第125話 姫君の異変

 その日の終礼が終わると、俺は沙羅を教室から連れ出した。取り巻きだった連中がやってくる前に手を引いて出ようとしたが、逆に手をパシっと叩かれた。今朝は目を泣き腫らして見る影もなかった沙羅だったが、夕方にはもう、落ち着いていたのである。

 ここまで来るのは結構、大変だった。

 沙羅は朝礼が終わってからこっち、安達ケ原の鬼女もかくやと思うような有様で髪を振り乱し、ぐったりと机に伏していたのである。その姿ときたら、1時間目から授業開始の度に、教科担当を恐怖でのけぞらせるのに充分だった。

 とはいえ、一度見てしまえば何ということもないらしい。4時間目にやってきた担任は、机にしがみつく沙羅には目もくれず、それを何となく見つめている俺もついでに視界の外に置いてくれていたようだった。

 他のクラス一同が背筋を伸ばして授業に集中するのにさえ背中を向けて、漢詩を黒板に書き連ねながら朗々と吟じ続けたのである。

 昼休みに入ると、俺はわざわざ自分の机を窓際に持って行った。沙羅が机に伏したまま、動きもしなかったのだ。クラスの他の連中が、自分の席から動かないで弁当を食べていたのとはわけが違う。

 揺すり起こしていいものかどうか見当がつかず、俺は昼休みいっぱい、何も口にしないで様子を見ていたのだった。クリスマスパーティを開こうなどと太平楽を並べていた他クラスの連中は、とうとう顔を出さなかった。

 こうして午後を迎えた俺は、放課後まで立ち上がりもしなかった沙羅を先導しながら、空腹を抱えて家路を急ぐこととなったのである。

 周囲の民家の屋根には、夕べ降り積もった雪が夕暮れの光を照り返していた。

その寂しさときたら、見ているだけで凍えそうである。この田舎町が、いわゆるホワイトクリスマスを迎える雰囲気になるとはどうしても思えなかった。

 そんなことが気になったのも、今朝、沙羅が俺を誘った言葉が耳元に蘇ったからだ。

 ……「あたしとクリスマスパーティしない? 2人で」

 すぐには答えようがなかった。別にそんな間柄でもないし、門限も厳しい。

 俺の後ろを歩く沙羅がどんな顔をしているか気にはなったが、どうしても振り向くことができない。それは、朝の一言のせいだったろう。

 ヘッドライトを点けた車が行き交う国道脇の歩道は、ざらめ状の雪を脇に残している。俺は無言のまま、その間を悶々としながら歩いた。

 その沈黙を破ったのは、背中に聞こえた沙羅の声だった。


  豆を煮るに豆がらを燃やす

  豆は釜の中に在りて泣く

  本は是れ根を同じくして生ず

  相煎ずること何ぞはなはだ急なるや

 

 4時間目に担任が吟じてみせた漢詩だった。おかげで、俺はやっと沙羅と言葉を交わすことができた。

曹植そうちの『七歩詩しちほのし』だな」

 あれは眠気を催すのに十分な単調さと冗長さを兼ね備えたパフォーマンスだったが、俺は耐えた。寝てしまえば、真面目なクラスメイトの中で沙羅共々、2人して目立ってしまうからだ。

「よくこらえた、偉いぞ」

 冗談を言うくらいの元気は戻ってきたようだった。俺も軽口を返してやる。

「そんなことでガタガタ言われてもつまらんしな」

 沙羅にしても今日ばかりは、営業スマイルの発動はありそうもなかった。だが、机に伏せたままの全身からは、妙な気迫が感じられたのである。

 それとは別のプレッシャーが、背中に来た。

「見てたでしょ、私のこと」

 下手に関わると、何を言い出すか分からないという気がしたからである。

 だから、俺は黒板を見つめながらも、昼休みに入るまで沙羅の様子をマークしていた。担任の注意が沙羅に向いたら、いつでもフォローに入るつもりだったのである。

 それは功を奏したのか、それとも時間と労力のムダに終わったのか。

 ……どっちだっていい。

 空腹と疲れのせいで、俺は考えるのが嫌になっていた。授業で聞いた漢詩なんぞを口にした沙羅に八つ当たりしてしまったのは、そのせいである。

「何いきなり歌いだすんだよ」

「だって」

 沙羅がつかつかと俺の前に回り込んで、スマホの画面を突き出した。

 その中では、グェイブを背負ったシャント・コウ……山藤耕哉が、せっせと豆ガラを拾っては豆を煮るかまどにくべていた。 

 事情は分かったが、だからどうだということもない。

「そこは偶然の一致ってやつで」

 沙羅の具合はよくなったし、その分だけ俺はヘバってきたし、これ以上の行動を共にする理由もない。

「じゃあな」

 言い捨ててバス停に戻ろうとすると、俺のコートが背中から引っ掴まれた。

「お昼、一緒に食べない?」

「今何時だと」

 そう言いはしたが、俺の胃は急激に蠕動を始めていた。

 現在、午後3時半。昼飯抜きで過ごすにはちょっと限界の時間だ。いわゆる腹の虫が鳴るのを抑えることもできず、俺は失笑する沙羅から目を背けてぼやいた。

「だいたい、どこで?」

 これが夏場にやってくる観光客なら、ちょっとそこらで座れそうな場所があればコンビニ弁当を広げていても不思議はない。だが、地元の高校生が同じことをすると、マナーが悪いのなんのと近隣住民が学校へ苦情の電話を入れてくるのだ。

 だが、沙羅は俺の前を軽い足取りで歩きだした。

「知ってるくせに」

 実をいうと、心当たりはあった。沙羅の帰り道で、人目につかないように弁当を広げられそうな場所は1つしかない。

 空腹を抱えてバスに乗るのも、食わなかった弁当をオフクロに見咎められて小言を言われるのも、ごめんこうむりたいところだった。

 ……背に腹は代えられないか。

 俺はバス停を離れて、すごすごと沙羅に付き従った。向かう先は、川から道を挟んだ向かいにある、あの神社だ。そこへたどりつくまでの道のりは短かったが、空腹の極致に達した身としては、耐え難い遠さを感じないではいられなかった。

 7歩のうちに即興詩を作るほどの文才は、曹植ならぬ俺自身には求める術もないが、その分、スマホの中の異世界をじっくり見ることはできる。しかし、そこには間の悪いことに、空腹の苦痛に拍車をかける光景が映し出されていた。

 シャント・コウが、豆ガラを燃しては豆を煮ていたからだ。

 CG画面上にも、煮られてふっくらとした豆が、リアルにくっきりと見えている。質素ではあるが、手間暇が感じられた。決して粗末な料理とはいえない。

 手伝っている女の子にも、見覚えがあった。夕べ、山藤のそばにいた子供たちのひとりだ。

《ククルや》

 そう呼ぶのは、台所らしい部屋の隅で椅子に腰かけた、年配の女だった。確か、村長の妻だ。

 呼ばれるたびに、このククルという子は言いつけられたことを実にてきぱきと片づける。それにひきかえ山藤ときたら、暑いだの腰痛いだのと、異世界では通じないのをいいことに日本語で不満たらたらである。

《いい気なもんだよな……》

 ぼやく相手は、村長の妻である。もちろん、この日本語を聞いてはいない。水を汲んできたリューナに料理を頼んでから、椅子に座って居眠りを始めていたからだ。

 その足元は、もう暗くなっている。冬の現実世界がまだ明るいのに、夏場の異世界のほうが先に日が沈むというのもおかしな話だ。たぶん、時間の流れが全く同じというわけでもないのだろう。

 俺のほうはというと、もう川沿いの道を歩いている。目の前にいた沙羅が小走りに駆け出して、神社の鳥居の前から境内を指差した。

「こっち! 来て、誰も見てないから!」

 人目を避けなければならないほど、悪いことはしていないつもりだ。俺は他人のふりをして、わざとゆっくり歩いた。

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