ひとりぼっちの鈍行列車

アイビー

第1話

がたり、ごとりと、夜の街中を走っていく列車の中から男はふと外に目をやった。

「僕はなんて不幸なんだろう」

ぼそりと呟き、目を細める。一見黒く塗りつぶされたようにも見えるつるりとした窓ガラスも、よく目を凝らしてみれば色とりどりのネオンが薄ぼんやりと光る糸のような残像を残して通り過ぎていく。まるで凝った色彩の絵画のようだと彼は思った。


「お隣、いいですか」


走る列車に揺られながらそう声をかけてきたのは、高貴そうな紳士の格好をした1人の猫だった。ただし彼の片耳はなく、おそらく艶のある立派な生地だったのであろうビロードのスーツはひどく汚い。勿論構いませんよ、と応え、男は少し首を竦めた。「なんの面白みもない僕なんかの隣に座りたいのならね」

彼が自虐的に言った言葉に紳士猫は忙しなく残っている片耳を動かしながら優しく口角をあげると、ふりゃりと上がった口の端から少しだけ尖った歯が覗いた。

「面白味はなくとも、あなたはほつれのない素敵な服を着ているではありませんか」

「そんなものあったって、面白味がなきゃあね。僕は不幸だ 」

そうそうこの前なんか、部署の新人歓迎会で1発芸をしろと言われたんだけどね、僕なんかは固まってしまって動けなかったよ。と男は大きくため息をつき、嫌なことを思い出してしまったと目を閉じる。閉じる直前視界の端に映った紳士猫は穏やかに話を聞きながら、少しだけ濡れた鼻をひくつかせていた。

「私もね、面白味のある部類ではありませんので、酷く苛められたものですよ。ぴんとたった耳も、世界を色とりどりに移していた目も、体を温める毛皮もすべてを失ってしまった」

紳士猫は微笑みながら、自分の手を見下ろした。爪の欠けた、ぼろぼろの両手。それを横目に眺めながら、男は「まぁ私だって、プライドから自分の居場所まで、すべて失いましたけどね」とこともなげに言った。けれどね、と紳士猫はゆっくりと続ける。

「思ったより、不思議と悲しくないのですよ。それよりもあなたはおつらいことでしょうね。どうかあなたに、優しい未来が待っていますように」

小刻みに喉を鳴らしながら、紳士猫は呟くように静かに祈った。

「それはどうも。そんな素敵なものが待っていたらいいのだけれどね」

ぷしゅう、と抜けるような音をたてて列車が止まる。気づけば辺りはネオン街をぬけて閑静な住宅地になっていた。

「では、私はここで」

丁寧にお辞儀をしながら、濡れ雑巾のような紳士猫が軽やかな足取りで列車から降りていく。紳士猫の吹く幸せそうな口笛が、男の耳に酷く響いた。


列車は再び走り出す。夜は明けない。

「僕はなんて不幸なんだろう」

一軒一軒に灯る仄かな灯を見つめながら、男が再び大きなため息をついた。

「僕は何時になったら幸せなれるんだい?」

「そんなこた、だぁれも知らねえさ」

ぶっきらぼうに降ってくる声の方を不機嫌そうに振り向く。立っていたのは欠けた月だった。鼻をくすぐる甘い匂いはおそらく金木犀の香り。

「俺の仕事は、いつも夜だ。いい加減飽きるってもんだ」

月は甘い香りとは裏腹に、とげとげとした態度で床を蹴った。かつんという乾いた男に、男は余計にイラついた。

「僕なんかはもっとひどいよ。僕には友達がいない。何故だか知っている?人間ってそういうもんさ、口では綺麗なことばかり言って、真実なんてひとつもないんだ。僕は独りだ」

「俺も、独りだ。誰とも話したことなんかねえ。……だけどよくよく考えりゃあ、星達はいるな。話したことはねえ。ただいるだけだ。ただ、何光年先の隣にいてくれるんだ」

あんたは大変だな、と月は欠けた頭を少し傾けた。キラキラと金木犀が零れる。言われたことに頷き、引いていく怒りを感じながらもしかしたら、月の色は金木犀の色なのかもしれないとぼんやり考えた。

「あんたがいつか、何光年先の隣に信じられる誰かを見つけられますように」

そう欠けた月が祈った矢先、急に月は光を放った。そろそろ雲が切れる、と。あまりの眩しさに、男は固く目を瞑り、頭を抱えた。眩しくて、輝いていて、とても見られたもんじゃあない。

周囲の光がおさまってみれば、そこにはもう欠けた月の姿はなかった。

「信じられる誰かなんて、そんな素敵な人がいるのならいいのだけれどね」


列車はまだ止まらない。辺りは黄昏時だった。そよめく麦の香りが男の鼻腔をくすぐる。嗅いだ事のあるような香り。田舎の実家の香りだと、男はすぐに思い出した。思い出したけれど、男はそれをすぐに忘れてしまった。

「思い出せない。僕はなんて不幸なんだろう」

ぷしゅう、と音をたてて、列車が止まる。新しく乗り込んできたのは、よれたスーツを纏ったサラリーマン風の若い男だった。顔はひどくくたびれて、実年齢よりも数歳老けて見えるようだ。

「もう皆、降りてしまったよ」

くたびれたサラリーマンが、つり革に手をかけて言った。「そんなこと、知っているさ」言いながら、男は辺りを見渡す。

「君、この列車がどこへ行くのか知っているかい」

サラリーマンがふと真面目な顔で尋ねた。心の底から放っておいてくれ、と男は口に出さず懇願した。なにも聞きたくない。触れて欲しくない。ひとりにしておいてほしい。

「君は自分が不幸だと言っているけれどね、本当にそうかい?君は苛められた末に死んでしまったことはあるかい?何億年という狂った日々を、ずっと独りで過ごしたことはあるのかい?」

「うるさいなあ」

「自分だけが不幸だと思っているのかい?他の誰よりも?」

「うるさいよ!!」

男はついに癇癪をおこして立ち上がった。よれたサラリーマンなんか投げ飛ばしてやる、と彼の胸ぐらを掴む。

「君が自分を不幸だと思い続ける限り、この列車は走り続けるよ。ゆっくりゆっくりと、どこまでもね。その行き着く果てを知っているかい?」

「知りたくない」

「知らなくちゃあいけない。目を逸らしてはいけない……」

「いやだ!!!!」

「そこはね」

「言うなああ!!!!!」




「」






ぷしゅう、と音をたてて、鈍行列車が止まる。小さな車両から、わんわんと泣く男が下車した。

わんわんわんわん泣いていた。身体中のすべての水分が枯れきってしまうのではないかと思わせるほど、男は泣いていた。

泣きながら、歩き出す。地面からは無数の棘が生えていて、歩く度に足の裏がちくちくと傷んだ。それでも、歩く。

男の背後で列車のドアが閉まり、再びゆっくりと走り出す。男はわんわん泣きながら、列車を見おくった。やがて列車はより深い真っ暗な闇に飲まれて見えなくなる。なにもない。


男が顔をあげる。その先にはほのかな光を放つ明るい場所があった。










鈍行列車は今日も走る。


その先にはなあんにもない。

























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