第18話 お節介な姫君、守護天使のくせに人気急上昇?
スマホをちらりと見ただけで懐に収めた昼休みの沙羅は、悠々と本を読み始めた。校則なんかバレない程度に破ればいいと思っているフシのある彼女にしては割と大人しい行動だったので、俺はつい気になって聞いてみた。
「それ、何だ?」
沙羅は分厚いハードカバーの表紙を俺に突き出してみせた。
「ソシュールの言語論」
「ソシュール?」
沙羅は呆れたようにため息を吐いた。
「山藤君……シャント・コウが何で困ってるか知ってる?」
「腹減ったとか?」
俺の目の前に、いつものようにスマホの画面がつきつけられる。
山藤……シャント・コウが、まるでサウナにでも入っているかのように汗びっしょりになって、どこかの部屋の壁を叩いている。
「おい……大丈夫か?」
たぶん、こんなに暑い部屋の中にわざわざこもっているところを見ると、シャントは監禁されているのだろう。床には、「井」の字に影が落ちている。窓にはめられた格子に、夏の陽光が当たっているのだ。
熱と疲れとストレスで、発狂してしまったんじゃないかと思うと、ちょっと暑めの暖房が効いた教室の中でも、背中に寒いものが走った。
沙羅は本を見ながら画面を叩いて、ステータスを表示した。
生命力…6
精神力…4
身体…5
賢さ…8
頑丈さ…4
身軽さ…3
格好よさ…3
辛抱強さ…3
階級…謎のよそ者
「結構、回復してるわ。問題は……わかんない?」
音声レベルが微かに上がるが、外で働いているらしい男たちが喚く声しか聞こえない。沙羅は、さらに音量を上げた。
「やめとけって」
これ以上聞こえたら、スマホを使っているのがバレバレだ。だが、ページに顔を寄せたまま、沙羅はムッとして俺を見た。
「じゃあ、よく聞いてよ」
耳を近づけると、シャントが動く前からコツコツという音がする。
「リューナが、壁を叩いてる?」
「コミュニケーションを求めてるのよ」
顔を近づけ合って話す俺たちに、横から声がかかった。
「仲良くなるのはいいが、節度ってものがある」
今朝とは違う声にハッとして振り向くと、そこには昼休み巡回中の担任がいた。
「本で顔隠して、何してた?」
傍目にはそう見えるのだと気づいて、慌てた。誰もが品行方正になったこの教室で、俺たち2人が注目を浴びるのは、ちょっとまずい。異世界に転生したクラスの生徒を弄ぶ(あくまでも沙羅が、だ。俺は救い出すつもりなのだから)、非常なゲームは2人だけの秘密なのだ。
もっとも、人に話しても信じてはもらえないだろうが、沙羅と関わって同じ運命をたどるヤツを他クラスまで広げるわけにはいかない。沙羅は今、山藤……シャント・コウで手一杯だが、もうしばらくして他クラスの男子なんかが告白なんかしてきたら、それは自分で彼女の毒牙にかかるようなものだ。
白髪交じりで黒縁の眼鏡をかけた担任の縦に長い顔など無視して、俺は教室の外を見た。さすがに教員が校内巡回で声をかけると、生徒の目を引く。噂話が微かに聞こえた。
「スマホ?」
「いや、隠れてなんかしてたらしい」
「誰? あの子」
「転校生」
「あ、知らなかった、可愛いじゃん」
「名前、名前」
「いや、知らない」
……まずい。明らかに目立ってる。
沙羅はと見ると、電光石火の早業でスマホをジャケットの内ポケットにしまいこんでいる。もちろん、電源は切ってあるだろう。担任はそれを見落としたのか見逃したのか、追及したりはしなかった。沙羅は沙羅で、それをいいことに涼しい顔で答えた。
「分からないところ、八十島君に教わってたんです」
担任が、意外そうに目を丸くして俺を見つめた。
「お前、高校2年でソシュール読んでるのか?」
……俺に振るな、沙羅!
睨みつけると、そろそろ狡猾さの見えてきた美しい転校生は、一瞬だけ片目を閉じてみせた。あとはよろしく、のサインだ。スマホを通しての異世界コントロールという点で俺たちは一蓮托生なのだから、話を合わせないわけにはいかなかった。
「ええ、はい、ちょっと……」
ソシュールって誰だよ、と思う間もなく、担任は俺の肩を叩いた。
「なかなかやるな! 次の国語の時間は期待してるぞ」
教室の外から、ザワザワ言う声が聞こえてくる。
「あれは?」
「確か、八十島」
「頭いいの?」
「さあ……」
……俺がそんなワケないだろ!
外野の視線は、どう考えても俺に集中している。ちらりと横目で見下ろすと、本で顔を隠した沙羅が、声を押し殺してくつくつ笑っていた。担任がそれに背を向けて教室を出ていったとき、俺はようやく暖房の暑さと緊張で汗ばんでいる身体に気付いた。
教室で立ったり座ったりしている生徒や、その辺りに雑談しに来た他クラスの男女の間をかき分けて、俺はすごすごと席に戻った。注目の視線を感じないわけではなかったので、机に突っ伏して居眠りのふりをする。
ちらりと窓際を眺めてみると、背筋をすらっと伸ばして机上の本に読みふける沙羅の向こうで、薄墨色の山々を薄絹で隠すかのような小雪が降り始めていた。
5時間目の国語の時間はソシュールがどうこうという話を延々と聞かされ、俺と沙羅は集中的に当てられて答えさせられた。もちろん、俺がまともに返せるわけがない。
「おい、八十島、本はアクセサリーじゃないんだぞ」
担任がぶつくさ言うのには答えず、俺は知らん顔をしている沙羅を何度となく睨んだ。そのくせ、沙羅は読んだばかりの本の内容をすらすらと答えるのだった。
「言葉とは、それが差すものひとつひとつにあるのではなく、大きな意味のまとまりから、その人が指し示したいものを区別するものだということです」
魂の抜けた学習機械と化したクラスの生徒たちは、担任が板書する「大きな意味のまとまり」と「指し示す言葉」の図をせっせと書き取っている。
しゃべるだけしゃべった担任がチャイムと同時に教室を出ていくと、俺は猛然と沙羅に食ってかかった。
「何で俺に振るんだよ」
「フェアじゃないと思ったから」
誰にとっての公平さだろうか。自分と同じ損を相手がこうむらないと納得できない性分らしい。異世界のお姫様が聞いて呆れる。
「分からん話を振る方がアンフェアだろ」
「話が分からない人を放っておくほうがアンフェアでしょ」
罠を仕掛けておいて、まるで自分が鍛えてやってるんだと言わんばかりの態度だった。こう筋が通らないともう、議論は時間の無駄だ。
「訳がわからん」
俺がぼやくと、沙羅は面倒臭そうに言った。
「分からないかな……山藤君が困ってるの」
「シャント・コウが何に?」
あえて山藤のソウルネームで答えてやったのは、転校初日にこの運命に引きずり込んでおいて、旧知の友人のような物言いをする沙羅への皮肉のつもりだった。それが通じているのかいないのか、彼女の心配は続く。
「言葉が通じないって、すごいハンデよ」
「それとさっきのとどういう関係があるんだよ」
言葉の問題には違いないが、俺を小難しい話に巻き込むことはない。だが、沙羅には沙羅の言い分があった。
「早く言葉を分からせないと」
「お前は分かるかもしれんけどな」
そもそも、山藤がシャント・コウとして転生した世界は沙羅のホームグラウンドだ。それこそアンフェアというものだが、この異世界の姫君は顔を曇らせた。
「私だって覚えてないわ」
まずいことを言ったかもしれない。そう思っても行きがかり上、素直に謝れなかった俺は、折れて話を聞くことにした。
「で、俺に何をさせたいんだ?」
今泣いたカラスがもう笑ったとはこういうのを言うんだろう。沙羅は満面の笑顔で答えた。
「都合よく意思が通じれば、山藤君、自信つくと思わない?」
つまり、とことん異世界のヒーローに仕立て上げるつもりだということだ。それは、俺への挑戦でもある。
「俺が何もしないと、調子こいて異世界に残るってか」
目を閉じた沙羅は、微笑と共にゆっくりと頷いた。
「せいぜい七難八苦を与えてあげてね」
そのとき6時間目のチャイムが鳴って、おそらく校内でいちばんお行儀の良いクラスで折り目正しく授業を待つ生徒たちの前に、教科担当が現れた。
俺が急いで席につくと、教室の入り口に張り付いていた男子数名が廊下を駆けていった。たぶん、沙羅を見ていたんだろう。そろそろ彼女の存在が、他のクラスでも意識されはじめたのかもしれない。
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