定禅寺家の番少女

 買い物と、警察との騒動をおえ、なんとか帰宅したイリヤは、玄関先でぶっ倒れる。母はまだ、帰宅していないようだ。家に帰ってくるといつも、母がおかえりと言ってくれるのだ。今日はそれがない。

「あたし、お風呂入るわ。勝手に沸かすわよ」

「うん……」

 カンナは風呂を沸かしにいく。

 いろいろと考えることや、話し合うことなどあるのだが、とりあえずイリヤは這いつくばって二階へとのぼる。

「ふぬう……!」

 部屋に入り、なんとか立ちあがり、扉を閉め、ベッドへ倒れこむ。

「疲れた……」

 カンナといっしょにいるのも疲れたし、警察とのやりとりも疲れた。たとえば、もしも今日のカンナとのことをデートと表現したりしたら、イリヤはそいつを攻撃するだろう。今日のあれはデートでもなんでもない。なかば拷問だ!

「しかし、ふしぎだった」

 それからイリヤは疲れたことを忘れ去り、魔法の体験について考えはじめた。

 本当にふしぎだった。

 あのときの感覚は。

 第六感、とでも形容すべきだろうか。

 突然、事件の状況が目のまえに広がってきて、いつの間にかテレポートしていた。

 他人をなぐったこともなかったのに、とっさにあの男の人のことをなぐっていた。

 もしも自分のなかで闘争本能というものが存在するのなら、あのときはその本能がそうさせたのだろうか。

 なにもかもよくわからないのだけれども、ただイリヤの心のなかに瞬間移動魔法がいまもたしかに存在していて、それはいつでも自分の思うがままに発動できるのだという自覚があった。

 これが、カンナの言っていた特訓の成果だろうか。いや、それとはすこし異なっているようにも思える。

 これは、口に出して話すべきことではないが、もしかするとこれこそがみずからの才能というものなのかもしれない。

 その人には、当たり前にできること。

 それが、才能だ。

 ゆえに、これはたぶん、才能の一種だった。

 イリヤは瞬間移動魔法を、まるでみずからの片腕のようにあつかえる気がしていたのだ。

 だが、たとえ、みずからの魔法に目覚めたとしても、母の言葉があるかぎり、それをわすれることはない。

「平凡な世界にこそ、本当のしあわせというものはころがっているものよ」

 母はよくそう話してくれた。

 イリヤはその言葉を思い出し、平凡な世界を頭のなかに描きなおす。

 自分のいまの平凡な世界は彼女といることかもしれない。彼女と言ってもそれは早乙女カンナではない。イリヤには母ともうひとり家族が存在した。アカネだ。アカネは、百年近く前に亡くなった霊体だった。

 今年の春、この家に迷いこんできて、アカネはイリヤを見るや否や、おにいちゃんと呼んだ。アカネは霊なので、ある一定の本能というものしか持たない。

 そのため、アカネはイリヤをいまも本気で兄だと思いこんでいる。この作られた妹といることが、イリヤのなかで最後に残された平凡な世界なのかもしれない。

 はっきり言えば、彼女もまたカンナと同様、痛い子ではあるのだけれど。

「おにいちゃん、あのおんな、まだこの家にいるの!?」

 アカネは、十三歳くらいの少女だ。黒髪ショートに、いつも赤い着物を羽織っている。

 アカネの目つきは鋭く、普通にしていればかわいらしいのに時々、イリヤでもビビる。アカネの感情は時々、暗黒に満ちるのである。そして、アカネはこの定禅寺家の番犬である。差別用語となってしまいそうだが、それはアカネ自身でそう言っていたのできっとそう話してしまってもかまわないだろう。アカネはこの家を守ってくれていた。悪い霊たちから。

 アカネは、イリヤの膝上に乗っかってきた。イリヤの顔を覗きこんでくる。

 幽霊と言っても、アカネはほとんど人間とおなじだ。肉体を持っているのだ。幽霊は怨念の強さで、まわりに自分をどう見せるのかが決まる。

 アカネの場合、イリヤにはちゃんとした妹として見られたいという感情が強いのだろう。その肉体は、イリヤにはっきりと見えるのだ。母や、カンナには、どう見えるのかはわからない。

「あたし以外の妹を作っちゃったの……?」

「妹は作ろうと思っても作れるものじゃないと思うよ……」

「おにいちゃんなら、かんたんだと思うけど? 街の幼女に声をかければ――」

「あー、その話はもうおわりにしよう!」

「なんで?」

「おわりって言ったら、おわりだよ。いいじゃないか、ほかの話をしよう……!」

「妹問題は、あたしにとってかなり大切な問題なんだけど」

「そりゃあ、ぼくにだって大切な話だけど。ぼくが、妹を作るわけないだろう……?」

「勝手についてくると思う」

「ついてこないよ!」

「そーかな」

「そーだよ!」

 アカネはしばらくイリヤに抱きついたまま窓の外をながめて考えこむ。

 アカネは胸の膨らみさえないものの、少女の身体であることに間違いない。そのため、はじめのころは、アカネが抱きついてきたり、いっしょの布団で眠ったりしていると、イリヤは気が動転してしまいそうなこともあったが、いまはとくにそんなこともない。だいぶ慣れた。だが、まあ、イリヤも思春期であるため時々、感情的にアカネを意識してしまうことがある。

「とにかく、あの女が妹候補じゃないことをたしかめないといけないかも!」

「なにをどうたしかめるっていうの……」

 イリヤはくたびれた気持ちで尋ねた。

「性行為をもとめているか否かで、妹かどうか決まる!」

「はあ!?」

 さすがのイリヤもそれには驚いた。

 アカネが膝から抜け出し、立ちあがった。背はちいさい。

「そのためには、おにいちゃんの協力が必要なんだよ!? おにいちゃんが、浴室に入っていけばいいの!」

「入るわけないでしょ……!?」

「だったらあたしが入ってくる!」

「ええええ!?」

 アカネは部屋を急いで出ていった。

 数分後、アカネがカンナを本当に帰ってきた。カンナはバスタオルを身体に巻きつけただけの姿だった。だがそんなことはどうでも良かった。カンナが怒っているのだ。

「か、カンナ……?」

「あんた、なにを飼ってるのよ」

 カンナの顔が怖い。イリヤは視線を逸らした。いろんな意味で。

「アカネは、家族のような存在だよ……」

 飼っているという言葉にイリヤはすこしムっとしていたが、カンナを怒鳴ることはなかった。

「ねえ、おにいちゃん。この女、妹じゃないよ!」

 アカネはうれしそうにそう言ってイリヤにふたたび、抱きついてくる。

「たぶんこの女、おにいちゃんのことが好きなんだと思う!」

「はあ?」

 カンナの怒りがさらに増す。

 やめるんだ、アカネ。

 これ以上、カンナを怒らせてはいけない……!

 なんだか部屋のなかが熱い。

 まるでカンナの魔力が火を起こしたかのように……!!

「だってね、おにいちゃんをどう思っているのか聞いたら顔を赤く染めるんだよ!? それって、好きってことでしょ!?」

「そ、それはまだ、どうかわからない、というか……」

 イリヤはおどおどしてしまい、言葉にならない言葉をしゃべる。頬が痛む。火の粉が宙を舞っているのだ。

「ざけんじゃないわよ、あんた!」

 カンナがアカネを襲いかかったようだ。

「おにいちゃん――っ!!」

 アカネはイリヤに助けを求めるように強く抱きついてくる。

 カンナはそんなアカネを必死に引き剝がそうとする。

 だが、カンナの力負け。

「ほが……!」

 三人で、倒れこむ。

 気づくと、全裸のカンナがイリヤの身体に乗りあげていた。

 カンナは怒り狂った形相で上半身をおこす。だが、イリヤの股関節の上に乗りあげていることに気がつくと、

「……っ!!?」

 顔を真っ赤にし、イリヤの顔面を両手で押さえつけてくる。

「ふが……!」

 だが、イリヤははっきりとこの目で見てしまった。カンナの裸を。膨らんだ胸、下部の陰毛を。

「ちょ、ちょっとあんた、早くあたしのタオル取りなさいよ……!!」

「やだっ!」

「なんでうれしそうに言ってんのよお……!!」

 カンナは必死にアカネにうったえる。だがアカネは口笛を吹いて知らぬ顔。

 イリヤは、カンナに両目を強く押さえつけられ、すごく痛い。それからカンナが股間でまたがっているという事実が、イリヤの精神に強い刺激を与えてくる。それはあまりに危険なので、イリヤは無になろうとする。これぞ、無の境地だね。

「付き合っちゃえばいいじゃん」

 アカネが言った。まるでいままで聞いたことのない大人な口調で。

「ふたりは、おなじ境遇の人間なんだから、恋人になってみればいいんだよ。だって、そうでしょう? ずっと知り合いのままなんて、ぜったい無理なんだから」

 それが男女のさがとでもいうのだろうか。まだ少年であるイリヤには、むずかしい話だったが。でも、アカネの話してくれたその話は、きっとその通りなのだろうな、となんとなく思った。

「いやよ、なんであたしがこんなボッチと付き合わなくちゃいけないわけ!?」

 あなたも立派なボッチですよ、とイリヤは大人っぽい口調で言いかえしたい。

「おにいちゃんはボッチじゃないもん、あたしがいるもん!」

「あんた、幽霊でしょうが!」

「幽霊だって、ちゃんとした妹だもん!」

「なにが妹よ、なにが!」

「ムキーッ!!」

 ふたりが、イリヤの上で取っ組み合いの喧嘩をはじめた。ふたりになんどか殴られたり、蹴られたりしたが、決して悲鳴はあげなかった。いまのふたりになにか言ったら、とんでもない暴言が跳ね返ってくるだろう。それは容易に予想がつく。

 カンナの両手のアイマスクは当然、消えていた。イリヤは、目を閉じたまま、ベッドの端のほうへ避難する。

「ちょっと胸がおおきいからって、調子に乗らないでほしいかも!」

「あんたも顔が良いからって、ブリっ子してんじゃないわよ!? 何歳よ、あんた!」

「百歳越えるけど、設定は十三歳だもん!」

「ただの設定よね、それ!?」

「そうだけど、そうじゃないもん……!!」

(もうやめてくれええええええ……!!)

 心のなかで泣いた。

 今日は本当にたいへんな一日だった。

 カンナと買い物に出かけ、警察と騒動となり、そして安らぎをもとめて帰宅したら今度はアカネの問題である。なぜかわからないが、イリヤはこれからもこういったことがたくさんおこるんだろうな、という漠然とした気持ちになった。

(ひ、ひとりにしてほしい……)

 今日ほどひとりになりたいと思った日はない。友達をうしなってさみしい思いをしてきたかもしれないが、本当に今日ほどひとりになりたかったことはないかもしれなかった。


「おにいちゃん」

「な、なに……?」

 アカネに声をかけられ、イリヤは我にかえった。

「カンナいなくなったよ、お風呂入ってきたら?」

「あ、うん……」

 イリヤは恐る恐る目を開き、それからゆっくりと部屋のなかを見回し、カンナがいないことを確認してからようやく身体をおこす。

「ねえ、おにいちゃん」

「なに?」

「あたし、ピンチかも!」

「え、なんで?」

 突然、そんなことを言い出すからイリヤは驚いてしまう。

「カンナが美人だから、おにいちゃんを独り占めされちゃう……!」

 幽霊はイリヤに抱きついた。まるでしがみつくように。

「それはないよ」

「わからないよ、そんなこと……!?」

 イリヤはアカネに正直な気持ちを打ち明けた。「友達をうしなって気がついたんだ。ぼくは彼女と本当の友達になるかもしれないって」

「つまり恋人同士になりたいってことだね……」

「違うよ!」

「どう違うの……?」

 アカネは泣きそうな目で見つめてくる。

「ぼくはさ、いままで虚像の人間だったんだ。でも、いまからは違う人間でいられると思う。本当の自分というものを知ったような気がするんだよ、ふしぎだけど」

「カッコいいけど、そういうのおにいちゃんには似合わないかも」

「そ、そっか……。とにかく、お風呂、入ってくるね」

「うん、いってらっしゃーい!」

 と言って、アカネはうしろをついてくる。

「ね、ねえ」

「なに?」

「なんでついてくるの……?」

「あたしもいっしょに入るからだよ?」

「平然と、そういうこと言うんじゃないよ!」

 イリヤはアカネを抱きかかえ、自室のベッドにひょいっと投げ飛ばした。重さはあった。だが、アカネくらいの重さなら投げられる。

「ふう……」

 扉を閉め、肩を落とし、それから一階の浴室へと向かった。

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