第4話 バースデイ ワンス モア ――歌を教えて、エンリッヒ

 劇場の窓から眺める街は、霧雨に包まれ、水底のよう。

 大陸最大の芸能都市、『歌と水の街』の合唱団の花形たる私でも、空模様は好きに出来ない。

 二十二歳。今日までに、同期は次々脱落して行った。一様に「リアリ、あなたは才能があっていいわね」と言い残して。

 両親は昔、革命派を気取った強盗に殺された。私は道端で歌って物乞いをし、幸運にも合唱団に見出されて拾われた。

 歌い子としての価値が無くなれば、板塀と石畳の狭間に捨てられるだけ。歌以外の全てを投げ打ち、裂ける寸前まで我が喉を追い込み続けた。

 誰よりも上手く。上手く。

 好きだった歌は、とうに生きる為の手段として割り切った。

 私は恵まれているのだと、私以外の誰もが言った。


 団の寮施設には、私専用の練習室がある。

 男子禁制の女の園の一室。毎朝、馴染みの、老いた掃除婦が床を磨く。

 彼女のネッカチーフが曲に合わせて揺れるのが、入団当時から変わらない光景だったが、今の私の目にはそれすら入らなかった。

 翌週始まる新しい演目が、『嵐の王』という難曲だったからだ。タフな喉と抜群の音感が不可欠で、今までまともに歌えた者は何人もいない。

 十数年前、他を圧倒する歌声を持った天才が挑んだが、本番直前に喉を壊して演目に穴を開け、そのまま十代半ばにして団を去ったと聞く。治療しておめおめと復帰、とはいかなかったのだ。

 私には、ここを出て、他に生きる道など無い。練習は連日、深夜まで行った。

 確かに難しい。でも、出来るはずだ。

 これまで、どれだけ積み重ねて来たと思っている。

 喉から血の匂いがし、酸欠になっても笑顔で歌う。

 けれど、遂に万全に歌いこなせないまま、公開の日がやって来た。


 ホールの舞台に立った合唱団の目前で、緞帳が上がる。歌い子達と楽団を従え、団の先頭にいるのは私だ。

 客席が徐々に露わになるのが、地獄の釜が開いて行くように見えた。満員の客は、落伍者を打つ獄卒の群。

 心臓がドレスの胸を突き破りそうに脈打つ。

 終盤の、声の張上げだけが課題だった。そここそが、この歌の最大の見せ場でもある。練習では一度も成功していない。

 ここで失敗したら、私も団を出るのだろうか。

 その後は、どうやって生きればいい。ドレスの中で足が震え、歯が鳴る。

 団長が『嵐の王』のタイトルコールをし、楽団が静かに序奏を始めた。

抑えたコーラスに続いて、私も歌い出す。

 序盤は難なく終えた。中盤も上等。

 いよいよ終盤だ。後十秒程でクライマックス。

 歌えないのに。

 恐怖で鼻の奥が痛み、視界が滲む。

 後五秒。

 歌を楽しむことを放棄してまで追い求めた道が、それなのに、もう途絶する。

 私は、何の為に歌って来たのだろう。物乞いに戻る為?

 三秒。

 音程は意地でも外さない。が、正気はもう失せかけている。

 一秒。

 どうとでもなれ。

 ふと、客席の上段に、眩暈の中であの掃除婦の姿が見えた。

 『次の音符を半音落とせ』――そう、歌唱の最中用の手話で示している。

 自失同然の私は、つい従った。

 喉を絞り、

 一拍置いて、

 最高音。


 声が 強く伸びた。


 反動を得た喉が躍動し、大きく開く。

 反響壁から跳ね返って来た声を、更に呑み込まんと私が大音声を被せる。

 相乗効果で、ホールは渦巻く音に包み込まれ、烈風が吹き荒れるようだった。

 音は天井へ巻き上げられ、地上に吹き降りて尚荒れ狂う。

 これが、『嵐の王』。その本領か。

 管弦を従え、コーラスを駆け上がり、歌は更なる高みへ上り詰めた。

 奇跡だ。

 奇跡が起きている。

 最後の長い一音を終えると、歌と演奏の代わりに観客の大喝采がホールを満たした。


 その晩訪れた掃除婦用の個室は、狭いがよく片付いていた。

「以前、あの曲を歌えなかった歌い子が復帰しなかった理由、分かったわ」

 変装を解いたその人は私より十以上は年上だが、蝋燭に照ら された顔は老いてはいない。

「声変わりのせい。声が他になく力強かったのは、男性だからなのね」

「そうだ」

 酷いしわがれ声。

「あなたがネッカチーフで喉仏を隠しているって、歌い子の間では噂なの。寮も団も男子禁制だから、皆半信半疑だけど」

「以前は男も入団出来た。今は性別を隠すことを条件に、何とか置いてもらってる。外でなんて生きられない。でも今の自分の声を聞く度に、死にたくなる」

 かすれた嗚咽。

「私を救ったのは、あなただわ」

「君がどれだけ積み重ねて来たかは知っている。奇跡の一つくらい、神様から分捕っていい」

 私は膝をついて、

「本名は、何と言うの」

「エンリッヒ。その名前で、僕はここで、歌を、……歌っていたんだよ」

 言葉の最後は 、殆ど声にならない。

「歌を教えて、エンリッヒ。私、きっとあなたのように歌いたいの」

 そう言って、彼の手を取った。

「僕は、君に嫉妬している」


「それでも、出会いは、恐らく、奇跡の別名なんだわ」


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