第6話

   第六話



「アリガトォー!」

 むせかえるような真夏のステージの上、祭りの大観衆に向かって……、というイメージをしながらハジメはピックを握りしめた右手を振り上げて叫んだ。

「久しぶりに聞いた気がする……ハジメくんのそれ」

「でも前みたいにグチャグチャになりませんね」

「もうライブ近いからな、ライブのつもりでやらなきゃ! みんなもやろうよ」

 ハジメはタオルで汗を拭いながら言った。ハジメの視界には、いつものオオハマ楽器の二階スタジオの光景が戻っていた。

「そうだな、客の前を意識した練習はしておいたほうがいいかもしれない。ただ、今日はもう時間だな」

 汗だくのジロウがギターを肩から下ろしながら言った。

「エアコン壊れてるんじゃないのかこれ、あとで犬塚さんに文句言ってやろう」

 初ライブの日は一週間後まで迫っていた。

 ハジメたちはライブに向けて練習の回数を増やしていた。何しろ人生で初めてのライブだ。ライブに出演することを決定して以来、ハジメだけでなく、メンバー全員が心地の良い緊張感を持った日々を過ごしていた。

 ハジメたちが一階に降りると、犬塚さんはカウンターに突っ伏して扇風機の動きに合わせて緩やかに体を揺らしていた。

「あ、お疲れー。頑張ってるねえ」

「犬塚さん、上スタジオのエアコンぶっ壊れてるんじゃないですか」

 ジロウが奥のテーブルにギターケースを立てかけながら言った。

「ああ、上のも壊れてたっけ……」

「下のもか……楽器ダメになりますよ」

「アタシだって好きでこんなクソ暑い日に扇風機で我慢してないよ。だって店長がさー……まあいいや、二時間分ね」

 犬塚さんはそう言いながら突っ伏していた上体を起こした。緩いTシャツの隙間から汗ばんだ胸元が垣間見えた。ハジメは会計の間視線を悟られないようにするのに苦労した。

「そろそろ曲順とか決めましょうよ」

 椅子に腰を下ろしながらマサヨシが言った。一番汗だくになっており、どこからか取り出した団扇で懸命に自分を扇いでいる。

「ありゃ、まだ決めてなかったの? はやく決めておいたほうがいいよー、持ち時間は二十分だから、三曲くらいかな。出番は真ん中くらいにしておいたから、頑張ってねー」

 扇風機の向きを調整しながら犬塚さんが言った。ギターにくくりつけてある盗難防止鈴がその風で静かに鳴った。

 夏祭りのステージのバンド演奏については、毎年ここオオハマ楽器が担当しているらしく、店長があの体たらくなので実質犬塚さんが取り仕切っているそうだ。

「じゃあはやく三曲に絞って集中して練習したほうが良さそうね……」

 クリアファイルを団扇代わりにしながらミツコが言った。ノースリーブの服から伸びた細い腕が汗ばみながらせわしなく動いている。

「そうだなー。ラストはオリジナルとして、一曲目と二曲目にコピー曲ってとこかな」

「賛成だ」

「私も……」

「僕もです」

「じゃあこんな感じでどうよ……っと」

「一曲目と二曲目逆じゃない?」

「それよりあっちの曲のほうが盛り上がりそうじゃないですか?」

「なるほど……」

 茹だるような暑さの休日の昼。ハジメたちは順調にライブへ向けて準備を整えていった。しかしこの後ハジメたちには、一つ、二つほど、まだ障害が控えていた。そのうちの片方はすぐにやってきた。


「そうだ、あと一個お姉さんからアドバイスだ。お客さんはしっかり呼んでおいたほうがいいよ。お祭りだから人いるだろうって思うと後悔するよー、アタシは昔お祭りのステージに出て、たった二人の前でライブしたことがある」


「客……そうなんですか、考えてなかった」

 ハジメは犬塚さんの言う通り、祭りだから人はいるだろうと思い込んでいた。自分で集めることなんて考えてもいなかった。

「とりあえず、クラスの人に声かけてみますか」

「クラスか……」

「う……」


 マサヨシの言葉に、ジロウとミツコの顔が曇った。



 月曜日、ハジメは午前の授業の終わりを告げるチャイムで目を覚ました。静かな教室がにわかに活気付きはじめる。机をつなげて弁当を取り出す者、購買に昼食を調達に行く者、眠り続ける者。それぞれの昼休みが始まった。

「行きましょうハジメくん」

「オッケー」

 ハジメたちはいつからか、昼休みを映画研究会の部室で過ごすようになっていた。

 ジロウが事件を起こして以降、その件でハジメがからかわれるようなことは殆どなかったが、なんとなく教室に居づらくなったのがきっかけであったような気もする。

 なにより部室はミツコやジロウも入り浸っていて居心地がわるくなかったのだ。もっとも空調のような設備がないので地獄のような蒸し暑さを気にしなければの話だったが。

「ミツコさん、もう来てるみたいですね」

「早いよなミツコさん」

 部室のプレハブは校舎から少し離れていて、人通りの少ないところにある。鍵はミツコしか持っていないので、ミツコがこなければ炎天下で待ちぼうけなければならなかった。

 ミツコが先に来ていると、窓とドアが開けっぱなしになっているので一目でわかった。少しでも風通りを良くしようという悪あがきだ。そもそも夏場にこんなところで昼休みを過ごす方がおかしいのだが、ミツコにとってはクラスよりも居心地が良いのだそうだ。

「きたかハジメ」

 中からジロウが顔を出した。ジロウは事件を起こして以来、しばらく休んだのち学校に復帰していた。風の噂で聞いた話では、もともとクラスに友達はいなかったが今は輪をかけて孤立しており、保健室で過ごしていることも多いようだ。ジロウが今どのような気持ちで通学しているのか、今のハジメにはなんとなく理解できた。

 そんなジロウもハジメたちの前では明るく過ごしていた。以前のようなトンデモ発言は無くなったが、とても素直でバンドのこととなるとハジメと同じくらいに熱くなった。これがジロウの本来の性格なのかもしれないとハジメは思っていた。

 ジロウは部室で過ごしていることも多いようで、今日のようにミツコと二人でいる機会も時々あるようだ。ハジメは二人がどんな会話をするのか、少し聞いてみたい気がした。

「早かったなジロウ……ミツコさん何食べてんのそれ」

「ん…………ふぅ、スーパーカップだけど」

 ミツコは湯気が立ち上る巨大なカップ麺を置きながら言った。

「このクソ暑い中よくカップ麺なんて食べられるな、お湯どうしたの」

「魔法瓶の水筒に入れて……ん、持ってきた」

「そこまでしてかよ」

 昼休みを部室で過ごすようになって、ハジメ自身がミツコと話す機会も増えた。これまで知らなかったミツコの一面が色々と見えてきた。例えば、ミツコは体格の割によく食べることなどもその一つだ。昼食のメニューも様々で、先日は巨大なナンを持ち込んでいて、わざわざ持ってきたカレーをつけて食べていた。

「ジロウは意外と普通の弁当だよね、いつも」

 ハジメは自分の弁当を広げながら言った。ジロウはすでに食べ終えていたが、机の上に空の弁当箱が出しっぱなしになっていた。

「ああ、あまり手の込んだ料理はやったことがないな」

「え、自分で作ってるんだ、お前料理できたのかよ」

「意外……」

「意外ですね……」

 ミツコと声をそろえて驚いたマサヨシは、自分はパンを取り出して齧り始めた。


「ああ、そうだ。そんなことより話さなきゃいけないことがあった」

「集客の事か?」

 ハジメが話を切り出すと、ジロウがすぐに反応した。

「そう。犬塚さんも言ってたし、自分たちで声かけて回ったほうがいいのかなと思って。まあ、反応はちょっと怖いけどさ。せっかくだし」

「う……私は別に、お客さんいなくてもいい……けど」

 ミツコが目を泳がせながら言った。

「そうは言っても、きっとお客さんなしで演奏する方がお客さんの前で演奏するより恥ずかしいですよ」

「……そうかも。でも私、声かけれる相手なんていないし……」

 そう言うとミツコは俯いてしまった。ジロウも難しい顔をしている。二人とも、こんな反応をするだろうな、とハジメが予想していた通りの反応だった。

 二人の反応を見て、この件に関して二人に無理をさせることはないとハジメは考えた。ハジメは話を続けた。

「……それで、俺とマサヨシで、ちょっとクラスを回ってみようと思うんだ」

「いいですね、これから行きますか?」

 マサヨシはまだ少し口をモグモグさせながら答えた。

「早いほうがいいしな、じゃあ……」

 行ってくる。とハジメが言いかけたとき、ジロウが顔を上げた。

「……オレも行くよ。一緒に行く」

 ジロウの返答はハジメの予想外だった。ハジメはとても嬉しかった。

「よし、行こう。ミツコさんは?」

「私は……ごめん、任せる」

「わかった、任せろ!」

 ハジメは力強く答えた。


 昼休みの校舎はどこも騒がしかった。教室までの道を三人で歩いていると、ハジメの中に再び誰もが自分達を好奇の目で見ているのではないか、という感覚が蘇ってきそうになった。

 ハジメはそれを打ち消すように、自分はロックスターであると、大観衆を沸かせることができるバンドのフロントマンであるとイメージした。

 これからロックスターはラジオでライブの告知をする。今自分はバンドメンバーを引き連れ、そのラジオ局へ向かっているロックスターであると強くイメージした。

 最初のラジオ局、もといハジメ達のクラスが見えてきた。昼休みでも人は多く、皆思い思いに過ごしている。ハジメは扉の前で息を吐くと、意を決して扉を勢いよく開けた。そのまま教壇まで行き、大げさに教壇に手をついて見せた。教室は静まり、ハジメたちに注目が集まった。

「みんな聞いてくれ! 土曜日の夏祭りのステージでライブをやることになった! 是非見に来てくれ!」

 教室は再び無音になった。重たい沈黙がハジメにのしかかった。いくら何でも唐突すぎた、この後どうするかも考えていなかった。助けを求めるようにマサヨシやジロウを見るが、二人とも目が「どうするんだよこの後」と言っていた。失敗した、イメージの世界に入りすぎた。

 この場から逃げ出そうと思った瞬間、手を上げて発言する者がいた。

「それって、この前の避難訓練の時の曲やる?」

 避難訓練の翌日、ハジメに話しかけてこようとした女子の片割れだ。ハジメは、再びロックスターになって力強く答えた。

「やるぜ!」

「絶対行く!」

 すぐに声が上がった。あの時の女子のもう片方だ。

「山葉が歌うの?」

「マサヨシくんも出るの?」

「何時?」

 次々に、声が上がった。

「そうだぜ!」

「僕はドラムで出ます! 時間は……」

 二人は力強く答えた。マサヨシが教室の後ろの黒板へ駆けていき、詳細を箇条書きにした。

「金星くんも出るの?」

 また質問が上がった。金星くん。ジロウの不名誉なあだ名はいつのまにかハジメのクラスにも広まっていた。ジロウが一瞬の困惑の表情を見せた。ハジメは答えた。

「ジロウはギターだ、こいつのギターすごいから楽しみにしててくれ!」

 教室は湧いた。意外なほどに湧いた。

「それじゃあ!」

 ハジメ達は確かな手応えを感じながら廊下に出た。教室は元の喧騒が戻っていた。

「みんな、来てくれるといいですね」

「なんとかなりそうだな。それにしても、ジロウの反応すごかったな」

「あれは……なんだったんだ」

 不思議そうなハジメとジロウを見て、マサヨシが答えた。


「二人とも、もしかして知らないんですか? ジロウさんはあれ以来ちょっとした伝説になってるんですよ。放送室ジャッカーって。まあ悪い意味でもなんですけど、良い意味でも伝説なんですよ。ハジメさんもその仲間って噂になってます」


「マジかよ……」

「バカな……」

 二人は開いた口が塞がらなかった。

「本当ですって、次行ったらわかりますよ」

 そう言っている間に、B組の前にたどり着いた。三人とも特に知り合いはいないクラスだ。ハジメは覚悟を決めて、力強く扉を開け放った。

「はじめまして! 隣のクラスの山葉です! 土曜日の夏祭りで……」


 マサヨシの言ったことは本当だったらしい。ここでもライブ告知はハジメの思っていた以上に盛り上がりを見せた。あの避難訓練の日の曲をやると言うことと、ジロウも出るという情報で教室は特に湧いた。他人しかいないクラスで不安だったが、終わってみれば先ほどの自分のクラスでの慣れも手伝って、より手応えを感じることができた。

 ハジメはまさに、ラジオから語りかけるロックスターの気分だった。

 そして一年生の最後のクラス、ジロウの所属するC組の前へとやってきた。

「ハジメ、マサヨシ」

 扉を開ける前にジロウが言った。二人は立ち止まり、ジロウを振り返った。ジロウは、ハジメたちが今まで見たことがないほど緊張しているようで、足が震えていた。

「どうした、大丈夫か?」

 ハジメが聞き返すと、ジロウは足の震えを押し殺しながら答えた。

「ここは、オレにやらせてくれ」

 明らかに強がっているのがわかった。ハジメはジロウの目を見た。ジロウはハジメと目があうと、練習中目があった時と同じように、ニヤリと笑って見せた。ハジメは、ジロウの強がりを汲み、無言で頷いた。ジロウは騒がしいC組の扉を、大げさに開いた。

「みんな! 聞いてくれ!」

 言いながらジロウは教壇へ向かった。ハジメとマサヨシは後に続いた。

「金星が喋った!」

 一目でお調子者とわかるようなやつがジロウを見ながら言った。クラスの一角から笑い声が上がった。

「金星の声久しぶりに聞いたわ」

「あんな声だっけ」

 教室全体が少しずつざわつき始めた。ハジメは、ジロウの歩みが一歩ずつ弱くなっていったような気がした。ハジメはジロウに変わって教壇へ出ていこうとしたが、ジロウがそれを制した。

 ジロウは教壇に立ち、小さく深呼吸して前を見て、叫んだ。

「オレは今度の夏祭りのステージで仲間達とライブをやることになった! 暇なやつは見に来てくれ! 以上だ!」

 ジロウは言い切ると、ニヤリと笑って見せた。シンプルで、開き直りすら感じさせる告知だった。

 教室は爆笑に包まれた。


「来てくれますかね、C組の人たち」

 マサヨシが一番後ろを歩きながら言った。

「さあな、だができることはやったさ」

 ジロウが真ん中を歩きながら答えた。

「大丈夫だ、きっと大勢集まるぞ」

 先頭のハジメが言った。実際、C組の反応はそう悪くはなかった。明らかに悪意を持って、笑いものにしようとして笑っている者も少なくなかったが、ジロウの唐突な宣言に純粋に興味を持ってくれた人も思いの外多かった。

 ジロウが孤立していたのは、彼の話しかけにくい雰囲気のせいで、ジロウ自体は別に嫌われているわけではなかったのかもしれないな、とハジメは思った。

 次はどうするか考えながら三人は並んで歩いていると、三人のスマートフォンから同時に着信音が鳴った。

「メールか」

「ミツコさんからですね」

「放課後各自百円持ってコンビニ……なんだろ」

 本文にはそれだけしか書かれていなかった。

「まあ、行ってみるしかないか……」

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。三人は放課後落ち合う約束をしてそれぞれの教室へと戻った。


 放課後、三人はコンビニへ向かった。メールにはどこのコンビニとも記されていなかったが、近くにコンビニと呼べるような店は一軒しかなかった。校門から自転車で五分ほど行ったところにその店はあった。店の前には見慣れた原付が駐めてあり、その上に座ってミツコが三十円のアイスを齧っていた。

「ん」

 アイスを咥えたままミツコが黙って右手を差し出した。百円出せ、ということらしい。三人はとりあえず従って百円ずつその掌に乗せた。

「んー」

 ミツコは受け取った百円玉を制服のポケットにねじ込むと、片手で鞄を開けて紙の束を取り出した。そしてそれを片手で器用に十枚ずつ数え、ハジメたちに手渡した。

「んんんん」

「んんんんって……すごい、これミツコさんが作ったのか」

「んー」

 ミツコアイスを咥えたまま無表情でピースサインをして見せた。ミツコがハジメたちに配ったものは、おそらくは鉛筆か何かで丁寧に書かれたものを白黒コピーした、A4サイズのポスターだった。

 上部にはでかでかと、太めのおどろおどろしい書体で『ザ・ヴィーナス・アタック』とバンド名が、その下には奇妙な生き物がバンドをやっているイラストが描かれている。先日ミツコが来ていた金星人スーツに似ていないこともなかった。ハジメ、ジロウ、マサヨシの名前がローマ字で書いてあり、その下にはものすごく小さな文字でミツコの名前も書かれていた。一番下には、大きく丁寧な字で夏祭りの日付とステージの時間。

「すごいな、ミツコ絵上手いじゃないか」

「オオハマ楽器とか行って貼ってもらいましょうよ」

 ジロウとマサヨシもしきりに感心しているようだ。

「ん……私だけ何もしないわけにはいかないと思って」

 ようやくアイスを食べ終えたミツコが棒を咥えたまま言った。その顔は少し得意げに見えた。

 夜、ハジメは自分の部屋の壁をニヤニヤと眺めていた。ハジメが憧れているバンドのポスターが二枚並べて貼ってある。その下に小さな紙が一枚貼られている。ミツコが作ったポスターだ。同じものがオオハマ楽器や思春期の恋、校内の掲示板、その他町の数カ所に貼ってある。それを見たところで誰かが興味を持って見にきてくれるかはわからないが、ハジメはそのポスターを貼って回る行為そのものが楽しかった。ライブへ向かって行動しているという実感が、ハジメを高揚させるには十分だった。

 ハジメはギタースタンドからギターを手に取り、ストラップを肩にかけた。壁のポスターの前に立ち、憧れのバンドのフロントマンと同じポーズを取ってみた。全身にこみ上げてくるものがあった。そのまま生音のエレキギターをかき鳴らした。目を閉じるとまぶたの裏には人、人、人の海。これが数日後には現実の光景となっているのだと思うと、ハジメは叫ばずにはいられなかった。ライブまであと数日。



「じゃあ、行くぞ」

 ジロウは真剣な眼差しで言った。

「さあ……こい!」

 ハジメは力強く答えた。力強くはあったがその脚は微かに震えていた。ミツコ、マサヨシも黙って頷いた。全員の反応を見届けたジロウは自分も小さく頷くと、ミキサーに接続されたハンディレコーダーの再生ボタンを押した。


「…………完璧だろ!」

「ああ!」

「まあ……なんとかなりそうね」

「あとは本番ですねー」

 本番前日の夕方。ハジメたちはスタジオで、最後の練習の録音を聴いていた。仕上がりは十分だった。少なくとも、今のハジメたちにできる最高の状態に仕上がったと言えた。

 ハジメたちが片付けを済ませてオオハマ楽器の一階へ降りると、カウンターではヨーダ店長が新聞をめくっていた。

「あんた達ライブに出るってねえウェッヘッヘッヘッヘ」

 店長はハジメたちに気がつくとそう言って笑った。

「はい、明日です!」

 ハジメが答えると、ヨーダ店長はニヤけた顔をさらにニヤけさせて笑った。

「今日は明日出るバンドで予約がいっぱいさウェッヘッヘッヘッヘッヘッヘ、いつもこうならいいんだがね」

「じゃあ毎週ライブ企画してくださいよ」

「ウェッヘッヘッヘ、あんた達以外はほとんどオヤジバンドばっかりだからね、体力が持たないのさヘッヘッヘッヘ」

 ヨーダ店長は笑いながら手を差し出した。「さっさとスタジオ代払え」の合図だ。ハジメ達はすぐに従った。

 ハジメたちが精算していると店の入り口から犬塚さんが現れた。いつものエプロンではなく、ティーシャツにジーンズといった出で立ちだ。犬塚さんはハジメたちを目にするなり駆け寄ってきて言った。

「ハジメくん丁度いいところに! みんなちょっと時間ある?」

「あ、はい。ありますけど……」

「よっし、じゃあみんな楽器持ってついてきて!」

 犬塚さんはそう言うと外へ走って行った。ハジメはジロウ達の方を見たが、全員首を傾げている。ハジメたちは、何だかわからないがとりあえずついていくことにした。

 外へ出ると、少し離れたところから犬塚さんが手招きしていた。

「こっちこっち!」

 大声で呼んでいるのが聞こえる。ハジメ達が付いてきているのを確認すると、犬塚さんは再び走り出した。

「どこまで行くの……」

 ベースのケースを担いでいるミツコがげんなりと言った。

 結局その後数分間走り回って犬塚さんを追いかけると、広い屋外の駐車場へとたどり着いた。明日の夏祭りのメイン会場となるところだ。その一角には、すでに巨大なステージが組みあがっていた。

「あれが……」

「ステージか……」

 ハジメたちは息を切らしながらつぶやいた。するといつの間にか横に立っていた犬塚さんが、片手を腰に当ててもう片手でステージを指差しながら言った。

「そう! 結構すごいっしょ。でさ、今からバンドステージの音響テストやるから、手伝って! ほら、明日リハーサルとか出来ないから、これがリハーサルと思っていいからさ!」

「本当ですか! やります! やろう!」

 ハジメは走ってきた疲れも忘れて叫んだ。もちろん全員ハジメと同意見だった。


 犬塚さんに連れられてステージの上に上がると、そこは想像以上の高さだった。一メートルと少し程度の高さだったが、上から見るとそれ以上に感じた。

「大丈夫よ、お客さんいっぱいくると気にならなくなるから」

 ハジメが高さに驚いていること察した犬塚さんがステージ上のセッティングをしながら言った。すでにアンプやドラムセットなどは置いてある。そこ集音用のマイクなどをセットして回っているようだ。

「犬塚さん、これ足場大丈夫なんだろうな。抜けたりしないだろうな」

 隣でジロウが軽くジャンプしながら言った。確かに、足場も驚きだった。鉄パイプを組んだ骨組みの上に板を敷いてステージにしてあるのだが、この板が思った以上に薄かった。上を歩くと軽くしなるのがわかるほどだ。

「うーん、大丈夫だよ。プロの人の仕事だし、多分」

「多分って」

「それより準備できたから、みんなセッティングよろしく。できたら合図してね」

「あ、はい」

 ここから先は、ハジメには何が行われているのかよくわからなかった。まず犬塚さんの指示に従いながらマサヨシがドラム叩いていた。次にミツコにベースの音を鳴らさせ、次はジロウのギター、そしてハジメのギターを鳴らさせた。最後にボーカル用のマイクだ。

「ハジメくん何かマイクに向かって、はい」

「え? あ、はい。あの、これって何やってるんですか?」

「んー、簡単に言うと外に聞こえる音のバランスを整えるための準備だよ」

「なるほど、あーあーあーあーあー。こんな感じで良いですかね」

「もうちょい」

「あーあーあーあーあー」

「よし、いいや。とりあえず一曲やってみて。やりながら調節するから。その後自分たちの音の聞こえが悪いとかあったら教えてね」

「あ、はい」

 ハジメは振り返って仲間たちを見ると、各々緊張しているのが嫌というほど伝わってきた。あのマサヨシでさえ表情が硬くなっていた。

「よし、とりあえず一曲目からやるか」

 言ったのはジロウだ。ハジメは頷き、改めて前を見た。広いアスファルトの駐車場が見える。明日はここに人が埋まり、ここでこのようにライブをやるのだ。ハジメはイメージした。後ろから、マサヨシがスティックを四回打ち鳴らす音が聞こえた。


 演奏が終わると、いつの間にかステージの正面に犬塚さんが立っていた。

「ちょっと緊張してるみたいだけどー、とりあえずいいかな。おかげで外音の調整はオッケーだよ、ありがとう。そっちの方はどう? 自分たちの音が聞こえにくいとかある? 今返しは適当にセッティングしてるんだけどさ」

「え? あ、はい、あの……」

 犬塚さんの言う通り、ハジメは緊張していた。正直、自分たちの音を聞く余裕すら無かった。助けを求めるようにジロウを見るが、ハジメと同じような顔をしていた。ミツコ、マサヨシも同様だった。

 するとハジメたちの様子を見かねた犬塚さんが助け舟を出してくれた。

「んーと、あのさー、野外ステージだから遮るものがなくて音が飛び散っちゃうのよ。だからその両サイドのスピーカー、モニターとか返しって言うんだけど、それでみんなの音を内側に聞こえやすいようにって出してるから、それを意識して! それでも聞こえにくいとかあったら教えて! あとねー、耳だけじゃなくて、直接メンバーをチラチラ見るといいよ。よし。もう一回やろうか! 大丈夫大丈夫ー」

 そう言うと犬塚さんは音響機器の元へ戻っていった。気をつけるべきところはわかった。ハジメは気を取り直して、もう一度仲間たちを見た。

「よし、もう一回同じ曲だ! 大丈夫だ! 練習の時みたいに!」

 ハジメは自分に言い聞かすように言った。

「わかった!」

「うん……」

「いきますよ!」

 今度は全員が声に出して答えた。再びマサヨシがスティックを四回打ち鳴らした。ハジメは弦に向かってピックを振り下ろす。ステージ両サイドのモニタースピーカーと、背後から直接感じるマサヨシのバスドラムの振動を見失わないよう、しっかりと全身で捕まえると、その上に重なるように奏でられるミツコのベースの音が聞こえた。その上に立つように、ハジメはイントロをかき鳴らしていく。さらにその上にジロウのギターが、飾り立てるようにメロディを乗せた。全ての音がしっかりと聞こえた。ハジメは再びイメージした。明日の自分を、明日のバンドを、明日のステージを強くイメージした。そしてハジメはイメージの中の観客に向かって歌い出した。


「ありがとう!」

 ハジメは誰もいないアスファルトの駐車場に向かって叫んだ。パチパチと一人分の拍手が返ってきた。ハジメにとって誰からの拍手よりも嬉しい拍手だった。

「かっこよかったよ! 中の音は大丈夫そう? 明日もよろしくね!」

「はい! ありがとうございます!」

 ハジメは笑顔で返した。

「あと、弦買うなら是非ウチでどうぞー」

 ハジメはふとギターに目をやった。いつの間にか一弦が切れていた。

「切れた」

 ハジメは笑いながらジロウにギターを見せた。ジロウは笑いながら、自分のギターを見せてきた。

「オレも」

 二人はゲラゲラと笑った。もう何がおかしいのかわからなかったが、酸欠になるほど笑った。



「ウヒヒヒヒヒ」

「イーヒヒヒヒヒ」

「ウケケケケ」

「みなさん……」

「ヒヒヒー」

「ケケケケケ、ウケケケケケケ」

「ヒッヒッヒヒヒヒヒ」

「みなさん……」

 オオハマ楽器の奥のスペースで、マサヨシは心細い思いをしていた。

 さっきからハジメ、ジロウ、ミツコはそれぞれ、ピッカピカに磨き上げた自分の楽器を抱いてうっとりしていた。

「だってほら、ボディも磨いた上に新品の弦だぜヒヒヒヒヒヒ」

「ピカピカだ! ピカピカだ! ヒヒヒ」

 昨日切れた弦を交換するついでにボディをピカピカに磨き上げたハジメとジロウが興奮気味に言った。

「約束とはいえ悪いねヨシくん……エリクサーの弦なんて買ってもらっちゃってウヒヒヒヒ」

「いえ、まあそれは約束ですので……」

 ミツコも以前マサヨシに買わせる約束をした高級ベース弦に張り替えてご機嫌だった。

 祭り当日、時刻は正午頃、ハジメたちの出番まではまだしばらく時間があった。

 大通りからメイン会場の駐車場までは屋台が立ち並び、沢山の人がひしめき合っている。

 この夏祭りは田舎とはいえそれなりに大きな祭りで、付近の町からもわざわざ観に来る人がいるほどだった。町全体が活気付き、普段全然客がいないここオオハマ楽器にさえ客が数名いるほどだった。

「あの、せっかくですし屋台とか回ってみませんか」

 一人手持ち無沙汰だったマサヨシが外を見ながら呟くと、皆ようやく気持ち悪い笑いをやめて立ち上がった。

「そうだな、腹ごしらえしておいたほうがいいだろう」

「箸巻きお好み焼き食べよう。あれはハズレがない」

「私……毎年出てるクソ不味い屋台知ってるから行こう」

「不味いならやめとく……店長、楽器とか荷物、ちょっとの間置かせてもらってもいいですか?」

 ハジメはカウンターでテレビを見ながら焼きそばを貪っているヨーダ店長に言った。

「ああ、構わないよ」

 ヨーダ店長はテレビを見ながら答えた。

 通りからメイン会場の駐車場の中までぎっしりと、たこ焼きや焼きそばに焼き鳥やフライドポテト、かき氷に綿あめ、りんご飴などの屋台がずらりと並んでいる。一通り回ってみようとメイン会場の方へ歩いていると、ハジメたちは人ごみの中から声をかけられた。

「頑張ってね!」

「見に行くから!」

 ハジメのクラスの女子二人だった。

「ありがとう!」

 ハジメは嬉しくなり、手を振りながら返した。声をかけてきたのは彼女たちだけではなかった。メイン会場まで歩く間に多くの御徒高校生に声をかけられた。

「楽しみにしてるよー」

「金星頑張れ!」

「金星! 金星! あー! あああー!」

 ハジメは改めて、ライブ当日であることを実感した。声援を受け取るたびに、心の中から何かが湧き上がるのを感じた。

 メイン会場のステージを見上げると、今は市民ママさんベリーダンス愛好会の演舞が行われている。数時間後、ハジメたちはここで人生初めてのライブをする。

「よし、やるぞ」

 ハジメは意気込みを小さく呟いた。

「あんなの興味あるの……?」

 ミツコがステージを眺めているハジメを見ながら言った。

「いや、ステージを見てただけで、あのステージを見てたわけじゃ」

「何言ってんの……」

「おい、あれマスターじゃないか?」

 ハジメが言葉の綾に苦労していると、ジロウがステージとは逆の方を指して言った。いつの間に買ったのか、手にはりんご飴が握られている。 

「ワラスボ焼き……本当だ」

「屋台出してたんですね……」

 四人が屋台に歩み寄ると、マスターは気がついたらしく手を振って見せた。

「やあ、ここなら屋台出しながらステージが観れるだろう。楽しみにしてるよ」

「ありがとうございますマスター!」

 ハジメが元気良く答えると、マスターはニッと笑ってハジメに紙袋を手渡した。中身は人数分のワラスボ焼きだった。

「差し入れだ、食べなさい」

「ありがとうございます!」

「それと、これも渡しておこう。よかったら衣装に使ってくれ。新品だ」

 マスターはそういうと大きな手提げ袋を取り出した。マサヨシが受け取り、中身を取り出した。見覚えのある、黒光りしたグロテスクな何かがたたまれていた。

「人数分あるから安心してくれ。着るだけでいいように隙間を改良しておいた」

 マスターは再びニッと笑って見せた。

「ハハハ、お気持ちだけ受け取っておきます」

 ハジメは苦笑いしながらそう返した。

「せっかくだし着ましょうよ」

「私頭だけ被って出ようかな……緊張しないかも」

「ほら、マサヨシくんとミツコちゃんだってそう言ってる。一応持って行ってくれよ」

「あ、はい。じゃあ……」

 ハジメは苦笑いしながら答えた。そして何か話題をそらそうと思った。

「そうだ、あの、写真撮ってくれませんか。俺たちの」

「写真? いいよ」

「お願いします! あ、これのカメラで」

 ハジメはスマートフォンのカメラ機能を起動させてマスターに手渡した。

「あ、じゃあオレのも」

「僕のでもお願いします」

 ジロウとマサヨシもそれに続きマスターにスマートフォンを手渡した。ミツコはポケットをまさぐっている。

「あれ……私のスマホ、ベースのケースの中だ」

「後でメールで送りますよ」

「あ、ありがとう」

「それじゃいくよ。スリー、ツー、ワン、アクション!」

「アクションしちゃダメだろ!」

 ハジメのツッコミとシャッター音が見事に重なった。


「店長ただいまー」

「お土産買ってきました、たこ焼きどうぞ」

「ウェッヘッヘッヘッヘすまないねえ」

 マサヨシがたこ焼きを差し出すと、店長は奇妙に笑いながら受け取った。荷物を預けさせてもらったのだからと、マサヨシが提案し帰りに買ってきたものだ。

「あ、あれ……店長さん私の楽器どっか移動させました?」

「いや、あたしゃ触らないよ」

 店の奥でミツコが辺りを見回している。

「……ないんですけど」

「え?」

 ハジメは店の奥、荷物を置いたところに駆け寄った。そこにはハジメの安っぽいギターケースと、マサヨシのスティックケース。それだけしかなかった。

「ジロウのギターも無いぞ」

「店長本当に触ってないんですよね? まさか盗まれたか?」

 ジロウが焦りを見せながら言った。

「まさか、このあたしが店番しといて盗まれるわけがないだろ。本当にそこに置いたのかい?」

「いや、だって店長、オレのギター鈴とかついてませんよ……」

「…………そうだねぇ」

 店長はそういうと考え込んでしまった。

「そうだねぇじゃないですよ!」

 ハジメは叫んだ。

「まてハジメ、店長のせいじゃないだろう……とりあえず探してみよう。まだ時間はある」

 ジロウはハジメを制すると店の奥を探しはじめた。

「いや、すまないね。あたしのせいだ。とりあえず今、警察よぶからね」

 そういうと店長は受話器を取り、警察に通報した。程なくして、近くの交番から警察官がやってきた。警察官はことのあらましを聞くと神経質にメモを取り、ジロウとミツコを見ながら言った。

「……なるほど、じゃあ君と君、あと店長さんは詳しく話しを聞かせてください」

「はい……あの、どれくらい時間かかりますか?」

 ジロウが時計を見ながら尋ねた。

「うーん、わからないけど、結構時間貰うかも」

 警察官は難しい顔をしながら言った。

「結構……」

 気がつけば出番まではあと一時間ほどに迫っていた。

「ジロウ、俺ちょっと犬塚さんのところ言って時間ずらせないか聞いてくる!」

「僕も行きます!」

 返事も聞かないままハジメとマサヨシは店を飛び出した。 


「ゲ、マジ?」

「マジです、なんとかお願いします!」

「お願いします!」

「うーん、参ったな……」

 犬塚さんは腕組みして眉を潜めた。ステージではすでに最初のバンドが演奏をはじめている。どうやら、そう簡単にはいかないらしい事を犬塚さんの表情が物語っていた。

「なんとかしてあげたいけど……うーん、オッサンたちに順番の説得か……」

「俺たちがやりますから! なんでもやりますから! なんとか!」

 ハジメは深々と土下座した。

 犬塚さんはハジメの目の前にしゃがみ、肩に手を置いた。ハジメが顔を上げると、犬塚さんはいつもの笑顔で言った。

「わかった、大丈夫まかせて! アタシがなんとかしてあげる!」

「ありがとうございます!」

「ありがとうございます!」

 ハジメはもう一度頭を下げた。マサヨシも深く頭を下げた。

「さっそく、他のバンドに頼みに!」

 ハジメは立ち上がって額の砂を払った。

「いや、大丈夫。ハジメくんたちはジロちゃんたちの方をなんか手伝ったげて。なんか、やることあるでしょ多分。オッサンたちはアタシが説得するよ。こういうのは女の方が向いてるしね」

 そういうと犬塚さんはTシャツの緩い襟を掴むと、胸元へグッと引っ張った。そして何処かへ電話しながら走っていった。犬塚さんの後ろ姿はとても頼もしかったが、ハジメはなんだか少しだけ悲しい気持ちになった。

「助かりましたねハジメくん、あとはジロウさんたちの楽器ですね!」

「なあ、犬塚さん、オッサンたちに何するつもりなんだろうな……」

「?」

「いや、なんでもない。とりあえず戻ろう」

 ハジメは妄想を頭から振り払い、マサヨシとオオハマ楽器へ走った。

 ハジメがオオハマ楽器に戻ると、すでに警察官はいなくなっていた。

「時間は遅らせてもらえそうだ! こっちはどうなった?」

「見つかりそうですか?」

 二人はジロウとミツコを見るなり口々に言った。しかし、二人の表情は浮かなかった。

「いや、どうしようもない。こういうのは見つかる確率の方が少ないそうだ」

「よく考えたら警察呼んだからってどうにかなるような問題でもなかったわね……」

 二人は苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「すまないねぇ、あたしがいながら……」

「いえ、店長のせいでは……」

 店内には気まずい沈黙が訪れた。


 ハジメたちはもう一度店内を探したり、同じギターケースを背負った人間を探したりもした。しかし時間だけが刻々と流れていった。

 出演予定時間はもうあと少し。そんな中、ハジメのスマートフォンの着信音が鳴った。電話の発信元は犬塚さんだ。

「もしもしハジメです」

『ごめん、ちょっと時間遅らせるのやっぱ難しいかも……でも、もうちょっとギリギリまで頑張ってみるから! で、そっちはどう? 見つかりそう?』

「いや……それが」

『そっか……楽器なら貸せるけ』

「あああああああああああああー!」

 突如、電話しているハジメを見ていたミツコが叫んでハジメから携帯をひったくった。

「すみません、ちょっと切ります」

 ミツコは電話の向こうの犬塚さんにそういうと電話を切った。

「何すんだよ!」

「いいから! ちょっと貸して!」

 ハジメはミツコが何を考えているのかわからなかったが、何か考えがあるということだけわかったので大人しく貸すことにした。ミツコはハジメのスマートフォンを何やら操作すると、皆に画面を見せた。地図の画面の中央で緑色の点が光っている。

「私のスマホの位置、荷物に入れっぱなしだったやつ……!」

 スマートフォンを紛失した時に、他の端末から位置を探すことができる機能だ。

「なるほど! で、どこだ!」

 緑の光点は、意外とハジメたちに馴染みのある場所にあった。

「海辺……?」


「はぁ……はぁ……」

 ハジメは鼻と口をフルに使い、乱れた呼吸を整えた。その度に磯臭い海の空気が鼻をついた。

「おえぇ……」

「ギター置いてくればよかったのに……」

 肩で息をしながら顔をしかめるハジメを見かねたミツコが言った。

「だってミツコたちの楽器取り返しに行ってる間に俺のギター盗まれたらバカみたいだろ」

「そうだけど……で、私のスマホの位置、どうなってる?」

 ハジメはスマートフォンの画面を確認した。緑の光点の位置は変わっていない。

「この辺のはず、かなり近くに表示されてるよ……あ」

「どうした、ハジメ」

「時間が……もう」

 スマートフォンに表示された現在の時間は、ハジメたちのバンドの出番を少し回っていた。

「クソッ……」

 ハジメは落胆してしゃがみこんだ。怒りや無念の気持ちがどっとハジメの肩にのしかかった。ジロウ、ミツコも落胆した様子でその場にうなだれた。

「ダメだったか、今こんなことを言っても仕方ないが、楽器借りればよかったよな」

「でも、そうしてたらきっと楽器を取り逃がしてたよ……まだ見つけてないけど」

「シッ、ちょっとみんな静かにしてください。何か聞こえます」

 マサヨシは三人を制して耳をすませた。ハジメも耳をすませてみると、確かに海風の音に混ざって、微かな音が聞こえた。人の声と、カチャカチャと何かをひっかくような音だ。

「浜辺側だ」


 ハジメは足音を立てないように、防波堤の隙間、浜辺へ降りる階段に忍び寄った。さっきよりも大きく音が聞こえる。ハジメたちはゆっくりと浜辺側を覗き込んだ。

「あ……オレのギター」

「私のベース……だよね?」

「プッ……ごめんなさい、僕ちょっとこれは……ブプッ……」

「マジかよ……」

 ハジメたちが見たのは、ジロウのギターとミツコのベースを抱え、海に向かって熱唱している小学生たちの姿だった。彼らは、いつかの公園でジロウの演奏を聴いていた男の子と、その時一緒にいたもう一人だった。風の音にかき消されてほとんど聞こえなかったが、二人で一生懸命デタラメなコードを押さえながら何かを歌っていることだけはわかった。

「ヨーダ店長、やっぱりモーロクしてんじゃねえの」

「普段客こないしな」

「いやあ、子供って邪気がないですから案外気がつかないかもしれませんよ」

「さて……どうするかな」

 ジロウが小学生たちを見ながらポツリとつぶやいた。

「どうするって、さっさと返してもらおう」

「その後どうする? 警察に突き出すのか?」

「そりゃそうだろ……」

 ハジメが当然というように言うと、ジロウがニヤリと笑って見せた。

「いやハジメ、待ってくれ。オレは彼らを許したい」

 ハジメはジロウの考えがわからなかった。ハジメとしては今すぐに彼らを殴りたい気持ちだったが、盗まれた当人はそうではないらしい。

「ジロウがそういうなら……ミツコは?」

「私は、クソガキが警察に怒られてピーピー泣いてるところも見たかった気がするけど……いいよ。許そうか。じゃあ、行こう」

「いや待てミツコ。許したいが、しかるべき罰も必要だ。なあ、どうせライブには間に合わないのなら、オレの悪ふざけに付き合ってくれないか。マサヨシ、アレも持ってきたか?」

「アレ? あれって……これですか?」

 マサヨシは大きな紙袋を差し出した。

「ああ、それだ。全員着替えろ」

 ジロウは一層顔をニヤニヤさせながら言った。あっという間にそこには四体の黒い金星人が出現した。

「金星人襲来(ヴィーナス・アタック)……」

 四体の金星人のうち一体がつぶやいた。

「やめろ、笑わせるな、今からオレたちは金星人だぞブプッ、プッ……」

 金星人のうち一体が言った。

「あっ、ターゲットがギター仕舞おうとしてますよ」

 ビデオカメラを片手に持った金星人が言った。

「よし、突撃だ!」

 金星人の合図で金星人たちは小さなギター泥棒たちに向かって走った。

「オロロロロロロロー! オロロロロロロロー!」

 一体の金星人が奇声をあげた。

「うわっ、うわあああああああ!」

「ぎゃあああああ!」

 片方の小学生が異変に気づき、悲鳴をあげて尻餅をついた。もう一人はベースを肩からかけたまま浜辺を走り出した。

 四人の金星人は二手に分かれた。二体はベースを持った方を、二体は尻餅をついた方に駆け寄った。

「オロロロロロロロー! オロロロロロロロー!」

 金星人は尻餅をついた小学生に駆け寄って、ギターをケースごと引ったくった。

「うわっ! うわああああああ!」

「オロロロロロロロー! オロロロロロロロー!」

「いやああああ! 殺さないでください!」

 小学生は泣き喚いた。二体の金星人は尻餅をついた方の小学生の前で威嚇するような動きをしてみせた。

 しかしその時、ベースを持ったまま逃げた方の小学生が、追っていた二体の間をすり抜けて尻餅をついた方に駆け寄ってきた。

「うわあああ! てっちゃあああああん! てっちゃんから離れろおおおお!」

「よっちゃあああああん!」

 ベースを持った小学生は、尻餅をついた小学生の前の二体の金星人と対峙した。

 そして狂ったようにベースをかき鳴らしはじめた。

「うわあああああ! うわあああああ!」

 ベースをでたらめにかき鳴らしながら小学生は叫んでいた。

「うわああああああああ! うわああああ! 近所の頭おかしい兄ちゃんが言ってたんだ! 金星人がいるって! 金星人はロックで死ぬって言ってたんだ! うわあああああ! 死ねえええええええ! てっちゃんから離れてえええええ! うわああああああああ!」

 あたりには海風の音と、ベチベチというベースの弦を弾く音。それと小学生の絶叫だけが響いていた。

 尻餅をついた方の前にいた金星人二体は、腰が砕けたかのようにずっこけた。

「マジかよ……」

「ジロウお前……頭おかしい兄ちゃんって……」

 倒れた金星人二体は笑った。笑いすぎて動けなかった。

「効いた! 頭のおかしい兄ちゃんの言ってたことは本当だったんだ! てっちゃん逃げろ! てっちゃん!」

 ベースをかき鳴らした勇敢な小学生が倒れた二体の金星人を見て言った。しかしその時、尻餅をついている小学生が叫んだ。

「よっちゃん後ろおおおおおおおお!」

 ベースを担いだままの小学生、よっちゃんは次の瞬間、背後から金星人に捕らえられた。金星人は言った。

「教えてあげる地球人……それはベースであって、そうやって弾くもんじゃないの……あと、そんなんじゃ金星人は死なないよ」

 金星人はそういうと、よっちゃんからベースを引ったくった。

「うわあああああああ!」

 よっちゃんは解放されると同時に脇目も振らずに逃げ出した。あとには四体の金星人と、てっちゃんが残された。

「そこの地球人」

 金星人の一体が、呆然としているてっちゃんに言った。

「あー……、楽器は盗むな。特にオオハマ楽器からは盗むな。わかったか? あとこのことは秘密にするんだぞ……もう帰っていいよ」

「あ……はい。うわあああああああああああ!」

 てっちゃんも立ち上がり、脇目も振らずに逃げ出した。あとには楽器をもった金星人四人が残された。

「さて、会場戻ろうか。時間は?」

「えーと、バンドステージもあと少しで終わる頃ですね。最後のバンドは見られるかもしれませんよ」

「……行こうか。犬塚さんたちに報告もしなきゃいけないしな」

 ハジメたちはゴム製スーツの頭部だけ脱ぎ、体は金星人のまま歩き出した。笑転げたせいか、不思議と気持ちは晴れやかだった。


「あーあ、ライブ、やりたかったな」

 ハジメは暗くなり始めた空を見ながらつぶやいた。

「次がある。オレたちがバンドを続ける限りな」

 ジロウがその隣を歩きながら言った。

「あの……続けるんならさ、あの、私、正規メンバーにしてくれないかな」

 ミツコが後ろを歩きながら言った。

「一緒に宇宙人の格好して走り回ったのにまだサポートメンバーのつもりだったんですか?」

 マサヨシがその隣で笑いながら言った。ハジメと、ジロウも笑った。

「うるさい……ねえ、あれ……」

 ミツコが、急に前を指差しながらゆっくりと走り出した。

「あれ……まさか、バカな」

 ジロウも気がついて、走り出した。

「すごい! すごいですね! 行きましょうハジメくん!」

 マサヨシも後を追って走った。

「……すげぇ!」

 ハジメも走り出した。すぐ目の前まで来ていた夏祭りメイン会場に。大盛況の人々の海の中に。熱狂を巻き起こしているステージの前に向かって走り出した。


 ステージ上のバンドが、どこかで聞いたことがある曲をやっている。有名な曲ではない。しかしハジメはこの曲を聞いたことがあった。この曲は、昔の映画研究会が作ったクソ映画の曲だ。金星人を倒すために演奏されていた曲だ。

 ステージ上のバンドは最後のサビに差し掛かる。ギターボーカルが力強くギターをかき鳴らし歌っている。ベースは全身でリズムに乗りながら重低音を響かせ空気を震わせている。ドラムはワイルドな動きながらもマシーンのような正確さでビートを刻んでいる。

 ハジメたち四人は無理やり最前列に出ると、ステージに向かって拳を振り上げていた。力一杯拳を振り上げていた。


「ありがとーう!」

 曲が終わると、ステージ上のギターボーカルが叫んだ。会場は再び大歓声が沸き起こった。そしてギターボーカルはマイクに向かって喋った。

「えーっと、アタシらは今の曲で終わり! 最後のバンドの前座だからね! さあ、主役が帰ってきたみたいだよ!」

 ステージ上のギターボーカル、犬塚さんはそういうと、最前列のハジメにウインクして見せた。ハジメは仲間たちと顔を見合わせると、すぐにステージの裏へと走った。

「あ、メンバー紹介! ドラム、店長! オオハマ楽器の店長! ベースはマスター! 思春期の恋って喫茶店のマスター! ギターボーカルはアタシ! じゃあこの後、最後のバンドはザ・ヴィーナスアタック! みんな楽しんでね!」

 犬塚さんはマイクに向かって叫ぶと、満足した顔でステージから降りてきた。そしてステージ裏のハジメと目があうと、いつものように、いや、いつもの何倍も魅力的な笑顔で言った。

「ステージ温めておきました! いやーハジメくんもジロちゃんも電話出ないからこないかと思ったよ。間に合ってよかったー!」

「電話? 犬塚さん! これは?」

 ハジメが興奮気味に尋ねると、犬塚さんも興奮気味に説明した。

「ハジメくんたちトリでも良いかってオッサンたちに頼んだんだけどなかなか聞いてくれなくってさー、困ってたら店長が一緒に頭下げてくれたんだ。そしたらオッサンたちも一発! 店長が言うならーってさ! 決まってから電話したんだけど、誰も出ないからさー。何してたのさみんな。そんな格好で」

「無駄口叩いてないでさっさとステージに行きな! 客が冷めちまうよ! すまないが、時間は一曲分だ、さっさと行ってきな!」

「頑張れ皆! やっぱりいい衣装じゃないか!」

 犬塚さん、ヨーダ店長、マスターはステージへの階段へ道を開けると、開いた手を掲げた。

「はい!」

 ハジメたちはハイタッチを交わしながらステージへと駆け上がった。

「こんにちは! 違う、こんばんはだ! こんばんは! ザ・ヴィーナスアタックです!」

 ハジメはステージから叫んだ。そこからの景色は人、人、人の海。夏祭りの灯りに照らされた人の海はハジメの声を受けて、大歓声をあげた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る