第2話 なにも知らないのに

 結局、ユウトは昨日、早上がりさせてもらったのにもかかわらず、何もしなかった。言葉通り、本当に何も、だ。手につかなかったと言った方がいいだろうか。あの少女の影響だ。


「なんだったんだろーなー。前世の記憶はやっぱ本当なんだろなぁ」


 集団住宅の一室の床に寝っころがり、鏡烏賊の干物を朝食代わりにしゃぶりながらユウトは天井を見上げていた。


 頭の中では、前世の記憶に強烈に引っかかった少女のことを考えていた。

 あの少女は何者だったのか、名前は。考えても答えが出ないようなことを、今だけでなく一晩中考えてしまって眠れなかったくらいだ。


「あー、なにこれ。一目惚れ……なのか? いや、なんだこれ……」


 ユウトは我ながらあの気味の悪い感情を思い出していた。知っているような、初めて知るような。


「前世の記憶ってやっぱりあるだろ、これ」


 ユウトはまた、確かめるように前世の記憶を言葉で肯定した。もちろん独り言だ。

 知らない少女のはずなのに、既知感があった。それにもかかわらず、初めてという感覚もした。それを一言で表すとしたら、ユウトは前世の記憶以外に思いつかなかった。


 馬鹿げた話なのは本人もよくわかっていた。しかし、いくら馬鹿げていたとしても、どこまで馬鹿げてても、感覚は本当なのだから否定できないのだ。


「なんか、ほんと馬鹿みてぇだな」


 ユウトは足を上から振り下ろし、その反動で一気に起き上がった。

 荒らされたかのように複雑な形になっている布団を見て、ユウトは自分の寝相が怖くなった。毎朝起きると、布団ではなく床で寝ているのも、寝相の悪さを照明している。


 ユウトの住んでいる家は、賃貸で二階建ての建物である。一階と二階あわせて全部で十個部屋があって、一階の一番端の部屋がユウトの住処だ。


 二年前までユウトは孤児を引き取っている施設で養われていた。そこで暮らしながら、こつこつと重労働貯金をしていた。いつまでも養って貰えるわけではないからだ。そして十四歳の時、やっと一人暮らしに成功したのだ。

 孤児院を追い出されるのは、十五歳の誕生日らしいので、ぎりぎりといえばぎりぎりであった。


「親方に感謝しねぇとなー」


 タオルを頭に巻き、作業着で身を纏い、ユウトは姿見の前に立つ。


「よっしゃ、今日も決まってるぜえ! 現場ついたら、あいつらに女の子の話してやるか」


 ユウトは一人でそう言うと、鏡烏賊の干物の木箱を閉じ、布団を雑に畳んだ。

 冷静になって、自分の部屋を眺めてみると酷い有様だな、とユウトは落胆した。

 洗い物、汚れた食器、捨ててないゴミ。色々なものが溜まっていて、まるでここがゴミ箱のようだ。


「そろそろ片付けないとまずいなこりゃ」


 そう呟き、ユウトは玄関に立てかけてあるスコップを握りしめ、扉を開いた。

 集団住宅の小さな門を通り抜け、路地から街の大通りに出ると、いつもと変わらない光景が広がっている。荷物を積んだ車を運ぶ、商人竜と呼ばれる爬虫類。立ち並ぶ飲食店の数々。ぽつりぽつりと街を闊歩する貴族。貴族なんかは、服を見れば一発でわかるものだ。


「そういや、昨日の女の子も貴族だったな、隣にいたやつは剣も持ってたし」


 この世界において、剣を扱えるもの、そして魔法を扱えるものは、貴族でないとありえない。その類の技術は、学校とよばれる教育施設に通って長い年月をかけて習得していくものなので、学校に通えない庶民にはなんの関係もない話なのだ。


 ちなみに、庶民も魔法を使うことが全くできないわけではない。とは言っても、技術として完成されたものではないため、手を使わないでものを動かすとか、触ったものに火をつけるとか、出来てそのくらいのものだ。


 基本的に貴族は庶民のことを見下しているため、相手にしてくれないのだが、昨日ユウトが出会った少女は違った。初対面の庶民……それも土木作業員に向かって、自ら声をかけてくれたのだ。


——貴族でもああいう子はいるんだな。感心感心。


 作業の現場に到着すると、ユウトはさっそく昨日の出来事をみんなに話した。

 反応は予想通りで、ドッと笑いが巻き起こった。


「あっはははは! まぁた前世の記憶かよ!!」


「もう16歳だろー、大人になれよー」


「しょーもねぇって」


「また言ってるよ」


 みんな口々に言いたい放題だ。完全にユウトの前世の記憶は、ふざけた話だと思われてしまっている。だが、ユウトは大真面目だ。昨日ほど自分の発言に自信が持てると思ったことはない。


「そういえば、茶髪でポニーテールのねえちゃんっていった?」


 ユウトの幼馴染で、職場も同じであるラインが問うた。

 

 ユウトよりも華奢な身体をしていて、穏やかな目つきで紫髪。このラインという少年はユウトと同じ孤児院で育った。ユウトの一番古くからの友人であり、記憶が殆どないくらい幼い頃からもう仲が良かったという。孤児院の人が言っていたから間違いないだろう。

 

「そうだ、どっちかっていうとユニコーンの尻尾みたいだったけどな」


「ユニコーンなんてみたことないでしょ、ユウトは」


 ラインは呆れ顔で言う。当たり前だ。ユニコーンは神話に出てくる凶悪な魔物なのだから。


「まあ、見たことはない。で、なんか知ってる感じだけど、ラインはあの女の子についてなんか知ってんの?」


「んー、知ってるっていうか、知らない人はいないっていうか」


「……ん? どういうことなのか全くわかんないんだけど?」


 知らない人はいない、というくらいだから、昨日の少女は有名人かなんかなのだろうか。ラインも知っている様子だ。

 有名人だったらなおさら心が優しい人だ。無名で平凡な庶民に向かって慈悲の心を見せる貴族兼有名人など滅多にいたものじゃない。


「緑の髪の男の人と一緒にいたんだよね?」


「うん。剣持ってた」


「じゃあやっぱりそうだよ、それこの国のお姫様だよ。ルチア・ユーク・ルリアム」


「…………え?」


 この国のお姫様だよ、というラインの声が頭の中で何回か木霊した。


——俺に声をかけてくれたあの女の子は……姫!?


 とんでもない有名人と会話をしたことに、ユウトは今更気づいた。ユウトは自分の世間知らずさに驚いたが、それよりもルリアム国のお姫様と会話できたことに驚いた。


「ちょ、まじかよ。それほんと?」


「たぶん本当だよ。緑の髪の人は、マセーヌって言う人。姫様専属の騎士だよ」


「そーなのか!! 全然知らなかった……。そのマセーヌって人もさぞかし有名なんだろーな」


「うん、かなりね。どっちのことも知らないなんて、逆にすごいと思うけど」


 同じ孤児院で過ごしていたはずのラインが、当たり前のように言うのでユウトは少し恥ずかしくなった。

 姫に騎士。今までの生活で一度も関わったことがないような人々だったので、ユウトは興奮を抑えきれなかった。

 もはや、前世の記憶がどうとかいうよりも、姫とお近づきになれたかもしれない、というほうに気を取られていた。


「じゃあ騎士団とかもしらないわけ、ユウトは」


「騎士団? マセーヌみたいなのがいっぱいいるの?」


「そうそう。その中で専属の騎士が選ばれるんだよ。選ばれなかった人たちは基本的に次の選抜まで軍事に従事するんだったよ、たしか。まあ軍人とは違うみたいだけど」


「へー。全然知らなかったわ」


 ユウトが口を開けながらラインの話を純粋に聞いていたので、ラインは苦笑した。

 同じ環境で過ごしてきたのに、なんでここまで知識に差があるのだろうとユウトは思ったが、ラインも同様にそう思っていた。


「姫様と会話したのかあ、凄いことだよねそれ」


「確かに。冷静になってみるとすごいことだな」


 前世の記憶を強烈に引き出してこようとするあの少女、ルチアは姫だったという事実はユウトに取ってもにわかには信じがたい話だった。


 ルリアム国の姫と、前世で知り合いだったなんて言ったら妄想癖のある野蛮人だと思われるに違いない。しかし、感覚というのは嘘をつかないもので、ルチアを見たときに確信してしまったのだ。この少女とは、なにかの運命で繋がれている、と。


「姫かぁー」


「どうしたの? なんか残念そうな声出してるけど。よかったじゃん、会話できたんだし!」


 落胆ともとれるような声で、ユウトが呟いたので、ラインは不思議そうな顔をしていた。

 超有名人と会話をすることができたのは確かに嬉しい限りだが、そこまでの有名人であっては気軽に会いに行ったり、会話ができたものじゃない。


 ルチアをどうしたいとかではないが、ユウトはもう一度会いたかった。会えば、前世の記憶がくっきりと浮かび上がってくるかもしれないと思ったからだ。十六年間なぞに包まれていた自分の記憶が解放されるかもしれないと。


「もう一回くらいそのルチアさんと話がしたいなーって。前世の記憶が惜しいところまで蘇ってきてたんだよなぁー」


「またそれー? なんか信ぴょう性ないよね、ユウトのそれ」


「信ぴょう性とかじゃなくて、本当なんだって。昔からずっといってるだろ、信じろよそろそろ」


 微妙な表情で肩をすくめるラインを見て、ユウトはため息を吐いた。


「お前は幼馴染だろ。少しくらい信用してくれてもよくねぇか?」


「信用したいんだけどねぇ。ユウトはたまに嘘ついたり騙したりするからなー。僕も何回騙されたことか」


 ユウトは返す言葉もなかった。いつもラインをからかって遊んでいたのを思い出してしまったのだ。

 今回ばかりは本当だから信じてくれよ、なんて言ってもラインには響かないのだろう。長年で植え込まれたユウトの印象があるのだから。


★★★★


 今日もまた、ユウトは古びた干物屋に寄り道した。

 ユウトはくたくたになっても、干物を物色しているとなんだかテンションが上がるのだ。

 鏡烏賊と俊足蛙の干物を両手に持ち、顔をしかめながらユウトは言った。


「迷うな。ブリアさん今日はどっちがいいと思います?」


「うーん。ユウトが昨日鏡烏賊の干物を買っていった後、情報屋さんが大変な目にあったらしいからなあ。俊足蛙を買ったほうがみんなのためかもしれんな」


 厳しいその顔を綻ばせながら、ブリアは言った。

 鏡烏賊を買った後。情報屋。ということは、ルチア姫達が出てきた時の話だろうか。


「それにしても君はいつから敬語を使えるようになったのか。昔は言葉遣いが悪くてなあ」


「ブリアさん、昔話はまたの機会にしようぜ。情報屋さんが大変な目にあったのって、ルチアとマセーヌのせいなんですかね」


 ユウトが話の内容を巻き戻したので、ブリアは察したかのような様子を見せた。


「どうもそうみたいだな、マセーヌ様に死なない程度の拷問を受けたみたいだな。魔法で声を出せないようにされてな」


 騎士というのだから、正義の味方のようなものだと思っていたので、ユウトは少し戸惑った。まるで悪魔ではないか、と。


「そう、なのか。お咎めなしなんですか、それ」


「まぁ、あのくらいの地位だからないんだろうな。理不尽な世の中だな、まったくよ」


 確かに、なんとも理不尽な世の中だ、とユウトは思った。

 こんな質問をブリアにしているのは、世間話がしたいからではなかった。前世の記憶による危機感と焦燥感のせいだ。なにが、というわけではないがユウトは焦っていた。


「巷では、マセーヌ様は皇族の暗殺を企んでるとかなあ」


 ブリアが呑気な声でそう付け足した。

 ユウトの頭の中には、あの突き刺すような細くて鋭い眼光が浮かんでいた。

 危機感。ルチアが殺されるかもしれないという危機感だ。

 焦燥感。早くしないとルチアが殺されてしまうかも、という焦りだ。


 ユウトは、我ながら馬鹿だなと思った。会って少し、それも殆ど話してもいないし、内面もやってることも何もかも知らない少女を本気で心配しているのだから。


「ブリアさん。今日は俊足蛙にすることに決定しました。まだ何かが起きるには早いんでね」


「そうかい」


 ブリアがにやりと笑う。

 ユウトは緊迫した表情で笑顔を作る。


 会計を済ませると、ユウトは駆け出していた。

 なにも知らない少女を救うために。前世の記憶だけが頼りの、その少女のために。


——まだなんも起きてないように願うしかねぇな。




 

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