第143話 悪の守護天使、揺れる心に戸惑う

 語気を荒らげると、女どもはちょっと後じさった。卑怯なやり方だったが、うるさい女を黙らせるには、一喝するのが早いようだった。

「そ、そう……」

 1人がようやく口を開いて、他の女子たちと顔を見合わせる。だが、トドメを刺したのは、その背後から聞こえた冷たい声だった。

「そうだったんだ、八十島君……ショックだな」

 綾見沙羅だった。アンデルセンの『雪の女王』もかくやと思うようなブリザードが背中に見えるほどの凍てつく風を背負って、足音もなく歩いてくる。

 これが異世界の姫君がまとうオーラというものなのだろう、豊かな胸の前で組んだ腕が、尊大で威圧的に見えた。 

 そのプレッシャーは同性のほうが感じやすいものらしく、女子たちはボウリングの玉に弾かれたピンのように、こけつまろびつ逃げ出した。残されたのは、俺と沙羅だけだった。

 冷ややかな眼差しを俺に向けた沙羅は、短く言い放った。

「世話かけないで」

「……すまん」

 思わずそう答えたが、何だか既に、沙羅の下僕にされてしまっているような気がして言い返した。

「俺の問題だろ」

「そうね……」 

 体育館の屋根の向こうに青空を眺めて、沙羅はしばし考えた。やがて、俺に向き直るなり、哀し気に言った。

「八十島君が私のこと、どう思ってるかよく分かった」

「どう思ってるって……」

 こうなると、売り言葉に買い言葉というヤツだった。俺も後には引けない。

「もともと、どうでもないだろ」

 すると、沙羅の顔が急に、明るくほころんだ。俺に背を向けるなり、妙に上機嫌な口調で答える。

「じゃあね! 無理言ってごめん!」

 無理、といきなり言われて面食らったが、俺が沙羅をクリスマスパーティーに誘うという話のことだと察しがついた。

 門限の厳しい俺がしょい込まされた悩みは、あっさりと解決したわけである。

 だが、その分、俺は拍子抜けした。そのまますたすた歩み去ろうとするのを、面食らった俺はつい呼び止めないではいられなかった。

「じゃあ、お前はあっちに……」

 俺が誘い出さなくていいということは、男子どもの誘いを受けるということだ。それはそれで、なぜか気になった。

 だが、沙羅はちらりと振り返っただけで、俺の問いを軽く受け流した。

「私たち、何の関係もないんでしょう?」

 その言い方には、ちょっとカチンときた。何の関係もなかった俺は、無理やりに沙羅と結びつけられたのだから。

「お前は、俺の対戦相手だ」

「……そうだったわね」

 沙羅は微かに笑って、山から吹き下ろす風の中を歩いていく。俺は何故か追いすがりそうになったが、これも妙な意地が邪魔をして、一歩も動くことができなかった。

 そんな俺をからかうかのように、沙羅は長い編み髪の揺れる背中で告げる。

「もう、昼休み終わるよ。急いだら?」

 俺は黙って見送るしかなかったが、沙羅の影が体育館の角を曲がるとき、最後の一言が風に乗って聞こえてきた。

「何かのときは一応、声はかけてあげる」

 

 その日の午後を、俺は悶々として過ごすことになった。下校までたかが2時間弱のことなのに、その時は永遠に来ないような気がしていた。

 いや、来てほしくなかった。そうなれば、土日の2日間、沙羅の顔は見られなくなるからだ。だからどうしたと言われればそれまでなのだが、こんな形で遠く離れたまま、時間を空けたくはなかった。

 5時間目が終わると、例の如く、他クラスの男子たちが沙羅の顔を拝みに来た。それを女子たちが教室の外で眺めては悪態をつくのも、いつものことだった。

 だが、今日ばかりは沙羅が席を立って、男子たちを教室から連れ出した。

「ねえ、ちょっと大事な話……外で」

 当然のことながら、男どもはぞろぞろとついていったが、代わりに教室へなだれ込んできたのは女子たちだった。

 俺の机の周りは、また包囲される。こういうとき、クラスの連中にはなかなか助けを求められるものではないし、ましてや今、こいつらの魂は文字通り、異世界へトリップしてしまっている。

 用件は、言われる前から分かっていた。あとは、次のチャイムが鳴るまでどうやって凌ぐかということだ。

 最初の一言で、俺はこの数分間のスタンスを決めた。

「あれ、どういうこと?」

「見ての通り」

 下手に言い訳しないで、女子数名の怒声を浴び続けることにしたのだ。持久戦にはなるが、どうせこの土日に顔を合わせることはない。2日間は平穏無事な生活を送ることができるだろう。

 ……沙羅とのバトルを除いては、な。

 そのバトルが待ち遠しく思われるのは、不思議だった。異世界にいる山藤が再びトラブルに巻き込まれるのを、俺は心のどこかで待ち望んでいた。

 だが、この場で凌がなくてはならないのは、俺のトラブルだった。正直に答えたつもりだったが、頼んだ、というか命じたほうにしてみれば、それは無責任に聞こえたことだろう。

「何やってたのよ」

「力及ばず、申し開きのしようもございません」

 本当に、どうすることもできなかったのだ。無理なことを押し付けられたことへの皮肉を込めて、俺は精一杯の丁寧な言葉で詫びを入れた。

 もちろん、許しが得られるはずもない。俺は猛烈な抗議に晒された。

「あんた、こういうことにならないように頼んでたんじゃない」

「だって俺には関係……」

 ないと言い切りたかったけど、続く言葉が出てこなかった。さらに非難の声が浴びせられる。

「ああいう女が1人いるだけでね、何ていうか、そう、その場の人間関係グチャグチャ……」

 それは俺ではなく、沙羅に対して言うことだ。だから、言ってやった。

「最初っから呼ばなきゃいいだろ」

 そうなのだ。まず、沙羅に声をかけてしまったのがそもそもの間違いなのだ。そうすれば、俺も門限破りのリスクを冒さなくて済む。

 女どもはそこで押し黙るかと思ったが、かえって逆上した。

「男子が呼んでんのにアタシらダメって言えないでしょ!」

「そういうとこが分かんないからこういうことになるんじゃない!」

「そこらへん空気読みなさいよ!」

 始末に負えない。

 もっと始末に負えないのは、沙羅が男子と、たいそう盛り上がった状態で教室へ戻ってくると、女どもはさっと出ていってしまったことだ。

 今の大激怒を見せてやれば、男どもも考え直すかもしれないのに……いや、かえってあの女どもが白い目で見られるか。

 兎にも角にも、当面の嵐は去った。気になるのは、沙羅がどうするかだ。この雰囲気からすると、もう、男子どもの誘いに乗ったと踏むべきなんだろうが、そうであってほしくないという気持ちが、どこかにあった。

 そのせいか、6時間目が始まっても、俺は授業に集中できなかった。視界にあったのは、黒板をまっすぐ見ている沙羅の姿だ。

 よそ見をしているのを教科担当に咎められて、俺は小さくなった。こんな波風は、めったに立つもんじゃない。しかも今回のは、俺のヘマによるものだ。

 普通ならクラス中が大爆笑になるところだが、そんな日常は10日も前に消えてなくなっている。俺は頭を掻きもせず、すみませんの一言だけで着席した。

 だが、その静寂の中で、クスリと笑う声がした。それができるのは、沙羅しかいない。窓際をちらっと眺めると、もう何事もなかったかのように、ノートの上でペンを走らせていた。

 就業のチャイムが鳴ると、もう終礼である。俺は沙羅が声をかけてくるか来ないかということばかり考えて、ろくに担任の話を聞いていなかった。 

 それを見て取ったのか、終礼後に担任は、つかつかと俺に歩み寄った。他の生徒が揃って機械のように机を教室の前に寄せて、ぞろぞろと教室を出て行ったり、掃除を始めたりしていた中である。

「昼休み、何かあったようですね、八十島君」

 縦に長い顔で見下ろされて、俺は慌てて立ち上がると、机を教室の前に寄せた。適度な距離を保って答える。

「いいえ、何にも……」

「女子たちと体育館の裏に行くのを見ました」

 言葉を遮られたまま、俺は言葉に詰まった。担任も、それ以上追求しなかった。

「何かあったら相談してください」

 教室を出ていく背広の背中を見送って、気付いたときにはもう、沙羅はいなかった。窓から外を眺めてみると、男子たちと校門を出ていくところだった。

 ……どこへ行くんだろうか。

 まさか、自宅を教えたりはするまい。俺ひとりにしか教えていないのだから。

 根本的に理屈になっていないことを考えながら、後を追うようにして校門へ急いだが、沙羅を囲む一団は、かなり遠ざかっていた。

 走れば追いつけないこともないが、駆け寄ったところでどうしようという知恵も浮かばない。

 そこへバスがやってきた。

 ……乗るか、追うか。

 バスの停車時間には限界がある。クラクションを鳴らされた俺は、考えるのも迷うのも面倒臭くなって、バスの中へ駆け込んだ。

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