第123話 雪が止んだ朝、姫君に起こった異変

 次の朝、目が覚めても休校だと思い込んだのは、いろんなことがあった疲れがどっと出たせいだろう。

 バス待ちの間に沙羅とやり合ったり、幼稚園のネコバス乗せられたり、ちびっ子たちと延々しりとりやったり、帰ってきてからはスマホの向こうの異世界でガンバっている山藤の面倒見て……。

 唯一の癒しは若いお姉さん先生くらいだったが、あまりの忙しさに顔も覚えていない。降りしきる雪の向こうで、沙羅がネコバスを見て笑いこけていたのはムカついたが、むしろ思い出すのはそっちのほうだった。

 グェイブを抱えてベッドでバリケードを築き、床に寝転がった山藤を見て、俺はようやく安心することができたのだ。

 俺も風呂入って寝ることにしたが、その前に確認したスマホの中は真っ暗だった。

 沙羅が何も言ってこないのでさっさと布団に潜りこみ、そこから意識がなくなって今に至るわけだが、正直、もっと寝ていたかった。

 だいたい、大雪で早く帰されたのを思えば、いかに路線バスとはいえ、これまで経験からすると、そうそう動くはずもなかったた。

 ……早く起きるだけ損だ。

 そんなことを考えて布団に潜り込んだところで、部屋の戸が開けたオフクロが怒鳴りつけてきた。

「何やってんの、もうバス1本行っちゃったよ!」

 慌てて跳ね起きると、部屋の中はもうすっかり明るくなっている。カーテンを開けてみると、窓の外は見るもの全てが白くこんもりと盛り上がった、一面の雪景色だった。

 ただし、すっかり晴れて道も除雪されている。

 ……眩しい。

 おかげで気持ちよく目が覚めて、俺は制服に着替えるなり、朝食もそこそこに身を切るような空気の中へと飛び出した。

 バス停に着いたところで運よく駆け込むことができたバスは、意外とすんなり雪道を進んだ。バスターミナルでも待ち時間なしで乗り換えることができた俺は、朝礼のチャイムが鳴る前に教室に入ることができた。

 何気なく目を遣った窓際には、冬の訪れと共にいつも見て来た朝の光が冷たく差し込んでいた。

 ……ってことは。

 沙羅がいないのだ。

 クラスの連中は一言も口を利かない。もちろん、夜っぴてスマホやらパソコンやらの画面にかじりつく山藤みたいなネトゲ廃人でさえも、背筋をきれいに伸ばして座っている。

 もっとも、こいつ本人は異世界に転生して、代わりに俺が夜中までスマホへ釘付けにされている。その魂を奪い合うゲームの対戦者は、まだ席に着いていない。

 静まり返った教室に、朝礼のチャイムが鳴る。その瞬間、沙羅が髪を振り乱して登校してきた。

 教室に入るなり、挨拶もせずに荒い息で大股に歩く。長い髪が顔を覆い隠していたが、その間から見えた鋭い眼光に俺の身体はすくんだ。

 一瞬だけ、沙羅の肌の匂いが鼻の奥をくすぐった。コロンの香りとか、そういうものではない。そんな身だしなみを整えているヒマもなかったのだろう。だが、かえって制服の奥に息づく生の肉体が感じられて、俺はそれを見透かされないように目をそらした。

 ちらりと眺めてみると、窓際の椅子に座るなり、机に突っ伏した。もう、沙羅の顔は見えない。長い黒髪がざあっとこぼれるばかりだ。

 そこへ白髪交じりの担任がいつもの縦長の顔に眼鏡をかけて入ってきたが、転生して魂の抜けた他の連中はともかく、沙羅までもが見事に無反応だった。転校してきてからこっち欠かしたことがない、教師への営業スマイルはどこへ行ったのかと思うほどだった。

 朝礼が始まって、クラス全員がAIで制御された機械のような一斉の起立を見せても、沙羅だけはそこらのホラー映画そこのけの不気味さで、幽霊のように立ち上がる。

 愛想のない担任ですらも、これにはさすがに引いていたが、それで立場上は放っても置けないのか、恐る恐る名前を呼んだ。

「綾見…沙羅……さん?」

「何か?」

 うつむいたまま髪をかき上げても、顔は見えない。だが、それだけに妙な威圧感があった。

 それは担任も同じことだったろう。

「ああ、いや……気を強く持ちなさい」

「どういたしまして」

 机に両手をついたままでぼそっと答えるなり、全員が着席するのに混じって座り込む。教室の中はまた静まり返ったが、廊下から笑い声が聞こえた。

 他のクラスの女子たちが笑っていたのだ。その中の何人かは、教室の引き戸の外から覗きこんでいる。

「何あれ」

「妖怪?」

「何かの特撮みたいな」

 モアーとか、ウエーとか、妙な声を上げては、けたたましく嘲笑する。その態度を云々する以前に声の甲高さがカンに触って、俺はそいつらを睨みつけた。

 一瞬だけ静かになったが、また喋り出した女どもがひそひそいう声が聞こえてくる。

「何あいつ?」

「八十島」

 俺なんかが他クラスの女子に名前を知られているのは意外だったが、その理由はすぐに知れた。

「彼氏とか?」

 沙羅との関係は、そういう目で見られていたらしい。考えてみれば、男どもがまとわりついてくる中で、沙羅はわざわざ俺と一緒に帰ったりしていたわけだから、無理もない。

 だが、妙な噂を立てられているのは何だか面倒くさかった。ただでさえ転生したクラス全員の運命なんぞを背負わされているんだから、身の回りくらい平凡と平穏を確保しておきたかった。

 いつの間にか朝礼が終わっていた教室から担任が出ていくのと同時に、俺はめったにないことだが女どもに凄んでみせた。

「そんなんじゃねえよ」

 そいつらは黙り込むなり、誰かに助けを求めるかのように揃って横を向いた。今度は男子どもがやってきたのだ。

 その男どもまでが引いたところを見ると、俺はよほど凶悪な顔つきをしていたらしい。

 だが、沙羅に対する興味と欲望は、それを凌いで余りあるようだった。

「綾見さん、どうしたの?」

 よほどいい格好をしたいのか、猫なで声で歩み寄る奴が1人いた。机に突っ伏す沙羅のそばにしゃがみこむと、こぼれる黒髪に鼻先を近づける。

 匂いを嗅ごうとでもいうのだろうか。

 ……この変態が!

 怒鳴りつけたかったが、妙なトラブルを起こしてもつまらない。だいたい、そんな連中がかけてくるちょっかいなど、笑って受け流してきたのが沙羅だ。

 だが、それは昨日までの話だ。

 沙羅はぐったりと机に倒れ込んだまま、顔も見せずに返事だけを口にした。

「いや、何でも……」

 けだるげな声には、何だか俺でもゾクっときた。それがいけなかったんだろう。しゃがみこんだ男は、もっと粘っこい声でしつこく迫った。

「ねえ、元気出してったら」

 ごっつい指が、沙羅の髪に近づく。

 ……触んじゃねえ!

 叫びそうになったところで、まるで沙羅が俺の所有物であるかのような物言いなのに気付いて、喉まで出かかった声をぐっと呑み込む。

 ……自分から騒いでどうする。

 他に言い方はあるはずだった。はやる気持ちを抑えて言葉を選んでいると、沙羅のほうでしっかり自己防衛を図っていた。

「少し、ひとりにしといて」

 電流の流れる柵にでも触れたかのように、黒髪の手前で指は引っ込んだ。これで、沙羅にちょっかい出そうとしたのは1人消えた。

 だが、男どもにとっては競争相手が減っただけのことだ。眠り姫を起こす王子様役に立候補するのは後を絶たない。

 だが、どいつもこいつも沙羅に一言で拒絶され、姫君の怒りのオーラに阻まれて退散した。

 ひとり来ては逃げるという繰り返しが続いたのち、とうとう男どもは囁き交わすしかなくなった。

「どうしたんだよ、あれ」

「お前行けよ」

 連中はそのうち言葉もなくなったのか、ただ硬直して沙羅を眺めていたが、やがて誰からともなくわらわらと逃げだした。

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