第3話 雪響 ――ミラナッハはかく歌い
私が十九歳で合唱団最高格の歌姫を辞め、駆落ちした夜は、酷い雪だった。
大陸の端にある一大芸能都市、『歌と水の町』の冬。
貴族院付きだった私の逃亡は、団の名に泥を塗ることになる。「脱走死罪」の団の私兵をやり過ごすために私達は雪に潜り、長い時間、道端に伏せた。
追手が諦めて去る頃、私に覆い被さっていた恋人は凍死していた。私も寒さで病み、お腹に宿していた命が流れて散った。
生きる情熱も死ぬ気力も消えた私は、一人ふらふらと街外れへ向かい、そこで暮らし始めた。生きるのに飽きれば、適当に死ぬつもりだった。
次の冬。
私は、小さな便箋屋で、虚ろに一人番頭をしていた。
歌う為に生きて来た私が、歌も、それと引き換えにしようとした恋も失った。
何も考えなくて良い、起伏無き日々。けれど空に雪が舞うと、辛い記憶が、おき火の様な死への誘惑を煽る。
もう、いいかな。
その時、十代後半と思しき若者が、雪を払いながら店先に立っているのに気付いた。
「投函です。街の外の母に」
言いながら、彼はじっと私の目を見つめていた。が、見覚えは無い。
便箋屋は、郵便局も兼ねている。若者から手紙を受け取り、差出人の名前と宛先を確認した。そして、
「キオさんというの。革命兵なんですね」
昔偶然に知ったことだけど、封筒の隅に付いた汚れにしか見えない記号は、この街の貴族院を転覆させようとする集団の隠し符丁だった。それは殺人すらタブーとしない程に、過激な。
彼が息を飲んだ。
余計な事に勘付いた私を、殺してくれるだろうか。
しかし、彼にその気配は無い。
「私を殺さないんですか」
「僕が革命兵になったのは、大切な人がこの街に殺されたからです。貴女そっくりの目をした人でした。開いたままの傷の様な瞳、……殺せるものですか」
うなだれ、そう呻く。
私は、彼の髪を撫でた。雪に濡れ、ひどく冷たい。
「温めてあげましょうか」
「女の人に付け込む人間だとでも!」
キオは跳ねる様に店から出て行った。
恥ずかしい真似をした。人肌が恋しいのは、自分か。萎れているようでいて、寂しいものは寂しいのか。情けない。
けれど次の日、キオは店に来た。昨日は大声を出してすみません、と言うので、こっちこそ、と言って、二人で少し笑った。
また、次の冬が来た。
キオとは店先でしか会わなかったが、それが随分頻繁になった。
彼といる時の私は、よく笑う。
いつしか、一日の終わりに、明日が来るのが待ち遠しくなった。自分が彼を好意的に受け止めているのは確かだった。
いつか、キオを愛する日などが来るのだろうか。あの人と、そうだった様に。
ある雪の日の夕暮、キオが店に来た。男の顔をして、声をひそめ、
「今晩、街の北門で火事を起こす。家から出ないで」
「危ないことをしては」
「これから、全部始まる。そうしたら、あなたに言いたいことがある。だから、無事に帰るさ」
そして、彼は雪の中に消えた。
夜になり、店じまいをしていると、表通りに合唱団の私兵隊が群れていた。
「街中の隊は全て、北門へ集合だ。不穏らしい。不審者がいれば、射殺しろ」
そう聞こえた。彼らの手にあるボウガンを見る。
キオの屈託のない笑顔が頭に浮かぶ。気付いた時には、声を出していた。
「あなた方。ジュシュ・ミラナッハをご存知?」
合唱団の面目を潰した、逃亡者の名前。隊長らしい男が私の顔と名を一致させ、顔色を変える。
私は南門へ向かって駆け出した。
男達が追って来る。
もっとだ。できる限り、大勢を引きつけなくては。
私は、走りながら歌った。駆落ちした日から、初めて放つ歌声。
聞き咎めた街中の兵士達が、次々に大通りに現れた。
ミラナッハだ、と誰かが叫び、追手が膨れ上がる。所詮寄せ集めの私兵、緊急の統制など取れはしない。
夜空に音声が踊る。目抜き通りの両側の家々の窓が開き、人々が顔を出す。
響け。これが、かつて鍛えに鍛えた、私の歌。
この街の最高峰、貴族院付きの歌姫の絶唱。麻の服に乱れた髪、けれど砲筒の喉、声の瀑布!
訓練も調声もしていなかったのに、この夜の私の歌声は果てしなく空へ伸び、街を奔った。まるで奇跡の様に。
空気の震えが街を覆い、雪が散る。しかしこの雪に吸われ、歌声は北門までは届くまい。それでいい。
南門を目前にして、私の足を矢が射抜いた。続いて、背中。腕。
キオは、うまくいっただろうか。北の方を見ると、ちらりと火柱が夜空に揺れた。兵達は、誰も気付いていない。胸中で、快哉を叫んだ。あとはどうか、無事に逃げて。
自分のせいで私が死んだなどとは、思わないで欲しい。
恋人と子供を失った夜、私は死んだも同然だった。
そして抜け殻の人生を終わらせようとした日に私はあなたに会って、それから今日までの一年程も、あなたは私を生かし続けたのだ。
今夜の歌は、恩返しの奇跡。
生き返らせてくれたお礼に、私もあなたの命を救いたい。店の便箋に一言、そう書いてあなたに渡せればいいものを、何て歯がゆい。
矢が、私の首を射抜く。
今日まで生きていてよかったな、と思った。
降り来るのは、私の声を吸い込んだ、水よりも澄んだ雪。
解けて流れ、いつかどこかで、歌になれたら、あなたに会いたい。
終
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