第2話 名前のある椅子 ――アナ・メルフトの記述
月夜の石畳の上で、一匹の野犬を前に、私は微動だに出来ずにいた。
十四歳の夏。大陸でも有名な水上都市、『歌と水の町』の劇場の歌い子として稽古に明け暮れていた私は、密かに月光浴をするのが唯一の楽しみだった。
けれど、路地裏になど立ち入るんじゃなかった。泣き出しかけたその時、私の後ろから人影が飛び出して、野犬に踊りかかった。
「逃げろ!」
けれどそう言う人影は小柄で、すぐに野犬に圧倒されそうに見えた。私は夢中で、木靴を脱いで野犬に投げつけた。それが鼻先に命中し、野犬は弱々しく鳴いて走り去った。
「凄いね。僕、格好悪いな」
「そんなことない。有難う」
月明かりが照らしたのは、痩せた少年だった。苦笑いするその表情が、なぜか月よりも 明るく見える。
彼は、ジャンといった。
私と同い年のジャンは、家具工房『ベル・フーチ』の見習いだった。籠の鳥の私とは違い色々なことに詳しく、私の夜の息抜きは彼とのお喋りに変わった。彼も同世代の友達が他におらず、二人で毎晩の様に話した。
ある休日の午後、ジャンは街の裏山にある丘へ私を誘った。丘から街を見下ろして、私は
「綺麗ね……」
と呟いた。
でも、白と煉瓦色の混じった街並は、見た目程には平和ではなかった。革命軍の兵士が潜んでいるという噂で、貴族警察もボウガンの常時携帯を許可されている。
「怖いことが起こるのかしら」
「君は守るさ。いつかここから、二人で平和になった街を見ようよ」
丘に吹く風の中で、私達は寄り添った。
お互いに たった一人の友達。いつまでも、彼の傍にいたいと思った。
夏の終わり、街に騒ぎが起きた。ベル・フーチの棟梁が革命兵を手引きした罪で、警察に連行された。関係者は皆容疑者だとして、ジャンにも手錠が掛けられた。
目抜き通りを警察に引かれていくジャンに、私は駆け寄った。しかし、私まで巻き込むことを恐れたのか、彼が視線で私を制した。
立ち竦む私に、傍にいた大人が気の毒そうに告げた。
「友達かね。記録も残さず、薬殺されるよ」
「いいえ。ジャンは悪いことなんてしてない。すぐに戻るわ」
自分に言い聞かせる声は、頼りなく震えた。
それから、私は何度もあの丘へ行った。工房が閉じた今、ジャンが帰った時に会える所はここしか思いつかなかった。
でも、誰も いない丘は、何度訪れてもただの空き地でしかなかった。
抱く期待は僅かなのに、裏切られた時の傷は容易く私の胸を両断する。一年も経つと、私は耐え切れなくなって丘へ行くのをやめた。
こんな思いをするなら、いっそ出会わなければよかったのだと、何度も泣いた。
五年が過ぎた頃。
劇場で私を見初めたという若い貿易商が結婚を申し込んで来た。
彼の純粋な好意と優しさに、知らずささくれていた心が癒されていく感覚は心地よかった。半年程して、私は求婚を受け入れた。
相変わらずの治安の街を離れ、私は彼の故郷で嫁ぐことになった。
「離れる前に、寄りたい所はあるかい」
彼にそう言われたが、この街に格別好きな場所などない。
……でも、忘れられない風景が一つだけ ある。もう戻れないのなら、一度だけあそこへ行ってみたい。
丘に着くと、以前よりも少し草が伸びていた。
相変わらず、見た目だけは綺麗な街が見下ろせる。
「こんな所があるんだね」
彼がそう言い、続けて、
「あの椅子は、君が置いたの?」
私は、身動きが出来なかった。
二つの木製チェアが、街の方を向いて置かれている。
彼が椅子に近付き、背もたれに彫られた文字を読む。
「”ベル・フーチ謹製 Jean”……こっちには、”Ana”。君の名だ」
胸が痺れ、眩暈がした。
生きている。
この世界のどこかで、ジャンは呼吸をしている。
涙が溢れた。
なぜ私はここへ来ようと思ったのか、その理由が今解った。
私を守ると言ったジャン。傍にいたいと思った私。
友達だった。でもあれは、恋だった。幼すぎて気付かなかったけど、あれが恋だった。
初恋のまま取り残された私の恋に、私は会いに来たのだ。
静かに、彼が傍に立つ。私は涙声を絞った。
「ご免なさい、私、どうしていいか判らなくなってしまったの……」
勿論、彼を断ってジャンを探すことなど出来ない。けれどただとにかく、私は自分の胸も意志も今この時、粉々になってしまったのを感じていた。
「なら、何でも出来るさ。会いたい人を探すだとか」
驚いて、私は彼を見た。
「そんなこと……」
「僕だって、どうしたらいいのか判らないのだぜ。そんな君を見るのは初めてだから」
そう言って苦笑する。
この冷たい世界の中で、人の想いなど一体何程のものだろう。
でも、一度 は呪った出逢いすら間違いではないと、気付かせてくれたのも人の想いだった。この名前のある椅子が、ここでそう唱え続けてくれていた。
それは、眼下の虚ろな街よりも、遥かに確かだった。
終
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