第136話 守護天使たちの無言の暗闘
現実世界と異世界の時間の流れが時々違うことは知っていたが、今朝はこれが都合よく働いた。遅刻ぎりぎりのバスが来る前に、俺はバスターミナルでシャント…山藤への全ての罠を仕掛けることができたからだ。
村長から託された金貨は、最初に出現した市場で使うつもりだったらしい。
だが、そもそも市場などというものは、現実世界の日本の観光地ならともかく、ある程度の間を置いて立つものだ。どうせネトゲかなんかを参考にしたんだろうが、山藤の知識なんぞその程度のものでしかない。
案の定、山藤は無人の道端で途方に暮れることになった。
それでもどうにか、売ってもらえるものを探しには歩いた。山藤にしては根性を見せたほうだが、やったことは明らかな住居不法侵入だ。
グェイブの刃を服の背中から突き出したまま、家の中に乗り込んだのはまずい。誰でも怯えるのが当たり前だし、村人とリューナとの経緯を考えれば、仕返しでもしに来たと思われても仕方がない。中年女が抵抗したのは、むしろ勇気ある行為だったのだ。
《何にもしてないよ! あたしたちゃ!》
《お門違いだよ! 一昨日おいで! 出ていけ!》
割と複雑な言い回しが多かったから、この異世界語が山藤にどれだけ理解できたかは分からない。もし赤ん坊が泣かなかったら、またひと悶着起こっていただろう。
とりあえず家の外へ出て、グェイブを手離したのは正しい判断だった。さらに、「釣りの要らない」金貨が、怯える村人の警戒を解いたといえる。
逆に言えば、村長の渡した現金が、シャント…山藤にとってはグェイブ以上の武器になっていたのだった。
ネトゲ廃人には、分不相応というものだ。こいつを何とか取り上げる算段をしなくてはならなかった。
ありがたいことに時間の流れがいつもより早く、山藤が買い出しをしているうちに、異世界は昼になっていた。そこで俺が使った手は、畑仕事から帰ってきたモブを使って、金貨の袋を手離させることだった。
他の紐か何かで腰に括るという知恵も回らないのを見た俺の読みは当たった。荷物が多かったから、もうひとつふたつ余計なタスクを課してやれば、手に持った袋の存在くらい忘れるだろうと踏んだのだ。
案の定、金貨の袋は道端に置き忘れられ、夕べ出会った男の子に持ち逃げされた。さすがに良心がとがめたのか、その子はいったん戻ってきたが、俺がモブに「ダメだ」のサインをさせたら、すぐに引っ込んだ。
金が消えたら、あとはそれに気づかせるだけだ。俺が杭を括る紐を持ち出したのは、金貨の袋を掴んでいた手を使わせるためだった。
あとは、モブからマーカーを外すだけだった。
その本人にしてみれば、気が付いたら他人の家にいて、グェイブを背負ったシャント…山藤に見据えられていることになる。慌てて逃げ出しても不思議はない。
全速力で逃げるのを山藤が捕まえられるわけがない。途方に暮れてしゃがみ込んだところで、ちょうどバスが来た。
乗り込んでからスマホを確認してみると、帰ってきた家の主らしい男を、山藤が怒鳴りつけているところだった。すぐに人違いだと分かったのか、謝りもしないで道を走って行く。
返せよ、という一言から察するに、金貨を持ち逃げされたのではなく、だまし取られたと思ったのだろう。だが、山藤が金貨を取り戻そうとすれば、男たちが集まる村長の家に戻らなければならない。
目指す相手がそこにいるかは分からない。たとえ見つかったとしても、相手は無実で言葉も分からないから、誤解も解けない。トラブルは余計に大きくなるが、それも苦労のうちだ。
放っておくことにして、俺はスマホを鞄にしまって目を閉じた。今朝削った睡眠時間を、少しでも確保したかったのだ。
除雪が進み、融雪剤が撒かれていることもあって、川沿いの狭い道で車はスムーズに流れていた。バスも時刻表通り学校に着いて、俺は朝礼の直前で教室に滑り込むことができた。
俺とすれ違いにぞろぞろ出てきたのは、沙羅の取り巻きたちだ。昨日の失地回復に来たらしい。朝早くからご苦労なことだ。
沙羅はというと、目が合うなりそっぽを向いた。俺も知らん顔して席に着いたが、すぐに担任がやってきたので再び立たざるを得なかった。
1時間目はそのまま担任の授業になったが、冬休みが近いせいか、授業はおざなりだった。気が付いてみれば週明けはもう終業式なのだった。
漢文の授業のどのあたりからかは分からないが、担任の話は「世界の昔話」になっていた。
「追われたら逃げる。これは生物の本能だ。恐らくは……」
だから、神話や伝説、昔話の類にも「逃げる」モチーフが多く語られているのだという。
単元は教科書会社が生徒ウケを狙ったものと思しき『三国志演義』の、「長坂坡の敗走戦」である。
劉備を逃がして
魂の抜けた生徒たちは行儀よく背筋を伸ばして聞いているし、沙羅も営業スマイルで頬杖ついている。ひとりで目立っても面白くないので、どうでもいい話を俺も辛抱して聞いていた。
だが、授業の最後に担任は長細い顔に掛けた眼鏡の奥に目を光らせて、こう宣ったものである。
「追われて逃げるのは、命がかかっているときだけです。逃げなくてはならないほど命懸けのときなどソウソウないものです。曹操だけに」
教室が静まり返っていたのは、別にオヤジギャグがつまらなかったからではない。俺と沙羅を除いて全員、魂が抜けていたからである。
因みに、俺がシラケかえりながら窓際を見ると、沙羅はお愛想の笑顔で手を叩いていた。
ウケが取れなかったからか、担任は本筋の漢文に戻った。ただし、それは体面を繕うかのように重々しく宣告してからだった。
「年末年始は忙しいかと思いますが、宿題からは逃げないように。休み明けからは来年度の進路選択に向けて、校内模試その他が始まります」
クラス全体は水を打ったように静かだったが、別に生徒たちが厳しい現実に直面したからではない。こいつらは今、望み通りに異世界で現実離れした人生を歩んでいる。
俺はというと、まだ将来のことを何ひとつとして具体的に考えてはいない。たぶん、この山奥の町を出て、平凡に生きて平穏の内に死んでいくだろう。
沙羅は……?
もともとが異世界の姫君だから、想像もつかない。このまま帰ることができなかったら、どうするのだろうか。
営業スマイルを崩さないでいれば、ぱっと見には目の覚めるような美少女だ。就職したって、大きなオフィスの受付なんかに座っていれば絵になるだろう。
だが、この高飛車な女に宮仕えなんぞが務まるとはとても思えない。もともとが、宮殿で仕えられてきた立場なんだから。
やがて授業が終わると、曇り空から微かな光が差し込んでくる窓辺には、さっき出ていったばかりの男どもが1人、また1人と時間差でやってきては沙羅を取り巻いた。
「姫、昨日はごめん」
「そうそう、びっくりしちゃってさあ」
どう言い繕おうと、こいつらの腹の底など、俺にも沙羅にも見透かされている。それでも沙羅が相手をしてやっているのは、彼女にとっての異世界で生きるのが孤独だからに過ぎない。
「気にしてないったら! 私、そんなに変だった?」
昨日はその言葉を、俺に言ってみせたような気がする。
「変! 変! すっげー変!」
「こ~んな感じで!」
ここまでバカなリアクションはできなかった俺の代わりに、教室の外では他クラスの女子たちが悪態混じりの噂話をしてくれた。
「何、あれ?」
「結局、ああやって男漁ってんのよ」
たぶん、俺もその獲物のひとりと見なされてるんだろう。だが、そう噂する声は沙羅にも聞こえているはずだった。
その証拠に、次の授業を前に教室から出ていく男子どもを見送る視線は、俺に向けられていた。
こんな一言と共に。
「心配しないで。後のフォローは自分でするから」
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