第17話 つながる心と光る犬歯とプレイヤー
さすがに吸血鬼を追い払う力があるとなると、僕は一目置かれたようだった。昨日の虐待がウソのように、日が暮れるまで放っておいてもらえたのだ。
ただし、トイレのときは別だ。漏れそうになって扉を叩くと、村の男が汚い便所まで付き添ってくれる。その不衛生ぶりは、思い出したくもない。
便所は1階にあるので、階段を降りなければならない。逃げられないようにという配慮からか、常に男が前を歩いていた。それなら、いわゆる「おまる」を部屋に置けばいいのだろうが、夏場で臭いがこもるのは嫌だったんだろう。
ぞっとするのは、あのまま馬小屋に放り込まれていた場合だ。たぶん、隣の馬と同じで……考えたくもない。
日の当たる部屋の壁には、板を跳ね上げてつっかい棒をする形で窓が切られていたけど、ガラスはなかった。「井」の字にはめ込まれた太い木の格子は、掴んで揺さぶってみても、そう簡単には壊せそうになかった。
陽が差しこんでも温室状態にはならなかったけど、汗はだくだく出た。食事は昼も夜も差し入れてもらえけど、水分は昼に差し入れられたポットの湯冷まししかない。大事に飲まなくてはならなかった。
午後になると、暑さで気が遠くなりそうだった。これで倒れてしまったら、喉を潤すこともできずに脱水症状を起こしていたかもしれない。そうならなかったのは、隣の部屋の少女がときたま壁を叩いてくれたからだ。
女の子が僕なんかにコミュニケーションを求めてくれるのは、生まれて初めてだった。言葉は通じなかったけど、それがかえってありがたかった。僕は口下手だから、言葉を交わした途端に嫌われても仕方がなかった。
例外は、話を聞き流されている場合と、騙されている場合だ。
僕をこの異世界に引きずり込んでくれた綾見沙羅はたぶん、両方やってくれたんだと思う。
教訓。ああいう女に引っかかったら、人生が終わるんだ。
もっとも、ここから帰れなかったら、どっちみちおしまいなんだけど。
……考えるな、そういうことは!
僕は日の暮れるまで、壁が鳴るたびに叩き返していた。そうしていないと、異世界転生の惨めさを忘れることはできそうになかった。
日が暮れると、夕食は早く差し入れられた。薄暗がりの中、ロウソクの明かりと共に食事のトレイが運ばれてきた。持ってきたのは今朝の少女ではないかと期待したが、やっぱり村の男だった。
僕の前にトレイを置くと、男はロウソクの炎の向こうで手を左右に振ってみせた。用が済んだら明かりを消せという意味なのだろう。
男が去った後、僕は手元の明かりだけを頼りに食事を済ませ、トレイと吹き消したロウソクを扉の辺りに置いた。礼儀がどうこうというわけじゃなくて、ただ単に部屋の中に踏みこんでほしくなかっただけだ。
再びロウソクの光が扉から漏れて、トレイが回収された。隣の部屋からも、扉が閉まって鍵のかかる音がしたが、そこで僕は考えた。
……彼女の部屋は、どんな窓になってるんだろう。
監禁だけが目的なら、この部屋と同じでいい。でも、閉じ込められているのは吸血鬼に狙われた少女だ。
村人は、まだニンニクの効果を知らない。たぶん、吸血鬼がコウモリに変身できるのも知らないだろう。窓が閉めてあれば問題ないけど、侵入の方法は他にもある。夜が明けるまで間違いのない警戒ができるのは、それを知っている僕だけだった。
時計のない暗闇の中で、寝ないで朝を待つのは精神的にきつい。僕は壁にぴったりと身体を寄せて待った。こうすれば、たとえ眠気が襲ってきても、向こうから叩いてくる音で目が覚めるだろう。
そう考えたのは、なるべく眠らないでいるつもりだったからだが、昼間の暑さで身体が疲れ切っていたのか、ついウトウトとしてしまった。
そのままどのくらい経っただろうか。僕は背中で聞こえる、壁を叩く音で目を覚ました。昼間のような、雑談代わりの軽いノックじゃなかった。何か切羽詰まった感じの、せわしない、乱暴な叩き方だった。
僕は慌てて、さらに激しい勢いで壁を叩き返した。向こうの音は、それに上乗せする形で凄まじいものになっていく。それは口の利けない彼女の、悲鳴のようにも聞こえた。
これじゃあ埒が明かない。僕は暗闇の向こうにある扉に向かって、壁伝いに急いだ。その間にも、壁を叩く音は小刻みに続く。やっとの思いでたどり着いた扉を、僕は叫びながら叩いた。
「出せ! ここから出せ!」
下の階から何人もの喚き声が聞こえた。僕はそれに負けないくらいの声を張り上げて叫び続けた。間もなくカギの開く音がして、僕はロウソクがぼんやりと照らす廊下に引きずり出された。
腕をつかむ毛の濃い手をふりほどいて、僕は隣の部屋の戸を揺さぶった。
「開けろ! 吸血鬼だ!」
叫んでも通じるわけがないと分かっていたが、そんなこと構わなかった。できることなら、この扉を壊してでも中に飛び込みたかった。階段を駆け下りる音が聞こえたのは、扉に下ろされた錠前のカギを取りに行ったからだろう。でも、状況はたぶん、一刻を争う。
頭の中に浮かんでいたのは、夕べのように床に押し転がされた彼女の姿だ。情けない話、その上にのしかかる吸血鬼のイメージは定番の黒いマントにハイカラーだった。この程度の知識で、僕は名前も知らない彼女を守ろうとしていたのだった。
男たちの呼び交わす声が聞こえる。
「リューナ! リューナ!」
それが彼女の名前だと考える間もなく、僕も叫んでいた。
「リューナ! 待ってろ、今行く!」
カギを待っている暇なんかなかった。階段の手すりぎりぎりまで下がって、肩で扉に体当たりする。骨まで激痛が走ったが、構いはしない。二度三度、僕は全力で身体を叩きつけた。
やがて、男がひとり、チャラチャラとカギを鳴らして階段を駆け上がってきた。
……遅い!
肩が痛むのも放っておいてカギを奪い取ろうとしたけど、暗くてどの辺りか分からなかった。後から別の男が持ってきたランタンの明かりを頼りにカギが開けられると、僕はその屈んだ男を強引に押しのけて扉を開いた。
リューナのものではない、金属を針で引っ搔くような悲鳴が上がる。
でも、部屋の中をランタンの光が照らしだしたとき、そこにいたのは床に呆然とへたりこんだ少女……リューナだけだった。
男たちがドヤドヤと部屋の中になだれ込み、あちこちを改めても、そこには誰がいるわけでもない。そこらじゅうを探して回った男たちはやがて、廊下に突っ立ったままの僕に詰め寄った。
ただでさえ分からない言葉で口々に喚かれても、もっとわけが分からない。分かるのは、吸血鬼がどうやって入って来たかということだけだった。
「霧だ! 霧になって入ったんだよ!」
霧状侵入……吸血鬼の能力としては、初歩の初歩の知識だ。どんなに部屋を閉め切ってあっても、これを使われたらどうすることもできない。
じゃあ、リューナはどうやって身を守ったのか?
ふと、僕はランタンの光に浮かぶ窓枠に気付いた。
……十字架だ!
僕の部屋では「井」の字になっている頑丈な格子が、彼女の部屋では十字に組まれていた。暗闇の中では見えなかったものが、扉を開いたときにランタンの光で姿を現したのだ。あのとき、吸血鬼は金切り声を上げて、暗がりの中を霧状になって逃げていったのだろう。
だけど、そんなことがこの世界の人間にわかるはずがない。男たちのひとりが、恐怖に震えるリューナの腕を掴んで引きずり上げた。たぶん、寝ていたところで意味もない大騒ぎをされて、頭に来たのだろう。
吸血鬼に襲われた恐怖に捕らわれたまま、衣服の乱れた白い肌を晒してされるがままになっている少女を放ってはおけなかった。
「やめろ!」
僕は今にも引きちぎられそうなリューナの腕を男の手から引き剥がそうとして、暗い部屋の中に駆け込んだ。でも、そこへ行きつく前に後頭部に激痛が走って、目から火花が出た。誰かに、後ろから思いっ切り殴られたのだ。
もんどり打って床に転がった僕だったが、そのままダウンしているわけにはいかなかった。リューナを床に放り出して罵声を浴びせていた男が、足を後ろへ大きく振り上げるのが見えた。
必死で床を這って行ったら、何とか間に合った。横腹を、革のサンダルを履いた足での蹴りで思いっきり抉られ、僕は呻いた。酸っぱいものが胃から込みあげてくるのをぐっとこらえて、裸足のまま立ち上がった。
指差したのは、十字の格子がはまった窓だ。続いてリューナを指さし、歯をカチカチ慣らす。両手をフワフワと宙に躍らせて、伝えたかったのはこうだ。
(あの窓から、吸血鬼が、霧になって入って来た)
さらに、床にしゃがみこんで口を開く。途中ではっと顔を上げてランタンを指さし、窓の十字格子を指す。ふらつく足を引きずりながら、もう一回、フワフワと両手を宙に泳がせながら部屋を出た。
今度は、身体を二つに折って吹っ飛ぶ羽目になった。正面の男に、思いっきり蹴りを食らったのだ。全く、弱い者にはやたら強い連中だ。そんなに強気でいられるんなら、自分たちで吸血鬼と戦えばいいのに。
そう思っても、口には出せなかった。どっちみち言葉なんか通じないんだし。
いわゆる不良がタカリやってたって、喧嘩に勝つ自信がないなら止めることない。警察に通報すればいいんだ。現行犯逮捕なんか、誰も期待しちゃいないんだから。
それとおんなじことだ。僕なんかが何をしたって、結局、無駄に終わるんだ。ましてや、女の子を守るなんて無理だ。その勇気を振り絞っただけでも、自分で自分をほめてやろう。
腹の虫が治まらないのか、男は再びリューナの髪を掴んで身体を起こした。その痛みからだろう、ランタンに照らされた壁の影が悲鳴を上げる。でも、彼女のためにしてやれることは、何もない。僕は悔しさのあまり歯を食いしばっていたが、目をそらさないではいられなかった。
ところが、ぼんやりした光に照らされたその先の床には、見覚えのある文字があった。
〈あなたの味方を頼りなさい〉
……僕の、味方?
この言葉も通じないような異世界に独りで放り出されちゃったのに、味方なんかどこにいるっていうんだ?
いや、1人だけいた。
僕は、再びリューナの姿を探した。床の上に、仰向けでぐったりと倒れている。それを立ち上がって見下ろしていた男は、今度はこっちに歩み寄ってきた。怒りの矛先は、彼らを叩き起こした僕に向けられたようだった。
それで構わない。リューナが助かるんなら。
横たわったままで眺めた彼女は、ころりと床を転がったかと思うと、目を開いて僕を見つめた。腕を痙攣させながら、細い身体を押し上げる。襟元からは揺れる胸が見えたけど、目をそらす気力もなかった。そもそも、そんなの何とも思わなくなるくらい、僕は疲れていた。
リューナは、身体の下の何かに舌を這わせた。そこには、彼女の影のほかには何もない。右に、左に、しつこく迫る唇と舌の動きを、僕も男たちも茫然と見つめていた。
……恐怖で正気を失ったんだろうか? そんな彼女を、男たちはどうするだろう? 彼女をこのまま放っておいていいのか? いいわけがない!
だけど……。
やがて、その口は闇の中にも白い歯を見せて、大きく開かれた。そこには、2本の犬歯が白く光っている。
吸血鬼化してる!?
男たちも、僕と同じことを考えたみたいだった。さっきまでやりたい放題の暴力をふるっていた連中は一人のこらず、抱き起した僕にすがりついてガタガタ震えだした。
といっても、こっちにしたって何をしてやるいわれもないし、そんな力は残っていないどころか、最初からない。吸血鬼化した美少女に襲われるゲームオーバーを待つしかなかった。
だけど、リューナが僕たちに襲い掛かることはなかった。床に手足を突いたまま、くつくつと笑い出す。それが突然、楽しそうな大笑いとなったときに僕は気づいた。
さっきのは、自分が吸血鬼に襲われたときの再現だったのだ。その乱暴を想像すると全身を怒りが駆け巡ったが、リューナの晴れやかな様子を見ると、今度は嬉しさが腹の底から湧き上がってきた。
……良かった。とりあえず、無事で良かった。
笑いの治まったリューナがじりじり這い寄ってくると、男たちは僕を放り出して廊下へあとじさった。その僕を引っ張り起こして抱き寄せる腕は柔らかく、その胸は温かかった。澄んだ目で間近に見つめる可愛らしい顔は、唇を微かに動かしている。その動きは、「リューナ、リューナ」と自分の名前を繰り返しているように見えた。
たぶん農作業のために肌の荒れた、でもしなやかな指が僕の唇に触れる。僕の名前を求めてるんだろうと、察しがついた。
「シャント……シャント・コウ」
耳元で囁くと、リューナは僕にしがみついて、今度は大声で泣き出した。
彼女が泣き疲れた頃になると、男たちはようやく我に返ったようだった。僕たちを引き離すと、元通り、それぞれの部屋にカギをかけて閉じ込めた。
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