第四章 

 思わず変な声が口から洩れたが雪野さんは不満そうに口をへの字に曲げ、量の多い髪を時折後ろへかきあげる癖はナルシストみたいな――

尊敬する上司がそこにいた。

彼は首をかしげ、思案顔で私の顔を見つめた。

「オマエ、いつ記憶が戻った……?」

何事か呟いたようだったが、私の耳に彼の声は届かなかった。

「光の眷属よ、我に味方したまえ 水の眷属よ、我に力を―――」

大気が急速に冷えるのが感じられる。

宙には氷の粒が浮かび上がり、雪野さんの周りを取り囲んでいた。

太陽光を反射し、時折虹色の光が降りる様は――彼をヒトとは言えぬ――美しさをはらんでいた。

「カミサマの……ひかり……?」

思わずそう呟いてしまうほどに。

「せらぐせらぐとつくり―――…氷籠ひかごの柱」

一瞬で、この空間が静けさに包まれた。

無数の氷柱が立ち、それらすべては先ほどまでに苦戦させられていた化け物どもで――こうもたやすく一人の人間に制圧されたのだ。

「死んだら意味がない!逃げるぞ!バカ!」

いつの間にか空中へと移動させられていた私は、雪野さんに掴まれた腕に引かれるようにしてその場から逃げ去ったのだった。


 「―――っ!雪野さん!」

ある程度の距離を飛ばされたところで、私は彼を呼び止めた。

まわりを一瞥いちべつしてから彼は段差の低い石段に降りたった。

案外簡単に腕は放された。が、問題はそこではない。

「助けてくださって、ありがとうございます。でも――しかし、御船《

みふね》は、私と一緒にいた男性は無事ですか!?」

若干混乱じゃっかんこんらんして噛みまくっているが、私はまっすぐ目の前で表情を変えずにいる人を見上げた。

表情は変わらずとも、彼はわずかに記憶を探るようなしぐさをした。

御船みふね?――あぁ、嶺井みねいか。あいつは生きているだろうな。図太いし」

置いてきてしまったという事実にすまなかった、と心の中で謝罪しつつも、雪野さんの口ぶりから知り合いだったのだろうか。という疑念がわいた。

(雪野さんはわざわざ“ミネイ”に直して言っていた。それは、なぜ――?)

知っているはずなのに、思いだせない。そこに確かにあると分かっているのに、届かない。

そんな感覚がした。

「雪野さんは……御船と知り合いなのですか」

彼はきょとん、と目を丸くした。

まるで……そう、眼光の鋭い野良猫の目から一瞬で子猫の目に変わった感じかな?

「知り合い、か。お前は何もおぼえていないのか?」

再び野良猫のような鋭い目つきで彼は私を見た。

いや普段から目つきが悪いからそう見えるだけだが。

そしておもむろに手を私の首へとのばした。

「え……?」

困惑したのも一瞬のこと。

触れられたうなじの部分から電流が体の隅々まで走ったような衝撃があった。

痛みを感じることもなく、次々に走馬燈のごとく流れ込む映像。

いや、情報の数々が一瞬で頭に叩きこまれた。

「――っはぁっ!!」

意識が体に引っ張り込まれるようにして雪野さんと会話していた場所へ意識が戻った時、無意識に息を大きく吸い込んでいた。

「おい、大丈夫か」

息は荒い。どこか視界もぼやけていて、気づいたら雪野さんに体を支えられていた。

「す、すみません」

段差の低い石段から数段滑り落ちたが問題はない。

慌てて彼から離れるように距離をとった時なぜか――なつかしさを、覚えた。

「思い出したか」

やれやれ、とため息交じりに雪野さんは言った。

「あれは、前世の記憶……ですか?」

そう言うと、彼は鼻で笑った。

「さあ?俺も知らねぇし。だが……あの都市が歴史上存在していたことはない。この国の歴史上は、な」

どこか遠くを見据え、じっと考えこむ彼の目には、どこか何かの突破口を見つけようとする色が映っていたような気がした。

ふと、手で前髪を後ろにかきあげるようなしぐさをした。

今まで気にしたことはなかったその癖が、今はなんだか“記憶”の中にいる“まき”の姿と重なった。

まき……?」

ふとそんなことを呟いた私に雪野さんはわずかに笑って

「実感わかないけどな。前世なんてものは」

そしておもむろに手を伸ばした。

「この都市は腐りかけてる。帰ったらまず報告しなきゃいけねぇ」

彼は苦笑しながら冗談っぽく言った。

私も手を伸ばした。

―――その手をとったら、この都市から出られる気がした。

中枢が化け物に乗っ取られた、腐敗しかけのこの町から。

 だけど、

―――私たちの手が触れることはなかった。

溝を作るように私たちの間に走った地面の亀裂は瞬く間に大きくなり、雪野さんはそれに飲み込まれた。

「ゆき……」

手をつかもうと伸ばしても届くことはなく、どんどん遠ざかる。

彼自身の能力で上がろうにも、詠唱が追い付かない。

さらには黒い瘴気が体に触れた瞬間、触れた場所が消えたのが見えた。

いや、正確には分解されたのだ。

器官から細胞、分子から原子まで分解されて散ってゆく。

さっきまでそこで生きて、動いて、感情があって、

―――大切な人が消える様子を、ただただ眺めることしかできないなんて。

己の無力さに無意識に唇を噛んだ。

痛みなんて感じなかった。

―――何度、失った?

無駄死にさせて、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も。

数えきれないくらい繰り返して、死なせてしまった。

 後悔している時間は、そう長くいられなかった。

目の前に現れた巨大な壁が、彼を飲み込んだ黒い瘴気が、

私を現実に引き戻させたのだった。

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