第10話 プレイヤーにとっては過酷なミッションスタート
夢も見られない眠りから僕……シャント・コウを目覚めさせたのは、凄まじい悪臭だった。どのくらい臭いかというと、化学の実験で合成させたアンモニアと同じくらい目にしみる。
まぶたをしぱしぱさせながら身体を起こすと、全身の骨から鈍い痛みが肌の上にまで湧き上がってきた。
思わず呻くと、頭の上で激しい鼻息の音が聞こえる。
びっくりして見上げてみると、目の前で茶色に黒ブチの馬が、大きな歯を剥いて笑っていた。
「うわああああああ!」
逃げ出そうと思ったが、足腰が立たない。身体の痛みも忘れて転げ回ると、掌の下で潰れたものがある。何だろうかと思ってよく見ようとしたら、両手が縛られているのに気づいた。
臭い……これ何? 何が起こったんだよ!
また鼻息が聞こえたのでそっちを見ると、馬はまだ笑っている。
すると、たぶん、この馬の糞なんだろう。
「うわああああああ!」
別の意味で絶叫して、壁際に積まれた藁クズで手をこすろうと立ち上がったら、また馬糞の中に倒れ込んだ。足元を見れば、やっぱり縄で縛られている。
もう無駄な努力をする気も失せて、辺りをぼんやりと見渡す。どうやら、汚い小屋の中にいるようだった。
さっきの馬は、僕が寝ていた辺りとは低い柵で隔てられている。ただし、僕を閉じ込めている木の柵は天井まであって、その向こうには土が荒く塗られた壁が見えた。
すると、ここは馬小屋なのだろう。馬のいる方の柵が低いのは、そこから出ようとしても出られないということなんだろうか。どっちみち、立ち上がることもできないんだけど。
痛みと悪臭と無駄な努力をした疲れとで、動く気力もなくなった。どうにでもなればいいと思っていると、扉が開く音がして、朝の光が差し込んできた。誰かが入ってきたらしく、ガヤガヤ言う声が聞こえるが、何を言っているのかさっぱり分からない。
ちょっと、ここ異世界だろ? 転生なんかしたら、普通に言葉分かるのがお約束だろ? 話が違うじゃないか、綾見沙羅!
それでも、僕は叫んでみた。
「出せ! この縄ほどけ!」
何やら怒鳴る声が聞こえたけど、やっぱり何を言ってるのか分からない。ムキになって喚くしかなかった。
「ほどけ! ほどけ! 助けてくれ!」
柵の一箇所が蝶番で開いて、男の影が1つ、中に入って来た。
言葉が通じたのかと思ったら、胸倉掴んで持ち上げられて、横っ面を一発張り飛ばされた。後ろの壁にぶつかって落ちたところが藁クズの山だったからよかったが、そうでなかったら固い土の上で頭を打っていたところだ。それでも、背中やら肩やらを思いっきり打ちつけて、めちゃくちゃ痛かった。
鼻の奥がじんと痛んで、目には涙があふれた。
何で? 何でこんな目に遭わなくちゃいけないんだ?
帰りたい……こんなアプリ使わなきゃよかった。そういえば、高校に入ったときに1年の集会で言われたっけ。むやみにSNSに参加するなって。
後悔しても始まらなかった。僕はそのまま柵の中から引きずり出され、馬小屋の外へと連れて行かれた。
こんなことになったのも、夕べ、あの女の子を助けたせいだ。
田舎市場の雑踏の中にいる自分に気づいたときは、何が何だか分からなかった。
人に突き飛ばされ、どこかの店の品物をひっくり返しては殴り倒され、慌てて逃げだした先では、どこかの野菜畑に踏み込んで泥棒扱いされて逃げ出した。
たまたま身を隠した道端の荷馬車は僕に気付かずに動き出し、やがてその主に放り出されたところがあの夕暮れの道端だったわけだ。
一日中歩き回って疲れてはいたけど、異世界に来たことがようやく呑み込めて有頂天になっていた僕は、空腹だとも辛いとも思わなかった。
それでも、暗闇の中で揺れる火の玉を見たときは、てっきり
それがただの松明の光だと分かったときは安心したが、だからといって助けを求めるのは早いと思った。盗賊かなんかの一団だったら、命がない。
僕は暗闇に紛れて道端にうずくまり、やり過ごすことにした。仮に気づかれても、そういう連中だったら乞食か病人か半死人扱いをして、知らん顔をしてくれるはずだった。
現に僕は見向きもされなかったが、それでもこんな目に遭っているのは、ひとえに正義の怒りのせいだ。
夜とはいえ、この暑いのに長いコートをまとって顔を隠した連中が、女の子を縄で縛って引きずっていくのだ。異世界に転生した身としては、そんな悪事を見逃していいわけがない。
僕は感情に任せて連中の背後から襲いかかり、転生者に約束された力で不幸な少女を守って、無双するつもりでいた。
その結果が、これだ。
頭の上から照りつける太陽の下を延々と歩かされた末、僕は縄をほどかれた。
でも、解放してもらえたとは思えなかった。夕べからあんな殴られ方をして、タダで済まされるわけがないのだ。
覚悟していた分、次の仕打ちへのショックはそれほどでもなかった。
手枷をはめられて、裸足のまま歩かされたのは石ころだらけの道だ。行き先が分からない分、不安も絶望も大きい。もうどうにでもなれと思ったところで連れて来られたのは、川のほとりだった。
ごろごろ転がっている大きな石のひとつを男たちは転がし、近くに置いてあった荷車に積んだ。まさかとは思ったが、そっちへ引きずって行かれて荷車の横棒に両手をくくりつけられたとき、観念した。
早い話、僕は石運びの奴隷にされてしまったのだ。
こんなことなら、現実世界で綾見沙羅の奴隷になっていた方がなんぼかマシだった。パシリにされるのは中学校で慣れているし、小突かれ、罵声を浴びせられるなら、むさいヤンキーよりも美少女転校生からのほうが遥かに気持ちいいだろう。
だが、やっぱり悔やんでも始まらなかった。僕はわずかな水を飲まされるだけで炎天下の下を村はずれの工事現場まで何往復もさせられ、日が暮れたときにはまた、あの馬小屋に戻された。
昼間が暑かった分、小屋の中はさぞかし目にしみるほどの臭さだろうと思っていたが、それほどでもなかった。
その理由が分かったのは、手枷に加えて足枷をはめられ、急ごしらえの柵を立てただけの牢に戻されたときだ。
もう薄暗くなっていてよく見えなかったが、少なくとも床に散乱していた馬糞は跡形もなく、藁クズも、わりかしきれいなのが敷き詰められていた。
よく見ると、馬のいる柵の反対側にも天井までの柵がある。
その隣も牢になっているらしく、やっぱり藁クズが敷き詰められている。
そっちも誰かが掃除したのだろうと思っていると扉が開いて、ランタンの明かりに照らされた人影が入ってきた。
格子の間から何か投げ落としたので這って行ってみると、なにか長い葉っぱのついたユリ根みたいな固まりが床に転がっている。それを拾って人影を見上げると、夕べ見た女の子だった。
ボロボロの服をまとって、片手にはパンか何かを握っている。服に付いた藁クズからすると、たぶん、馬小屋の掃除をしたのはこの子なのだろう。
ランタンの光が、微かに動く彼女の腕を這いまわる。それに映し出された指先は、目の前にある球根と、少女の胸の前のパンと、薄い唇の間を何度となく動いた。
この球根を食べろ、というのだろう。僕は言われるまま、それを口に運んだ。
辛い……そして、臭い。
ニンニクだ、と気づいたとき、手枷足枷のはまる音がして、女の子は隣の牢に放り込まれた。
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