血を吸わない吸血鬼は吸血鬼といえるか?
歌音柚希
答え
吸血鬼という種族は、血を吸うから吸血鬼と呼ぶ。
それは当然のこと。いうなればこの世界の理である。
けれど―とリーリュは鏡越しの自分に問いかけた。
「血を吸わない吸血鬼は吸血鬼といえる?」
鏡越しの自分。それは結局のところリーリュ本人でしかない。
故に彼が答えることはない。しかし分かってはいても誰かに答えを求めてしまう。
自分はいったい何なのか。
リーリュの精神状態は不安定になりつつあった。
昔に戻っていくのが日に日に感じられて、余計に不安定になっていく。
どうして不安定になっているのかが分からないことが苦しい。
これが始まったのは、約一週間前のことだ。
彼は、いつものようにセシルとルナティアと共に駄弁っていた。
話している時間は楽しい。時間があっという間に流れていく。
そして時間が流れ、二人が帰る時間になる。
無性に、離れたくない思いに駆られた。
「じゃあまた明日ね。モーニングコールしてあげる」
「私は明日忙しいから来られないわ。また明後日」
離れたくない、行かないでほしい。
「……リル? どうしたの」
セシルの心配そうな声で我に返る。
「あっ、いや、なんでもない。また明日」
「リルちょっと変だよ。何かあった? 大丈夫?」
セシルはただでさえ勘が良い。気づかれることを恐れたリーリュは、慌てて心に蓋をした。付き合いの長い二人にばれないように、厳重に。音を立てないで。
「眠いだけ。今日あんまり寝てなくて」
「そうなの? 気づかないでずっといてごめん」
「ううん、楽しかったから」
「そう? そっか、楽しかった? えへへ、珍しくそういうこと言うね」
だらしなく口元を緩めるセシルの頬をつまむルナティア。
いふぁい、いふぁい! と悲鳴を上げるセシル。
日常の光景に心臓が握りしめられているような気がした。
「このあと用事あるんでしょ、ほら遅れるよ。じゃあね」
そんな痛みを無視してリーリュは笑顔で手を振った。
「ばいばい」
パタン、と扉が閉まる。扉が、二人とリーリュを隔てる、決して壊れることのない大きな壁に見えた。今すぐにでも追いかけたかった。
無論、リーリュはそんなことしないが。
その代わり床に膝から崩れ落ちた。冷たくなったように感じられる一人の部屋。
さっきまでここには不変の温かさがあったのに。
「バカだな……」
自分が寂しいと感じていることが面白くて泣けてきた。
寂しいと感じている自分が情けなくて笑えてきた。
何がしたいのかわからなかった。
ただただ、面白くて泣きたくて、涙を流しながら笑っていた。
狂っている。
そう思ったら深い悲しみに襲われて、本格的に泣き出した。
そのまま一人で長い時間泣いていた気がする。
やっと涙が枯れても、リーリュは無気力に座り込んでいた。
なんとはなしに、左手首を眺める。かつてそこには包帯が巻かれていた。
自傷癖。
今はもう治したはずの病。
けれど今、何故かまた傷つけてやりたくなった。
「シルに、怒られる」
声に出して自制心を働かせようとしたが、耐えがたい欲求に勝てるわけがない。
自制心は屑になってゴミ箱に捨てられた。
ゆっくりと立ち上がり、カッターに手を伸ばす。捨てずにいた。
「俺って弱いなぁ」
泣き笑いで自分を傷つける。血が流れることが、体外に己の愚かさが流れ出ていくように感じられて笑うのだ。
安心してしまう自分が嫌だから泣くのだ。
「また二人に怒られる」
不思議とそれが嫌ではなかった。
けれど嫌だった。だからリーリュは、
翌日からセシルたちを避けた。
今日は彼らを避けて一週間。
「会いたい……のかも分からないか」
鏡の向こうがこちら側を馬鹿にする。
どうしようもなくイライラして、またカッターを手に取った。
赤に染まった包帯をほどき、ゴミ箱へ捨てた。
「本当に、愚かだ」
無感情に呟くと、カッターを腕に当てる。この一週間、たった一週間で一気に増えた傷跡。それらがリーリュを責め立てる。
背徳感から逃げるために傷つけるようでは、無限に終わらないことくらい知っていた。だって、過去と同じことをしているのだから。
「なにしてるの!!」
いきなり、右手を掴まれた。
ほどくことのできない、捨てられない包帯がリーリュの腕を掴んでいる。
「……バカッ」
耳元で音が鳴った。遅れて感じる痛み。
平手打ちを食らったことに気づいたのは、たっぷり十秒経ってからだった。
さらに五秒かかって、手を抜かれたことに気づく。
同時に、セシルの心に罪悪感が渦巻いていることが分かった。
「リルが泣かないでよ。僕が泣きたいくらいなのに」
実際、セシルの目にはうっすらと涙の膜が張られていた。
今にも泣き出しそうな子供の顔。
「泣いてない」
「泣いてるよ」
セシルの手がリーリュの目元を拭う。温かかった。
それをきっかけに、リーリュは声を上げて泣き始めた。
子供のように。一週間前のように。
「もう……。これだからリルは狡い」
呆れた声で呟くと、セシルはリーリュを抱きしめる。
若干セシルの身長がリーリュを越している。わずかな身長差があることを、二人は知らなかった。それほど隣にいたのだ。
「大丈夫だよ」
優しい声がリーリュの背徳感や虚しさなどの様々な気持ちを溶かしていく。
自傷で得られる安心感とは違う安心を感じていた。
「泣いていいから」
リーリュは、ひたすら泣く。
そんな彼を、セシルは見捨てない。
かつてリーリュがセシルを見捨てずに抱きしめてくれたから。
そうやって時間が経った。ゆっくりとした時が流れていった。
「はい、紅茶」
「……うん」
ティーカップから立ち上る湯気。
息を吹きかけるだけで揺らめく湯気が、自分と同じ存在に思えた。
だからわざと熱いままの紅茶を口に運んだ。熱かった。
けれど、いつもの味だった。久しぶりに味を感じた気がする。
「リル生きてる?」
「うん」
「じゃあ答えてくれる?」
返事をしなかった。それでもセシルは訊ねた。
「なんであんなことしたの」
決して責める口調ではない。むしろ静かで穏やかな口調だ。
でもリーリュには身に覚えがある静かさだった。
「ねぇ、リル。どうして約束を破ったの」
昔、二人の間に結ばれた約束。
「もう二度としないって約束したよね。忘れちゃった?」
セシルの視線が痛くて、顔を背けようとする。
出来なかった。
「逸らさない」
セシルの厳しい声がかかったから。
「ちゃんと僕の目見て答えて」
リーリュは唇を噛む。決して口を開こうとしない彼を、セシルは黙って見つめていた。それでリーリュが話すことを分かったうえでの行為だ。
十分ほど、何もない時間が消費された。
「…………俺は何者なのかなって思った」
一度口を開いたら止まらなくなった。今までせき止められていたのが不思議なくらいに、なにもかもが堤防を越えて体外に流れていく。
「この前三人で喋ったとき、二人が帰るのが怖かった。永遠に一人にされる気がした。寂しいと思ってる俺が嫌になって泣いて、情けなくて笑った。そうしたら、自分を傷つけたくなった。血が流れるのを見たら、俺の嫌なところが全部外に出ていくような気になった。そうしたら……、そしたら止まらなくなった」
何かに反抗するような目でセシルの後ろを睨む。
セシルにとって、その目を見ることは辛くて仕方なかった。
「そんな俺がまた嫌いになって傷つけるんだ。馬鹿みたいだよね」
自分で自分を
「リル」
「ねぇシル。さっさと俺なんか突き放した方がいい。共倒れじゃ意味ないでしょ」
「リル!」
怒りが込められたセシルの声。けれどリーリュは
お互いに今にも爆発する爆弾を抱えていた。
爆発したら戻れなくなるかもしれない爆弾。
「リルは馬鹿だ」
「シルはバカだ」
ほとんど同時に発した同じトーンの言葉が、二人を殴り合う。
そして―同時に
理由の無い笑いが彼らを襲う。
なんだかどうでもよくなって、笑いに身を
涙を拭いながらリーリュは言う。
「ごめん、約束破って」
「こうなる前に救えなかった僕も悪いから」
「なんで? シルが俺を助ける義務なんかない」
「なんで? リルは僕の友達だよ」
友達。
「無償で見返りの無い優しさをかけるのが友情でしょ」
見返りの無い、無償の優しさ。友情。
昔のリーリュなら心の底からの嘲笑で突き返した言葉だ。
今のリーリュは素直にその言葉を受け入れることができた。
それが確かに存在することを信じられるようになったから。
「うん。そっか」
「そうだよ」
なんでもない顔で笑うセシルが嬉しかった。
「あ、そうそう、さっきの話だけど」
「さっきの話? どれのこと」
「リルはリルだよ。僕の友達で、魔界王で、僕と同じ
後半は悪口のオンパレードだったが、そこに本物の毒はない。
セシルはそんなリーリュのことが大好きなのだ。
「それ以外の何者でもないよね」
「そうだね。シルの言う通りだ」
「よしっ、じゃあご飯食べにいこっ」
「………は?」
いや、どこからどうなったらそうなるの!?
そう叫んだリーリュを無視して、セシルは勝手知ったる家でリーリュにコートを投げた。ベージュの、セシルと色違いのコート。
「はい行こう。ほらほら、ルナが待ってるから」
ルナが待ってる?
「え、なんで」
「そりゃあご飯食べるからだよ?」
「それは分かるって!」
「今日はご飯誘いに来たんだもん。ルナが、無理矢理あの引きこもり連れ出さないとって。っていうか、ルナが言ってたこと本当になっちゃったなー」
奢りかぁ……と重いため息をつくセシル。
「何言ってたのあいつ」
「ん? いや、リルは多分情緒不安定になってるってルナが」
リーリュは想像のルナティアに感謝した。
彼女がそうやって分かってくれなかったら、リーリュがこうやってセシルと話すことはできなかっただろう。
「ルナの方がリルのこと詳しいかも。負けてる!? それはちょっと嫌だなー……」
本気で落ち込んでいるようだ。
「大丈夫、俺の一番はシルだから」
「知ってるよ。あっ、ルナにちゃんとありがとうって言わないとダメだよ」
「やだ」
即答だった。こういう時、セシルは思うのである。
この二人は仲が良いのか悪いのか……と。
「どうせルナも感謝なんか求めてないだろうし」
「あー……そうかもね。ありがとうなんて言ったら殴り飛ばされそう」
リーリュは悪戯っ子のように密やかに笑った。
その笑顔は無意識で。
無意識だったことに驚いて、
この一週間、リーリュは笑うことができずにいたのだ。
「よーし、競争しよ! 先に着いたほうが奢りね。スタート!」
「ちょっリル、それは反則……!?」
石に
「嘘だよ。ほどほどに急いで行こう」
セシルの右手がリーリュの手を取った。
間違いなく二人は親友であった。
リーリュの親友のセシルで、セシルの親友のリーリュ。
つまるところ、彼らはそういう者たちなのである。
血を吸わない吸血鬼は吸血鬼といえるか?
答えは、分からないだ。
だって、答えなんて無いんだから。
血を吸わない吸血鬼は吸血鬼といえるか? 歌音柚希 @utaneyuki
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