第5話

   第五話



 避難訓練の日、防波堤の道、臭い浜辺。

 ハジメが去った後も、ジロウは一人、雨の中で立ち尽くしていた。

 学校内の金星人殲滅作戦の後、行方不明になった仲間を探しに来てみれば、仲間はひどく情緒不安定になっていた。

 ジロウははじめ、ハジメは自分の作戦失敗を咎めているのだと思ったが、そういうわけではなさそうだった。では金星人による精神攻撃だろうか。だとすれば一刻も早く仲間を救わねばならない。しかしどうすればいいのか見当もつかなかった。どこへ行ったのかもわからない。

 それに、先ほどハジメに捲し立てられた後、ジロウの頭の中には何か異物のようなものが急に芽生えた気がした。ジロウ自身それが何かはわからなかったが、それはジロウをひどく不安にさせた。

 携帯が鳴っている。メールの受信を知らせる音だ。ハジメからかもしれない、そう思いジロウが慌てて携帯を取り出すと、液晶画面が雨粒で滲んだ。ジロウはようやく雨が降っていることに気がついた。画面を袖で拭い、要件を確認する。残念ながら、メールはハジメからではなかった。メールの送信元は『母』と表示されている。件名は無し、本文には『今夜久しぶりに父さんと帰るからね~ん』と能天気な文が打ち込まれていた。

「母さんか……」

 ジロウは一人つぶやくと、携帯をしまい、自転車へ向かった。

 ハジメのことも気がかりだったが、今はどうにもできない。それに、今は何よりもこの頭の中に芽生えた異物の正体を確かめないといけない気がした。ジロウは雨の中、家へと向かった。その道中、急に子どもの頃の記憶が蘇ってきた。


 ジロウが子供の頃から、両親はほとんど家にいなかった。仕事であちこち飛び回っているらしい。現在ジロウはほぼ一人暮らしの生活をしているが、小さい頃は祖父母や親戚の世話になっていた。とりわけ犬塚さんには実姉のように懐いていた。ジロウが初めて金星人に遭遇した時も、犬塚さんが家にいたことを覚えている。

……なぜ急に子どもの頃の記憶が蘇ってきたのだろう、と、ジロウは考えたが、何も思いつかなかった。気がつくと、家はもう目の前だった。


 ジロウが家に帰ると、玄関の向こうで物音が聞こえた。窓から明かりも漏れている。両親だろうか、しかしこれが万一金星人であったら……。確認するまで油断は禁物だ。ジロウは慎重に、音が鳴らぬようにドアを開けた。玄関には見慣れない靴が二足、男物と女物だ。両親のものである可能性はあったが、まだ安心はできない。ジロウはハンディレコーダーを構えた。金星人がいたらこの曲をお見舞いしてやろうと考えたのだ。

 しかし、ここでハジメの言葉がジロウの脳裏をよぎった。誰も倒れなかった。金星人は死ななかった。ハジメの言葉を信じるなら、この曲は失敗作だ。この曲で金星人は倒せない。

 ジロウは玄関に立てかけてあった金属バットを握りしめた。これで金星人二体を相手に勝てるだろうか……。ジロウは息を飲んだ。金星人は地球人に擬態はしているものの、その肉体は地球人よりはるかに進化しているのだ。ジロウは覚悟を決めて、明かりがついている居間へと飛び込んだ。

 居間には誰もいなかった。金属バットを構えたまま、室内を壁に沿ってゆっくりと進む。


「動くな! バットを置け」


 ジロウの背後から男の声が聞こえた。ジロウは息を飲んだ。背後を取られた、どうすればこのピンチを脱することができるか、ジロウは脳をフル回転させながら、ゆっくりとバットを床に置いた。

「よーし、そのまま両手を上にあげて、ゆっくりとこちらを向け」

 背後の男はジロウに命じた。ジロウは従う他なかった。言われた通り両手を上げ、ゆっくりと振り返った。

「なんだ、ジロウか……何してるんだそんなもの持って……」

「なんだ父さんか……金星人かと思った」

「ハハハ」

 ジロウはその場にへたり込んだ。男は、ジロウの父だった。すでに帰っていたらしい。

「母さんは?」

「トイレだろ、お前びしょ濡れじゃないか。まず風呂場行け」

「ああ……うん」

 ジロウは雨の中自転車で帰ってきてそのままだったことを思い出し、自室で着替えを取って風呂場へ向かった。へばりついた服を脱衣かごへ脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。ジロウの体にはいくつかの痣があった。幼い頃、最初に金星人に襲われた際についた痣だ。ジロウはそう記憶していた。

 ジロウが風呂場から居間へ戻ると、今度は母もいた。二人はどこかで買ってきたらしい寿司を摘んでいた。机の上には缶ビールも空いている。

「あら、ただいまジロちゃん。ジロちゃんの分も買っといたけど」

「おかえり母さん。食べるよ」

 めったに会わない家族だったが、仲は良かった。というより、仲が悪くなる要素がないだけだとも言えた。

 ジロウが座り、両親の土産話を上の空で聞いていると、母親が急に思い出したかのように話始めた。

「そうそうジロちゃん。ほら、アンタが小さいころ頃空き巣入ったじゃない。ようやく捕まったそうよ。よく今まで捕まらなかったわね」

「空き巣……?」

 ジロウは聞き返した。ジロウの記憶に、空き巣に入られたなんて記憶はなかったからだ。

「几帳面な犯人でね、下調べした家のことしっかりノートに書いてて、ずっと昔のノートにうちも書いてあったからわかったんですって。バカよねえ、捨てればいいのに」

「空き巣って、いつの話だ? オレは生まれてるか?」

 ジロウは母に訪ねた。母の記憶違いで、まだジロウが生まれていない時の話か、もしくはジロウが物心がついてない時の話ではないかと思ったからだ。

「なんだ、覚えてないのか? たしか、お前が四歳の頃だ。ほら、あの時は犬塚さんとこのお姉ちゃんが一緒だったんだろ? あの時はいてやれなくてすまなかったな……」

「四歳? 犬塚さん? いや違う、それは空き巣じゃない! 金星人だ! 犬塚さんがロックでやっつけたんだ!」

 ジロウは叫んだ。


 忘れもしない四歳の頃の記憶、当時ジロウはこの家で犬塚さんと二人だった。かくれんぼの最中だった。ジロウが鬼だ。居間から物音が聞こえ、犬塚さんがいるのかと思って駆け込んだ。居間の窓が開いていた。そして居間に立っている恐ろしい化け物と目があった。

 真っ黒い頭部には人間と違い鼻や口はなく、目のようなものだけがついていた。そして化け物がジロウへと向かってきた。ジロウは逃げようとして、何かに足を取られてつまずいた。ジロウが倒れたと同時に、ギターを抱えた犬塚さんが居間へ飛び込んできた。大音量のロックが部屋に鳴り響いた。すると金星人がたちまち消失したのだ。

 これがジロウと金星人の最初で最後の邂逅だ。それ以来ジロウは金星人を倒すためギターの修行を始めた。

「金星人? ハッハッハ、そういえばあの頃もそんなこと言ってたな」

「犬塚さんとこのお姉ちゃんに教えてもらったのよね、たしか。あの時のジロちゃん可愛かったわ……」

 ジロウは混乱した。両親は金星人のことをまるで信じていない様子で、空き巣と思い込んでいた。ジロウは子どもの頃、何度もこの話をしたはずだった。その度に、両親はうんうんと頷いてくれた。

 そう、子どもの頃の話だ。子どものそんな話、誰が信じるだろうか。ジロウは気がついた。 

 だがしかし、犬塚さんの話はどうだ。ジロウに金星人の存在を教えてくれたのは他ならぬ犬塚さんだ。犬塚さんが両親に事情も説明したはずだ。犬塚さんが両親にショックを与えまいと嘘をついたのだろうか。いやだが待て、ではその捕まった空き巣というのは何だ。その空き巣が金星人なのだろうか。金星人が空き巣などするのだろうか……。

 ジロウはいてもたってもいられなくなり、家を飛び出した。まだ雨が降っている中、自転車を飛ばした。目指すは犬塚さんのいるオオハマ楽器だ。



「あれ、ジロちゃんじゃん。どうしたのビショビショで」

ジロウがオオハマ楽器についた時、犬塚さんは店のシャッターを下ろしているところだった。

「犬塚さん、話が……四歳の頃……」

「ちょっ、ちょっと。とりあえず入って」

 犬塚さんはジロウを店内へ迎え入れ、店内の照明をつけた。

「ちょっとアタシ、表のシャッター閉めてくるからジロちゃん三階に行ってて。お風呂場使っていいからさ」

「先に、話を!」

「もー、ビショビショの人の話なんて真剣に聞けないからさあ。落ち着いて。上行ってシャワー浴びなさい。着替え用意してあげるからさ。その後話聞いたげるからさ」

「……はい」

 ジロウは渋々従った。オオハマ楽器の三階は倉庫兼居住スペースのようになっている。とはいえ犬塚さんやヨーダ店長が日頃から住んでいるわけではなく、今日のような雨の日などに時々泊まったりしているようだ。ジロウも何度か立ち入ったことがあった。

 ジロウは三階へ行くと、再びシャワーを浴びた。体の痣を見て、四歳のあの日のことを改めて思い出した。居間の金星人を、開いた窓を、ギターを抱えた犬塚さんをはっきりと思い出すことができた。しかし、なぜか不安でたまらなかった。頭の中の異物が急に大きくなった気がした。

 脱衣所へ出ると、いつの間にか着替えが置いてあった。ティーシャツとジャージだ。下着の替えは無かったため、ジロウは仕方なくそのまま履いた。

 部屋へ戻ると犬塚さんがいた。

「着替えそれで良かった? アタシと店長の服しか予備なくてさー。アタシのパンツ出そうかとも思ったんだけどさすがにマズいかなって……」

「犬塚さん!」

 ジロウは叫んだ。犬塚さんは驚いた顔をしたのち、あぐらを組んで座った。ようやく、ジロウの話が彼にとって、相当深刻であることを察したようだ。ジロウもならって、犬塚さんの正面に座った。

「あの、犬塚さん。オレが四歳の頃の話、覚えてますよね。初めて金星人が来た時に、犬塚さんが倒した時の話」

「金星人? 金星人……あー! なんか懐かしいなあ」

「覚えてるんですね! 金星人のこと!」

 ジロウは少し安心した。犬塚さんの口から改めて、金星人の話を聞きたかった。

「うん、よく金星人のお話してあげたじゃん。ジロちゃん一生懸命聞いてくれてさあ。可愛かったなあ」

「四歳の時の事件について覚えてるだけ詳しく教えてください!」

「四歳? 事件? あー、あれか! 四歳っていうとアタシが高一だっけか。えーっと、かくれんぼしてた時だよね」

「それです!」


「びっくりしたよーそりゃ、なんか居間からガラス割れる音したからさあ。最初ジロちゃんが怪我したのかと思ったけど、でも泣き声とか聞こえないし、まさか泥棒じゃないよねと思って、なんか武器ないかなーと思ってアタシのギター逆さまに持ってさ。居間に行ってみたら本当に泥棒いるんだもん、ビビったよね。目出し帽かぶっててさ。んで、その時ジロちゃんがステレオのリモコンに転んでさ、スイッチ入っちゃって、その時入ってたアタシのバンドのテープが音量マックスで流れて、泥棒ビビってすぐ逃げたんだよね。んでジロちゃん転んだ時に机で頭とかあちこち打ってすごく泣いてたの覚えてるよー」


「は?」


 ジロウは思わず聞き返した。犬塚さんの話は、ジロウの記憶に非常に似通っていた。金星人が登場しない点を除いて。

「ん? なんか違ったっけ」

「金星人ですよ! なんの話ですか泥棒って! あれは金星人だって! 犬塚さんが!」

「んー? あー、そうそうそう。ほら、あの頃よくアタシが金星人の話してジロちゃん怖がらせて泣かせてたでしょ、だからあやす時にさあ、いつも『よしよし、悪い金星人はお姉ちゃんがロックでやっつけちゃったからね』ってさ。あの時もそんなこと言った気がするよ」

「え?」

 ジロウはその話を認めたくなかった。犬塚さんの話が、何もかもつじつまが合うことを認めたくなかった。自分が今まで信じていたものが、すでにへし折れているのを認めたくなかった。しかしそれに追い打ちをかけるかのように、犬塚さんは話を続けた。

「ほら、アタシ高校の時に映画研究会入っててさ、その時みんなで映画撮ってたんだよね。それが『マーズアタック』って映画のパクリで金星人が攻めて来て最終的にロック聴かせたら死ぬって映画なんだけど。それがバカで面白くってねー、ジロちゃんにしてたのもその話だよ。あれ結局完成したんだっけな……もしかしたらまだ部室に映像あったりすんのかな……ん? ジロちゃん?」


 ジロウは黙って立ち上がった。頭がおかしくなりそうだった。いや、自分の頭がおかしくなっていたことにようやく気がついた。


「ありがとうございました……あと、その泥棒最近逮捕されたそうですよ」

「え、あ、ジロちゃんどこ行くの」

 ジロウはオオハマ楽器の階段を駆け下りた。シャッターを少し持ち上げ、雨が降る外へ飛び出した。

 自転車にまたがり、御徒高校へと走った。

 柵を乗り越え、映画研究会の部室へと転がり込んだ。

 そしてガラクタの山から、一台の古いパソコンを見つけた。

 コンセントをつなぎ、電源を入れる。パソコンはすんなりと立ち上がった。非常に散らかっているデスクトップ画面の中から、一際目を引くタイトルの動画ファイルを見つけた。


『ヴィーナス・アタック』


 ジロウは脱力して腰が砕けそうになるのを感じながら、動画ファイルをダブルクリックした。

 約三十分に渡るクソのような自主制作映画がはじまった。映画に登場する金星人の特徴は、今までジロウが信じ込んでいたものと全く同じだった。そしてクライマックスのシーン、ロックバンドがライブで金星人を一網打尽にするシーンに見覚えのある顔を見つけた。画質は非常に荒かったが、ギターを演奏している女生徒は間違いなく、若い頃の犬塚さんだった。

 ジロウはパソコンを閉じて元の位置にしまうと、朦朧としたままフラフラと家に戻った。そして携帯を取り出し、メールを一通送信すると、そのまま倒れるように眠りについた。



 ハジメは金星人に拉致される夢から意識を取り戻してすぐに、ジロウに謝るべく部室から二人が見守る前で電話をかけた。数コール後にジロウは電話に出たが、覇気がない声でただ「すまなかった、全部無意味だった。本当にすまなかった」とだけ言ってすぐに切ってしまった。それ以降はなんどかけなおしても電話に出る気配がなかった。

 ハジメは、自分が謝れば済むことだと思っていた。自分が言いすぎたと謝り、ジロウと和解すれば、再び仲間としてバンドを続けていけるだろうと。しかし、実際はハジメが謝ることも、ジロウが何について謝っているのかを確かめることさえ叶わなかった。

 その日の放課後、ハジメはジロウの家に向かった。しかし会うことすら叶わなかった。かろうじて、どうやら部屋にいることだけは伺えた。翌日も、その翌日も同じだった。

 ハジメは、ジロウの身に何か、とてつもないことが起きたのではないかという気がした。


「とてつもないこと……」


 ハジメの話を聞いたミツコは考え込んでしまった。

「それって、金星人が云々って関係あるのかな……」

「かもしれないですね、あの、犬塚さんに相談してみるのはどうでしょうか」

 マサヨシがぽつりと言った。

「犬塚さんか……良いかもしれないな。むしろ、もっと早く行くべきだったな」

 犬塚さんはジロウと親戚だと言っていたし、昔から付き合いがあったようだ。おそらくは、ジロウが最も信頼している人間でもある。ジロウがああなった理由も知っているかもしれない。現時点で最も頼りになりそうな人間だった。

 ハジメたちはその日の放課後にオオハマ楽器まで犬塚さんに相談しにいく約束をして、それぞれの教室に戻った。


 その日の午後の授業はやけに長く感じた。早く終わって欲しい時に限って、時計を何度も何度も確認してしまう。もっとも、それこそが時間が経つのが遅く感じる原因なのだが、それでも時計の確認を止めることができず、ハジメが午後の授業中に挙動不審で注意された回数は二桁に及んだ。

 放課後、ハジメとマサヨシはそのまま自転車でオオハマ楽器へと向かった。ミツコはもう一限あるらしく、後で来るとのことだった。道中二人は一言も喋らなかった。

 無言で走り続けたためか、オオハマ楽器にはすぐに着いた。二人は自転車を置くと、店内へと入っていった。いつものように犬塚さんはカウンターでテレビを見ていた。

「あ、いらっしゃーい」

 犬塚さんはハジメたちに気がつくと、頬杖をついたままにこりと笑って言った。ハジメはマサヨシと顔を見合わせてから、犬塚さんに向き直り口を開いた。

「犬塚さん、相談があってきました」

「相談! よしよし任せて、何かな。恋の話かな?」

 犬塚さんはハジメの言葉に急に瞳を輝かせてカウンターから出てきた。キビキビと店の奥の机の上を片付けると、丁寧に椅子を二つ引いてハジメたちに勧めた。

「ささ、二人とも座って座って。コーヒー飲む?」

「あ、ありがとうございます……」

 ハジメたちが腰掛けると、犬塚さんは真新しいコーヒーメーカーから二杯のコーヒーを注ぎ、ハジメたちに出した。机にはいつのまにかスティックシュガーが備えられていた。

「店長がコーヒーメーカー買ってきてさー、アタシコーヒーって全然だったんだけど飲んでみると美味いもんだね。それでどっちが? 誰に? まさかミッちゃん?」

 犬塚さんは自分のカップにもコーヒーを注ぎ、ハジメたちと向かい合うように座った。

「いえ、そのジロウのことなんですけど」

 ハジメが切り出すと犬塚さんはニヤニヤと笑いながらも目元を手で覆いながら言った。

「ちょっと待って……マジかー、ジロちゃんかー。いやまさか、そうくるか。男の子同士は専門外なんだけどさー、まあ仕方ないよね。仲よかったもんね……力になれるかなぁ……」

 ハジメは何かがずれていることを察して助けを求めるようにマサヨシをみると、マサヨシは見たことがないような引きつった苦笑いをしていた。そして諭すように言った。

「あの、犬塚さん。念のために言っておきますけど、恋の話ではありません。僕ら、ジロウさんのことで相談があってきたんです。犬塚さん、ジロウさんと親戚って聞いて……」

 マサヨシの話を聞いた犬塚さんは一瞬真顔になると、ケラケラと笑いながら言った。

「なんだ、びっくりしちゃったよ。そっちの趣味があるのかと思っちゃったよ。で、ジロちゃんの話? いいよ、なんでも聞いて。わかることならいいけどさ、ブリーフ派からトランクス派になった歳と……か……」

 犬塚さんは話しながらようやくハジメたちがいつになく真剣な顔をしていることに気がついたらしく、姿勢を正して優しい声で言った。

「うん……ジロちゃんとバンドで何かあったんだね。話してごらん」

 ハジメは軽いため息をついて、話し始めた。避難訓練での出来事、海辺でジロウに思っている事をぶちまけたこと、電話で謝ろうとした事、会いに行ったが会えなかった事、それ以前の様々な奇行、全てを話した。ハジメがジロウに謝りたいと思っていることも。

 すべての話を聞き終えた犬塚さんは今までハジメたちに見せたことがないような、真剣で難しいことを考えている顔をしていた。そして、両手で頭をかきむしったあと真剣な顔でハジメたちに言った。


「それ、マジ? ジロちゃんマジで金星人のこと信じてたってこと? 今の今まで?」


 ハジメとマサヨシは揃ってゆっくり頷いた。犬塚さんはコーヒーを一口飲んで、大きなため息をつきながら両手で頭を抱えた。そしてそのまま下を見ながら言った。


「あー……、それ、完っ全にアタシのせいだわ」

「はあ、え? どういうことですか?」

 ハジメたちが聞き返すと、犬塚さんはゆっくりと話し始めた。

「その日の夜、ジロちゃんがここに来てね……」


「……うわぁ……」

 話を聞き終えたハジメの口から、正直すぎる「うわぁ」が漏れた。

 犬塚さんの話は信じ難かったが、これまでのジロウの狂気こそが、それが真実であることを証明していた。そして彼が、その死ぬほどくだらない話が作り話だとようやく気がついたため、今現在再起不能になってしまったのであろうことは、容易に想像できた。

「うーん、ごめんね……」

 犬塚さんはそう言うと遠くを見る目をして口を開けたまま天井を見上げた。

「ハジメくん……確かにくだらないですけど……でも」

「うん、わかってるよ。腰が砕けるほどくだらないけど、ジロウにとっては十年ちょっと信じてたことがぶっ壊れたんだもんな。金星人を倒すためだけに音楽やってて、その金星人が親代わりみたいな親戚の作り話だったわけだもんな。それをずっと信じてたわけで、いや、わけわかんないけど、そうだったんだろうな。じゃあ、もうジロウが楽器やる意味ないわけか? そりゃ、ああなるか……でもなあ……」

 ハジメはため息をついた。死ぬほどくだらないが、真剣に考えてなんとかしないとジロウは立ち直らないに違い無いと理解していたからだ。

「あの、アタシからジロちゃんに話してみようか」

 犬塚さんが携帯電話を取り出しながら言った。

「お願いします」

 ハジメが頼むと、犬塚さんはジロウに電話をかけ始めたが、携帯電話を耳に当てて数秒後に黙って首を振った。

「ダメ、出ない」

「そうですか……」

 ハジメが肩を落としうなだれると、マサヨシが何かひらめいたらしく、急に姿勢を正して言った。


「金星人がいればいいんじゃないですか」


「は?」

 ハジメは思わず聞き返した。マサヨシが何を言っているのか理解できなかった。するとマサヨシは続けた。

「だから、今まで金星人をやっつけるために音楽してた人なんですから、金星人がいたら音楽やるんじゃないですか」

「いや、は、あのなんだ……つまりどういうことだよ」

 ハジメは助けを求めるように犬塚さんを見た。犬塚さんもマサヨシが何を言っているのか全く理解できないようだったが、徐々に表情が変わっていった。その表情は関心半分呆れ半分といった表情であった。

「だから、金星人のフリしてジロウさんの前で一芝居打つんですよ」

 マサヨシの、そのあまりにもあんまりな提案を聞いて、ハジメは腰が砕けそうになった。

「そりゃお前、あまりにもジロウを馬鹿にしてるんじゃないか……」

「僕もそう思いますけど、ジロウさんはそれくらい馬鹿なんじゃないでしょうか。だって、つい最近までこの街に金星人がいると思い込んでたんですよ? ね、犬塚さん」

「え、うーん……そう言われたら……でもさすがに……」

「バレたら、今度こそ取り返しがつかないぞ」

「そうですけど、他にアイデアありますか?」

「う……」

 ハジメは言葉に詰まった。こんなにくだらないことなのに、何も思いつかなかった。きっとよく考えればいくらでもアイデアは出てきたのだろうが、マサヨシの奇案に触れてまともな思考ができなかった。それでもまだ、ハジメは反論しようと試みた。

「いや、金星人のフリってどうするんだよ。俺はやらないぞ」

「ハジメくんは襲われる役です。ジロウさん、ハジメくんのことは好きですからね、エサです。でも僕も他の役目がありますから」

「なんだよそれ、もう流れまで決まってるのかよ……じゃあ誰が金星人やるんだよ」

 タイミングよく、店のドアが開く音がした。ハジメたちは店の入り口を見た。遅れてきたミツコが立っていた。


「え、何?」


 急に三人からの視線を受けて立ち尽くすミツコに向かってマサヨシが言った。


「ミツコさん、金星人になってください」


「は?」

 ミツコは始めてジロウと会話した時と同じ顔をしていた。


「びっくりした……ヨシくんまで頭がおかしくなったのかとおもった……」

 事のあらましを聞いたミツコは胸をなでおろした。

「いや、頭おかしくなってるとは思うけど」

 ハジメは頭を抱えたまま言った。

「それで、犬塚さんにも協力して欲しいんです」

 マサヨシは二人を無視して犬塚さんに言った。

「えー……うーん」

 さすがの犬塚さんもマサヨシの案は突飛すぎると思うのか、即答は避けた。しかしマサヨシの方が一枚上手だった。

「こうなったのは犬塚さんのせいでもあるんですからね」

「うう……そう言われたらなあ。何すればいいの?」

「その映画は犬塚さんたちが作ったんですよね? ヴィーナス・アタック。ミツコさんを金星人にするのに協力してください」

「いいけど、あれはあの時もう卒業してたずっと前の先輩が助けてくれたやつだから、その人を紹介してあげる。もういいオッサンだと思うけど。それでいい?」

「十分です!」

 マサヨシは力強く答えた。

「私、やるなんて言ってないけど……」

 ミツコは力なく言ったが、マサヨシがそれに応えることはなかった。



「まさかここにまた来るとは思わなかったよ」

 翌日の放課後、ハジメはマサヨシとミツコと共に、犬塚さんに教えられた協力者との待ち合わせ場所へときていた。幸いその協力者、犬塚さんより何代も前の映画研究会の部員は近くに住んでいた。

「今日は休みのはずだけど、どうなってるんだろ。だいたいなんでここに……」

 ミツコが眉をひそめて言った。三人は、喫茶店『思春期の恋』の前に立っていた。協力者は、放課後ここにくるようにと指定してきたのだ。

「閉まってますね。犬塚さんに連絡してみますか?」

 マサヨシがそういって携帯を取り出そうとした時、見覚えのある人物がこちらへ歩いてくるのが見えた。

「……あれマスターじゃないですか?」

「え、嘘っ……!」

「え? あ、本当だ」

 近づいてきた人物は思春期の恋のマスターその人だった。なにやら大荷物を抱えている。

「ああ、犬塚ちゃんが言ってたのってミツコちゃん達だったのか」

「はい……ってことはマスターが?」

「うん、宇宙人の特殊メイクさせてくれるって聞いてワクワクしながらきたよ。映画研究会が映画撮ってた頃はよく手伝ってたんだけど、懐かしいなぁ」

 マスターは話しながらドアの鍵を開け、中へ入って行った。マスターがドアを開ける瞬間、まるでハジメたちの心情を表しているかのような、気が抜けるような低い金の音が鳴り響いた。

 ハジメたちは黙って中へと続いた。

 マスターは荷物からブルーシートを取り出して床に広げた。その上に椅子や机を置き、それらをシートで覆い即席の作業台を作っている。

「マスター、犬塚さんたちの映画も手伝ったんですよね」

「ああ、懐かしいなあ。そうそう、あの黒い金星人ね。あれはよく覚えてるよ」

 マスターはマサヨシの問いに作業しながら答えた。

 ハジメたちは今日、ここに来る前に部室の荷物の山の中から例の古いパソコンを探し出して、犬塚さんたちの映画を見ていた。それはひどいクソ映画であったが、確かに金星人のメイクだけは目を見張るような出来であった。マサヨシはそれを思い出しながら、マスターに注文した。

「あの金星人っぽい感じで、お願いしたいんです。できますか?」

「よし、任せてくれ。あれは特殊メイクというよりほとんど被り物なんだ。お気に入りだからこの店に置いてたはずだ……あった、これだ。うん、痛んでないな」

 マスターはマサヨシの注文を聞くと、どこかからテカテカと光る何かを取り出した。マスターがテカテカと光る何かの上を掴んで軽く一振りすると、折りたたまれたそれは一瞬で広がって、黒い人間の抜け殻のような形状になった。

「このスーツを着て、あとは隙間とかをちょっと仕上げしてやれば金星人の出来上がりだ……で、誰が着るんだい?」

「ミツコさんで」

「ミツコさんです」

 マスターの問いに、ハジメとマサヨシが同時に答えた。だがミツコが黙っていなかった。

「いやいやいやいや……」

「そんな、僕もハジメくんも役割があるんですよ」

「マスター、サイズが合わないですよね? 私……ね?」

 ミツコが懇願するようにマスターを見る。

「いや、サイズは調整が効くから大丈夫だよ」

「良かったですね!」

「良くないって……言い出しっぺのヨシくんがやればいいでしょ……」

「僕だって着たいですけど、僕には役目があるんですよ。ほら、ハジメくんからも何か言ってください」

「え……別に嫌なら」

「わかりました! じゃあベースの弦奢りますから!」

 ハジメが言いかけた「無理に着なくてもいいんじゃ……」は、マサヨシにかき消された。こんなに必死になっているマサヨシをハジメは初めて見た。一方ミツコは意外なことに先の一言で随分気持ちが揺らいだ様だった。

「……エリクサーのでも?」

「奢ります!」

「……三セット、いや五セットね」

 ミツコはマスターからスーツをひったくると、店の奥へと入っていった。ハジメは、ついにミツコもこの変な空気に飲まれたのだなと思った。

「エリクサーって高いやつじゃないのか?」

「ええ、でも安いもんですよ。……ほら、ジロウさんのためだと思えば!」

 楽器初心者であるハジメであっても、エリクサーが高級な弦のブランドであることはなんとなく知っていた。

 このヘンテコな計画の何がマサヨシをここまで駆り立てるのか、ハジメは少し不気味に思った。そのことについて尋ねるか否か考えているうちにミツコが着替え終わり、店の奥から歩いてきた。

「笑わないでよ……」


 その姿は変わり果てており、声がなければミツコだとわからなかった。黒く、光沢がある素材の胴体には、イボやシワがびっしりと刻まれており、肋骨が浮き出ているような凹凸がつけられていた。体のラインは完全に消え、見た目だけでは性別すらわからない。大きめの頭部は、グロテスクな果実を思わせるような形状であった。前面には巨大で黄色い目が一つついている。

「うわ、すげぇ……」

 ハジメはスーツのあまりの出来栄えに開いた口が塞がらなかった。不思議なことに、ハジメが見た悪夢に出てきた金星人によく似ていた。

「か……感心もしないで……」

 羞恥に満ちているらしいミツコの声が黒い金星人の中から聞こえてきたが、その表情は窺い知れず、ただ無表情な黄色い巨大な目がハジメたちを見つめていた。

「さ、仕上げするからミツコちゃん、こっちに座って。一回頭外そうか」

「あ……はい……」

 ミツコは急にしおらしくなり、金星人の頭部を外した。その下の顔は、ほんのり頬を染めていた。ハジメは急に、ミツコの顔に「まんざらでもないですよ」という文字が浮かび上がったような気がした。


 マスターはミツコを椅子に座らせ、恐ろしいほどの手際の良さで作業を開始した。ハジメには何をやっているのかよくわからない作業を幾つか経て、ミツコは再びスーツの頭部を被せられた。

「もうちょっとだからね、ミツコちゃんちょっと立って」

 黒い金星人は無言で立ち上がった。マスターはその周りを一周回ると、何かが気になったらしいところを一生懸命筆で作業していた。その間中、黒い金星人はずっと大人しくしていた。シュールな光景だったが、ハジメには、なんだか化粧を施されている黒い金星人がとても幸せそうに見えた。

 最後にマスターが霧吹きで謎の液体を黒い金星人の身体中に吹きかけると、スーツの表面がさらに生々しいテカりを帯びた。

「こんな感じでどうだい?」

「完璧です!」

 マサヨシは即答した。ハジメも正直これほどとは思っておらず、完全に異形の金星人と化したミツコを見て息を飲んだ。

「ほら、ミツコちゃんも鏡を」

「え……あ、はい……」

 黒い金星人はマスターの取り出した大きな鏡を見た。金星人の表情は全く読み取れなかったが、ハジメは不思議と、その黒い金星人がうっとりしているような気がした。

「それで、これから撮影なんだろ? 僕も、見ていいだろう?」

 マスターが鏡をしまいながら言った。犬塚さんがどのようにして約束を取り付けたのか知らないが、マスターにはマサヨシの作戦は正確には伝わっていないようだ。

「あー、それなんですけど、実は……」

 ハジメはこれまでの経緯をマスターに話して聞かせた。それは十分に要約されたものだったが、マスターの笑いはハジメが話し終えてからも十分間止まらなかった。

「そうか、犬塚ちゃんの親戚がね。いやあ、最高だな君たち。うまくいくことを祈ってるよ。手伝えて光栄だよ」

 マスターは笑いすぎて出た涙をぬぐいながら言った。

「あの、ついでですので他にも協力お願いできますか? よかったら、車を出していただけたりすると助かるのですが」

 マサヨシが笑い続けているマスターに言った。

「もちろんいいよ、ここまで回すから少し待っててくれ」

「助かります」


 マサヨシはマスター戻るまでの間に、ハジメたちに説明を始めた。

「これから、マスターにジロウさんの家の近くまで連れて行ってもらいます。やることは簡単です、ハジメくんはジロウさんに助けを求めてください。で、ミツコさんは目の前でハジメくんを追いかけまわしてください。ジロウさんが出てきたら、踵を返して車まで逃げてきてください」

「ジロウ、出てくるかな。前はだって……」

「いいですか、非常事態ですよ? ハジメくんは邪悪な金星人に追われているんです。出てこなかったらドアぶち破って助けを求めてください」

「大丈夫かよ……お前本当に頭おかしくなったんじゃ」

「ジロウさんとハジメくんが二人になったら、あとはハジメくんにかかってます。どう言いくるめ……説得するかはハジメくんに任せます。きっとハジメくんなら上手くいきますよ。ジロウさん、ハジメくんのことは好きですからね」

 ひどく乱暴な作戦の説明が終わった。ハジメはやはりもう一度普通に説得に行った方がいいのではないかとも思ったが、無言の金星人が「今更引き返せない」プレッシャーを放っていた。

「……わかった。まあ、今まで普通に説得に行ってダメだったもんな、ここまですれば出てきてくれるかもしれないしな……」

 ハジメはこの心底くだらない作戦に、真剣にならざるを得ない覚悟を決めた。そして、ジロウに会ったらどう説得するか、決意した。

「エリクサー、エリクサーの弦ね、五セットね、走るだけだからね……」

 黒い金星人は、自分に言い聞かせるように唱え続けた。

 店の外に車が近づいてきて、クラクションが軽く鳴らされた。低い金の音とともにハジメたちは外へ出て、車へと乗り込んだ。

 黒い化け物は店に丁寧に鍵をかけてから車へと乗り込んだ。

 マスターの車は、助手席のハジメの案内でジロウの家の方へと向かった。

 後部座席にはやけに張り切っているマサヨシと、微動だにしない黒い金星人が座っていた。車内には、音質の悪い、聞いたことのないロックミュージックが流れていた。



「ハジメくん、ジロウさんの家には行ったことあったんですよね」

 周囲の下見を済ませたマサヨシが車に乗り込みながら言った。

「あるけど……」

 ハジメはマスターの差し入れのパンを齧りながら言った。

「じゃあ周りに家が多いことも知ってたんですよね」

「うん……あ、そういうことか」

「……いえ、先に僕が確認するべきでした。すみません。ロケハンすべきでした」

「ロケハン?」

 時刻は午後九時。マスターの車はすでにジロウの家の近くの路肩へと駐車されており、ハジメたちは未だその中にいた。ジロウの家の近くは民家が多い。少し考えればわかることだったが、外で長時間大騒ぎすれば、注目の的、近所迷惑、最悪警察に通報されることもあり得る。

「どうする、撤退するか?」

「いえ……しばらく様子を見ましょう。判断はそれからでも遅くないです」

「でもマスターに迷惑かけるわけにはいかないだろう」

「そうですね、マスター、あとは僕らだけで大丈夫です。ありがとうございました」

「何、心配するな。最後まで付き合うよ。ゲリラ撮影にこういうのは付き物だ……僕も君たちくらいの頃は色々無茶やったさ。警察に補導されたりね。それで、どう思うマサヨシくん、いけそうかな?」

「そうですね、人通りは全然ないですし、なるべく静かにやれば大丈夫な気がしますけど、もう少し様子を見てみたいのですが……」


「トイレ行きたい」


 黒い金星人がミツコの声で呟いた。

「へ?」

 ハジメが聞き返すと、金星人は今度は少し大きな声で言った。


「トイレ」


 さっきからミツコ金星人があまり喋らないと思ったらそういうことだったのか、とハジメは頭を抱えた。

「ハハハ、まいったな。一回脱ぐしかないけど、脱いだらまたちょっと作業がいるよ」

 マスターがまだ笑いながら言った。だがハジメにもマサヨシにも、もちろんミツコにとっても笑い事ではなかった。

「ミツコさん、まだ我慢できますか!」

「す、少しなら……」

 マサヨシは少し考えて、皆を見ながら言った。

「……ハジメくん、ミツコさん。いますぐやりましょう!」

「マジかよ」

 ハジメはため息をついて車を降りた。続いて、マサヨシと、黒い金星人も降りた。

「じゃあ僕はそこの角で待ってるから、頑張って!」

 マスターはそう言うと車を移動させた。後には、男子高校生が二人と、黒い金星人が一体残されていた。

「じゃあ、手はず通りお願いしますよ!」

「わかったけど、その前に一つだけいいか」

 ハジメは、マサヨシが手に持っている物に気がついて言った。

「どうしました? ハジメくん」

 不思議そうな顔でマサヨシが聞き返した。

「トイレ……」ミツコが蚊の鳴くような声で二人に割って入った。

「……いや、後でいいや。やるぞ」

 ハジメは諦めて、携帯電話を取り出した。電話帳からジロウを選択し、メールを作成した。電話には出ない恐れがあったからだ。


『襲われている、今お前の家の近くだ。助けてくれ』


 送信から三十秒ほどして、ハジメは走り出した。説得はハジメに任されている。ジロウがバカであれば、「金星人は実在したんだ、だからまた力を貸してくれ」それだけ言えば、おそらくジロウは再び戻ってきてくれるであろう。しかしいくらなんでもジロウがそれほどバカだとは考えにくかった。

 ではなぜこんな馬鹿げたことをするのか。言わばこの茶番はクソ天の岩戸作戦だ。まずはとにかくジロウに会わなければ。マサヨシもおそらく、そう思って説得自体はハジメに丸投げしたのだろう。ハジメはそう考えることにした。もっとも、本気でマサヨシがジロウをバカだと思っている可能性もありえなくはなかったが。

 心配な点は山積みだった。しかし、もう走り出してしまった。後ろからは黒い金星人が追ってきている。ハジメは一瞬後ろを振り返った。

 黒い金星人が全速力で追ってくる光景は、中身がミツコだとわかっていても想像していた以上に恐ろしかった。


「ひぃっ!」


 ハジメは情けない悲鳴をあげて、前を向きなおした。その時、付近の民家のベランダから誰かが身を乗り出しているのが見えた。その影はベランダから慌てて室内へ戻っていった。そしてすぐに、その家から誰かが飛び出してきた。

「ハジメか?」


「ジロウ!」

 飛び出してきたのはジロウだった。よく見れば、民家はジロウの家であった。おそらくは部屋着らしい、ジャージとTシャツ姿だ。久しぶりに見るジロウの顔は、やや、やつれていた。

「どうなってるハジメ、なんだあいつは! そんなまさか、金星人! そんな……バカな、あれは……俺の間違いで……そんな」

「ジロウ! 俺、お前に謝らなくちゃ!」

 ひどく混乱しているジロウにハジメは再び叫んだ。

 作戦など、ジロウを見た瞬間に頭から飛んでいた。

 思っていることがハジメの口から溢れ出そうとしていた。

 だが、先に叫んだのはジロウだった。


「ハジメ、危ない!」


「へ?」

 ハジメが振り返ると、恐ろしい黒い金星人がもう目の前に迫っていた。

「キエエエエエー!」

 黒い金星人はハジメに殴りかかろうとした。

 ミツコは尿意の緊張感からか、もしくは雰囲気に飲まれたのか、完全に錯乱していた。

 その姿は恐ろしい金星人そのものだった。ハジメは悲鳴をあげた。

「うわああああああああ」

「ハジメ、下がれ!」

 ジロウはハジメを突き飛ばした。そこからの光景はハジメにはスローモーションに見えた。地面に倒れゆくハジメの目の前を、金星人の黒光りする拳が横切り、そのままジロウを直撃してジロウも倒れた。

 黒い金星人は、逃げるどころかジロウに馬乗りになってそのまま殴りかかろうとしている。これはハジメがその生涯で見た最も恐ろしい光景となった。

 ジロウはなんとかもがいて金星人から脱した。そこでミツコが我に返ったのか、それとも黒い金星人としての本能なのか、ようやく踵を返して逃げ出そうとした。

「待てっ!」

 金星人が逃げ出そうとした瞬間、ジロウがとっさに金星人に掴みかかった。そのつかんだ場所が悪かった。

 ジロウが金星人スーツの頭部をしっかりと掴むと、その頭部は胴体から綺麗に切り離された。

 そしてその下から出てきたのはミツコの顔だ。

 金星人スーツの、頭部が外れてしまった。

 ハジメは、スローモーションで流れていた時間が、ついにその瞬間止まったような気がした。

「ミツ……コ? これは……?」

 ジロウが戸惑いながら言った。さすがのミツコもこれは不味いと思ったらしく、固まっている。

「ジロウ、これは……その……」

 ハジメは何かを言おうとした。しかし、何を言えば良いのか、わからなかった。

 謝ろう。謝るしかない。そう思い、口を開こうとした時、ジロウは笑いだした。

「ククク……そうか……ククッ、フフフハハハハハ……金星人……バンド……ハハハ……」

「ジロウ?」

「アハハハハハ……そういうことか、ククク……ハハハハハハ……アッハハハハハハハハ!」

 笑い声は徐々に大きくなっていった。ジロウは狂ったように笑った。そしてジロウは呼吸を整えて、ハジメの方を向き直り、言った。

「ありがとう、ハジメ、ミツコ。マサヨシもいるんだろう? オレは、いい仲間を持ったな」

 ハジメは、ジロウの予想外の言葉に面食らった。その反面ジロウは、とても穏やかな笑顔だった。

「オレの勘違いでなければ良いのだが、これは、金星人だよな」

「あ、ああ……一応、よくわかったな……」

「ククク……金星人がいるなら、じゃあ、また……ロックやって、やっつけないといけないよな……ハハハハ……」

 ハジメはハッとして、ジロウの顔を見た。ジロウはなにやら照れ臭そうな微笑みを浮かべ、それでいて今にも泣き出しそうな顔をしていた。ハジメは思いが口から溢れるに任せて、ジロウに答えた。


「目的が金星人抹殺でもなんでもいいよ、また俺とバンド……やってくれないか。ジロウ……俺にはこんなこと言う資格はないかもしれない。俺の夢はバンドをやることで……お前はギターができるからって、仲間になってもらって、自分のことしか考えてないで、ようするに、俺の夢のために利用してただけだった。俺は、お前のこと……頭がおかしいやつだと思ってたよ。正直、一線引いてた。でも、お前とバンドやるのは滅茶滅茶楽しくって、もっとやっていたいんだ。金星人なんかいない、いたとしても音楽でやっつけられるわけがないと思う。今のお前が音楽続ける理由なんて無いのかもしれないけど、また俺とバンドをやってくれないか。俺たちのバンド自体が、お前が音楽やる理由にならないかな。バンドメンバーになってくれ、そして今度はバンドメンバーである以前に、友達になってくれないか!」

 気がついたらハジメの両目からは涙が流れていた。ジロウも同様だった。そしてジロウは涙を拭って語り出した。最初はポツリポツリと、それから徐々に早口で。


「オレはあんなことしたんだぞ。オレの馬鹿みたいな、本当に馬鹿みたいな妄想でお前たちに恥かかせて……ハッキリ言ってオレはただの頭がおかしいやつだったのに……それでも、お前たちの仲間に戻っていいのか? ハジメ、いいように利用していたと言うならオレだってそうだ。オレはお前たちを、いや、今となっては本当にどうかしていたが、金星人を倒すために利用していた。その挙句、あんな馬鹿みたいなことをしてしまった。謝っても謝りきれない。やっと間違いに気がついた。ショックだったさ、十年近く自分が狂人だったことにやっと気がついたんだからな……。そして、そのせいでお前たちに酷い恥をかかせた事にも気がついた。もう会わせる顔がないと思った。オレは人と関わる資格がないと。でも、金星人を倒すためだけにやっていたバンドだったはずが……お前たちとのバンド活動の時間が、楽しくて仕方がなかったんだって事にもやっと気がついた。でももう遅すぎると思ったよ、そしたら、お前からワケがわからないメールがきて……ククク、ハハハハ!」


 ジロウは笑い出した。ハジメは心の底から安堵感がこみ上げてきて、泣きながら笑った。


「丸く収まったみたいですね……良かった」

 どこからともなく、マサヨシが出てきた。微笑んでいたが、その目は赤く腫れていた。

「マサヨシ……さっき聞こうとしたことだけど」

 ハジメは涙を拭い、マサヨシを見て言った。

「なんでしょう」

 マサヨシが聞き返すと、ハジメは金星人ミツコと、マサヨシが持っているハンディカメラを指差して言った。

「お前、こういうの、やりたかっただけだろ」

 それを聞いたマサヨシはハンディカメラの録画を止めながら満面の笑みで答えた。

「ええ。だって、こんなチャンス滅多にないですからね! あ、誤解しないでくださいよ、バンドがどうでもよかったわけじゃなくって、ハジメくんとジロウさんの仲なら絶対大丈夫だって信じてたからできたんですよ。あとこんなくだらない理由で解散するバンドがあるわけないですし。僕はもともと、映画やりたくて映画研究会に入りましたからね。こんなことでもないと、ハジメくんもミツコさんも、手伝ってくれないですしね……僕もみんなを利用してたってことになりますね」

「お前……性格悪いな」

 ハジメは脱力し、腰が砕けそうになるのを感じながら言った。

「ククク、みんな同じだな」

 ジロウが笑いながらつぶやいた。ハジメもその通りだと思い、笑った。

「私……も」

 今まで黙っていた金星人ミツコがつぶやいた。

「わ、私……も……」

 もう一度、蚊の泣くような声でつぶやいた。

「なんだ、ミツコも何かあるのか?」

 ジロウが笑いながら聞き返した。

「私、も……もう限っ……界」

 ミツコは金星人スーツのままどこかへ走っていった。ハジメとマサヨシは暫し呆然とした後、ようやく自分たちの失敗に気がついた。



「あの時、ミツコさんもわざわざ俺たちの恥ずかしい話聞いてないではやくトイレ行けばよかったじゃん」

「だ……だって、雰囲気ぶち壊しになるかと思って……空気読んだの!」

 ミツコが顔を真っ赤にしながら言った。首から下はすでに金星人スーツから着替えている。

「男の友情と引き換えに乙女としての何か失うところでしたね」

 マサヨシが笑いながら言った。その妙に気取ったな言い回しがツボに入ったらしく、カウンターの中のマスターが吹き出した。ハジメたちは喫茶・思春期の恋にいた。

「まあ、間に合ってよかったじゃないか」

 マスターが笑いながら言った。


 あの後、ミツコはギリギリ命拾いした。運良く近くの公園のトイレに駆け込み、事なきを得たらしい。

「まさかマスターまでいるとは思いませんでしたよ」

 コーヒーをすすりながらジロウが言った。マスターはハジメたちの様子を影からずっと見ていた。そればかりか、あのくだらない仲直りを見て男泣きしていたそうだ。

「そういえば、まだ返事を聞いてなかったな」

 ハジメはふと思い出し、改めて皆を見ながら言った。

「バンドメンバーになってくれ、そしてそれ以前に、友達になってくれ」

「……ハジメくんって恥ずかしいことわりと平気で言うわよね」

 ミツコが呆れながら言った。

「ハジメくんらしいじゃないですか、そういうところ好きですよ」

 マサヨシが笑いながら言った。

「ああ、これからもよろしく」

 ジロウは力強くハジメの手を引っつかんで固く握り締めた。

「うう……うえええ、ジロちゃーん! ハジメくん! 良かったぁ……」

 いつの間にか店の入り口に立っていた犬塚さんが号泣していた。そして駆け寄ってハジメとジロウをまとめて抱きしめた。

「アタシのせいでみんなバラバラになっちゃったらどうしようって……良かったぁ……」

 犬塚さんはまだ泣いていた。ハジメは頭に押し付けられる胸のせいで正気が飛びそうだったので、名残惜しいがむりやり体を引き剥がした。

「犬塚さん、なんでここに」

「え? ああ、マスターが呼んでくれてさ。アタシのせいでお通夜みたいになってたらどうしようって思いながら来たんだけど。グスッ……良かった」

 犬塚さんは涙をエプロンで拭いながら答えた。

「そうそう、無事にバンド復活してたら渡そうと思ってこれ持ってきたのよ、ついでにここに貼らせてもらおうと思って」

 犬塚さんはハジメたちの机に一枚の紙切れを差し出した。ハジメは見出しを読み上げた。

「夏祭りバンドステージ出演バンド募集……これって」

「うん、タダでお祭りでライブできるよ! でなよ!」

 犬塚さんは同じ紙を勝手に店の壁に貼りながら言った。

「出よう!」

 ハジメは即答し、皆を見た。

「ああ!」

「いいですね」

「ら、ライブか……頑張る」

 こうして、ハジメたちの初ライブが決定した。

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