせて、また水の中に落ちた。この堀は、水が少なくなっているように見えても、深さが結構ある。少なくとも、僕の背は立たない。

 ケルピーと戦ったときもそうだったけど、僕はまるで泳げないのだ。それに、あの呪いが手足を凍りつかせる。

 身体が、どんどん水の底へと沈んでいった。

 ……死んで、たまるか!

 力の限り、もがいた。動けなくても、もがいた。とにかく、みっともないくらいじたばたした。

 そのうちに、息が苦しくなっていって、どんどん気が遠くなってくる。

 ……やっぱり、ダメか。

 そう思ったとき、目の前に炎の色がパッと広がった。リズァークの部下が、城に火を放ったんだろう。

 すると、リューナはどうなっただろうか。あの兵士を倒してでも逃げていてくれればいいんだけど。でも、炎に巻かれながら、兵士たちがリューナに何かできるとも思えない。

 ……あ、それより、僕か。

 なんとか水面に上がらないとダメだけど、もう、身体が冷え切って力が入らない。

 背中が、何か固いものに当たった。たぶん、堀の底だ。軽装の兵士が、何人も沈んでいる。ヴォクスにやられたんだろう。

 僕は、ケルピー川馬の呪いで……。

 頭の中にぼんやりと浮かんできたものがあった。炎の色を透かして、僕をバカにするかのように、水面でぐるぐる泳いでいる細長い何かだ。

 それが、ぐんぐんと僕に迫ってくる。

 ケルピーが来たのかもしれない。今度こそ、僕の内臓を食い荒らしていくんだろう。そうなれば、身体がちょっとは軽くなって、水の上に浮かぶかもしれない。

 そう思ったときだった。背中の辺りがガクンと何かに引っかけられ、僕は沈んでいくときとは真逆の方向とスピードで持ち上げられていった。

 ……な、何だあ?

 別の意味で息が苦しくなって、意識もすっと遠のいていく。でも、それだって長くは続かなかった。

 布がじりじり焼けるような焦げ臭さで目が覚める。火事でも起こったんだろうか。辺りを見渡すと、まず、僕の服に火がついている。

「熱つっ!」

 思わず跳ね起きて、水を探す。すぐ目の前に、炎の色が揺れる水面があった。とっさに飛び込んで、気が付いた。

 ……ダメだろ、死ぬ!

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