第4話
第四話
1
その日は雨が降っていたので、予定されていた避難訓練の避難先はグラウンドから体育館に変更された。
ひどく湿度が高く廊下が湿って滑りやすくなっており、校内中から足元に油断した者たちの悲鳴が上がっていた。そんな中、ハジメたちのクラスも担任に先導されて体育館へ向かっていた。
「いいですかー、おはしですよ。おさない、はやまらない、しなない。おはしですよー」
担任は歩きながらかれこれ五回目となる「おはし」の話をして見せた。ハジメたちの担任は非常に和やかな人物だったが、避難訓練には少々和やか過ぎる人物だと言えた。
「先生、さっきは『おれたち、はしらない、しょうがない』でした」
「うるせえ黙れー、焼け死にますよー」
毎回指摘していた優しいクラス委員長はついに担任から和やかな死亡宣告されてしまっていた。この気の抜けるやりとりのおかげでハジメたちのクラスはすでに三人の転倒者を出していた。もちろん湿った廊下のせいで滑ったわけではなかった。
「大丈夫ですか?」
列の一番後ろを歩いているマサヨシが心配そうに言った。
「痛え……」
隣を歩いているハジメは腰をさすりながら答えた。
「人って本当にボケでズッコケるんだな……体験して初めてわかった」
「ハジメくんのコケかたもギャグみたいでしたけどね」
マサヨシは笑いながら言った。マサヨシは口調こそ真面目そうだが、かなり毒を持った男だということがハジメにも最近わかってきた。しかしそれは決して不快ではなく、ハジメはむしろマサヨシのそういう面を気に入っていた。
「オトボケ担任め。今度、ジロウとミツコさんにも話してやろう。ああ、ミツコさんは二年だし、もしかしたら知ってるかもな」
「ハジメくんがコケたことですか?」
「いやうちのオトボケ担任のことだよ。痛ててて」
ハジメは再び腰をさすった。
「抜け出して保健室行きますか? 付き合いますけど」
「いや、大丈夫……いてて」
ハジメはマサヨシの申し出を断り、廊下を歩き続けた。
体育館にはすでにいくつかのクラスが整列を済ませており、それぞれの担任が点呼を取っていた。ハジメたちのクラスも担任の先導に従って一年の所定位置に連れてこられた。
「あ、ミツコさんですねあれ」
「え、どこ」
「ほら、二年のとこです。あのうつむいてる……」
ハジメがマサヨシの指差す方向を見ると、二年生の列の中で一人うつむいているミツコを発見した。誰とも話もせず、じっとつま先を見つめているようだった。
「クラスに友達いないのかな……」
「……僕たちが友達でいてあげましょうね。ミツコさんと、あと……」
「おいこら本田と山葉、出席番号順です。点呼面倒だからー」
マサヨシが何か言いかけたが、担任に遮られた。
「あ、はいすみません。じゃあまたなマサヨシ」
ハジメは自分の出席番号である、列の後ろの方へと走った。
やがて数分もしないうちに、ほとんどのクラスが体育館へ入ってきて整列を済ませた。見渡す限り人の海だ。ハジメはこの群衆の前で、あの体育館のステージで演奏できたらどれだけ気持ちがいいだろうと想像した。
秋には文化祭があるはずだ、あとでミツコに去年の文化祭がどんな様子だったか聞いてみよう。そんなことを考えていた。
体育館の前方では、点呼が終わったクラスのチェックが行われている。ハジメがそちらをふと見ると、何やらもめているように見えた。「C組」「一人足りない」そんな会話が聞こえた。
C組といえばジロウのクラスだったな、と思っていると、体育館のスピーカーから一瞬ノイズ音が聞こえた。そして、すぐに大音量の校内放送がはじまった。
『アーアーアー、テステス、よし。皆さん避難訓練ご苦労様です。全員体育館にいますね?』
ハジメはその聞き覚えのある声に驚き、見事にズッコケて腰を強打した。聞こえてきたのは他ならぬ、ジロウの声だった。
「金星?」
「金星くんの声だ!」
「何やってんだあいつ!」
C組の方から声が上がった後、数人の先生が体育館の出口へ走って行ったのが見えた。ハジメはこれまでにないほど、嫌な予感がした。
『はじめに謝っておきます。関係ない皆さん、巻き込んでしまってすまない。だがこれは必要なことなんだ。人類の平穏の第一歩として、まずこの学校から奴らを一掃する』
体育館内はざわつき始め、狂人はスピーカー越しに喋り続けた。ハジメにはジロウが何を考えているか手に取るようにわかったし、事前にジロウのこの行動を予測できなかったことを悔いた。ハジメはただ、「先生たち頼むから間に合ってくれ」と祈ることしかできなかった。
『えー、お前たちは避難したつもりかもしれないが、逆だ。お前たちは追い詰められているんだよ! 隠れても無駄だ金星人ども! この中に何人いるのか知らんが、潜んでいることはわかっている! 今日がお前らの命日だ! この町は、いや地球はお前らには渡さないぞ!』
体育館内のざわつきが増した。不安そうに辺りを見回す者、呆れかえっている者、中にはゲラゲラと笑っている者もいた。ハジメはこの瞬間、自分も彼らの側ならどれだけいいだろうと思った。
スピーカーの向こうからガチャガチャとドアノブを回す音が聞こえた。先生たちが放送室にたどり着いたのだろう。しかしどうやら放送室には鍵がかかっているらしい。激しくガチャガチャとドアノブを鳴らす音が狂人の演説の後ろから聞こえて来る。
『おっと、妨害される前に始めてしまおう。くらえ! 金星人ども!』
急にジロウの演説も、ガチャガチャという音もやんだ。一瞬の静寂のあと、学校中のスピーカーから大音量で音楽が流れ始めた。素人がハンディレコーダーで録音したような音質のイントロ、ハジメはこのイントロをよく知っていた。なんどもなんども繰り返し聞いた、大好きな曲のイントロだ。そしてスピーカーからは、大音量でハジメの歌声が流れ始めた。
ハジメは全身に鳥肌が立つのを感じた。それは初めてギターを鳴らした時やスタジオで感じたような快感によるものではなく、もっとぞっとするような、おぞましい不快感に由来するものだった。
周りのざわつきが大きくなったような気がした。周囲の話し声が聞こえる。
「何この歌?」
「変なの」
「誰の歌だろ」
「さっきの変なのが作ったのかな」
「金星人って何よ」
「ある意味ロック……」
「金星くんの声と違うね」
「ちょっとかっこいいかも」
「金星二号だな」
「……この声、山葉くんに似てない?」
「え、山葉くん?」
ハジメは心臓が口から飛び出すような気がした。やけにハッキリと聞こえた最後の一言の主を探し辺りを見回すと、自分の列の数人前にいる、同じクラスの女子と目があった。続いて、その隣の女子。ハジメは冷たい海に飛び込んだような、ぞっとする感覚をおぼえて、すぐに目をそらしてしまった。
ハジメはうつむいたまま、全身に刺さる多くの視線を感じた。実際にはただそんな気がしただけだったが、ハジメはこの時、体育館中の人間が自分を見ているかのように思えた。
ハジメの全身を嫌な汗が流れていた。その一滴が体育館の床に落ちた瞬間、歌が二番に入った。
それから少し間をおいて、体育館中が爆笑の渦に包まれた。
2
避難訓練の後、ハジメは学校を無断で早退した。一秒でも早く学校を離れて、一人になりたかった。家に帰る気にもならなかったので、制服のまま自転車で闇雲にさまよっていた。幸いなことに、雨は止んでいた。
最初に頭を支配していたのは、ジロウへの怒りだった。
なぜあんなことをしたんだ。理由はわかりきっている。ジロウは本物の狂人だったからだ。あの音楽で地球人に紛れ込んだ金星人が死ぬと本気で信じていたからだ。
もちろん、誰一人として曲を聴いて死んだりはしなかった。金星人なんているわけが無いからだ。一億歩譲って金星人が人類に紛れ込んでいても、高校生が作ったロックミュージックを聴いて死ぬなんて、あるわけがなかった。
ただハジメが大恥をかいただけだった。ジロウはただ、デタラメな前口上の後でハジメがノリノリで歌っている音源を全校生徒に向かって流したのだ。それだけだった。
もしかしたら、ハジメの立ち回り次第では、関係無いフリもできたかもしれなかった。しかしハジメは逃げずにはいられなかった。そんな器用なことができるような精神状態では無かったのだ。避難訓練が終わるまで立ち尽くして耐えるのが精一杯だった。
もしもあの後すぐにジロウに会ったらそれこそ殴りかかっていたかもしれない。そういった意味でも、学校から逃げて一人になったのは正解だっただろう。
ジロウはあの後どうなったのだろうか。マサヨシやミツコさんはあの後どうしたのだろう。ハジメは自分が少しずつ冷静になってきたことに気がついた。そして自転車を止め、あたりを見回した。いつの間にかオオハマ楽器の近くにきていたらしい。
ハジメはフラフラと吸い寄せられるように、オオハマ楽器へ向かって自転車のペダルを漕ぎだした。
あと数メートルというところまで近づいた時、ガラスのドア越しに店内でつまらなさそうにテレビを見ている犬塚さんが見えた。
ハジメは自転車を止めた。ハジメの中に、このことを誰かに話したい、犬塚さんに話したいという気持ちが湧き上がってきた。犬塚さんはこの話を聞いたらどう思うだろう、いつもの笑顔で、間延びした声で慰めてくれるだろうか。一緒にジロウに対して腹を立ててくれるかもしれない。いや、お腹を抱えて笑うかもしれない。その時ハジメの自尊心は耐えられるだろうか。
ハジメが考えを巡らせながら犬塚さんを見ていると、視線に気がついたのか店内の犬塚さんが振り返り、ハジメと目があった。犬塚さんは少し驚いたような表情をした後、いつもの笑顔でハジメを見た。その時ハジメの脳裏に体育館での出来事がフラッシュバックした。自分の少し前の女子が振り返ってハジメと目があった瞬間だ。
ハジメは居てもたってもいられなくなり、再び闇雲に自転車をこぎ出した。背後から、店外に出てきたらしい犬塚さんがハジメを呼んでいる声が聞こえたが、ハジメは無視して自転車を漕ぎ続けた。
ハジメは闇雲に自転車を漕いでいるうちに、今度はいつの間にか海の近く、防波堤沿いの道に来ていた。ひどい悪臭がした。そしてハジメは自分が自転車を漕ぎ続けて疲れて喉がカラカラであることに気がついた。
自転車を防波堤沿いに適当に置いて、潮風でボロボロになっている自販機に向う。小銭を入れ、ボタンを押す。しかし、自販機は何も反応しなかった。よく見ればランプも点いていない。釣り銭レバーを回しても小銭は返ってこなかった。
ハジメは自販機を乱暴に一発叩き、防波堤の階段を降りて浜へと出た。ゴミだらけの浜辺には誰もおらず、悪臭さえ我慢すれば一人になることができた。
「あー……もう」
ハジメは誰にともなく呟いた。自分への苛立ちが声になって漏れた。ハジメはコンクリートの階段に腰掛けて、深くため息をついた。この状況が情けなくて涙すら出そうになったが、上を向いて堪えた。空を雲が覆っている。今にもまた雨が降ってきそうだった。
考えてみろ、あの曲は大好きだったはずじゃないか。それなのになんでこんな気持ちにならなきゃいけないんだ。ジロウが流すちょっと前まで、自分で全校生徒の前で演奏する妄想すらしていたはずじゃないか。それと何が違う。自分は何をそんなに苛立っているんだ。
ハジメは自分に言い聞かせるように、頭の中で考えを巡らせた。しかし嫌なものは嫌だった。どうしようも無かった。十五歳のハジメにはまだ、開き直ることができなかった。
あんな形で披露したくなかった。誰だって、あんなの恥ずかしいに決まってる。俺は笑われるためにバンドをやりたかったんじゃない、では、なんでバンドをやりたかったんだろう。
ハジメの思考が一瞬止まった。その時、防波堤の向こうから自転車のブレーキの音が聞こえた。続いて駆け足の音。
「ここだったか! ハジメ!」
ハジメが振り返ると、汗だくのジロウが顔をのぞかせた。
「ジロウ……お前っ!」
「避難訓練の後早退したとマサヨシから連絡があってな、探しに来た。あちこち探したがここにいたか。携帯にも出ないから心配したぞ」
ハジメが携帯を見ると、ジロウからおびただしい量の着信が残っていた。
「……あの後どうしたんだ」
ハジメは湧き上がる感情を押し殺しながらジロウに尋ねた。
「ああ、先生たちが来たから放送室の窓から逃げた! しかし先生たちに罪はない。もちろん他の生徒たちもだ。金星人の真実を知らなかったのだからな。オレを狂人と思うのも無理はなかろう。しかし今回の一件で彼らも、御徒高校の生徒も金星人の真実を知っただろう! そして危機感を持ち、我々と共に立ち上がってくれるに違いない! オレも見たかったぞ、オレたちのロックで生徒に混じって隠れていた金星人どもが倒れていく様を!」
「馬鹿じゃないのか……」
ハジメが呟いた。
「ハジメ……?」
ジロウが怪訝そうな表情で聞き返す。
「……誰も倒れたりしなかったよ。それどころか、爆笑の渦さ。俺たちは全校生徒の笑いものだよ」
「何っ! 失敗だったというのか! 金星人どもめ、いったいどうやって……あの曲では金星人を殺すに何か足りなかったか……」
「だから! 金星人なんているわけないだろ! お前本気で信じているのか! 馬鹿じゃないのか!」
ハジメは叫んだ。ジロウは驚いた表情でハジメを見た。
「ハジメ、確かに失敗したのはオレの責任だ……しかし今度は」
「そこじゃねえよ馬鹿! あと今度もねえ! あんなの恥かくだけに決まってんだろ馬鹿! 歌ってるの俺だぞ! 俺までお前と同じ扱いになっちまうだろ! 金星二号呼ばわりだぞ! ふざけんなよ! お前と一緒にするなよ! あんなメチャクチャなこと勝手にしやがって!」
ハジメはもう感情を抑えることができなかった。ジロウが何か言うたびにそれが精神を逆撫でした。
「相談しなかったのは悪かったが……」
「ああもう、うるせえ! もう話しかけるな! 金星野郎!」
「ハジメ、お前……」
ジロウがハジメに一歩近づいた。
「うるせえ! 話しかけるな!」
ハジメはジロウを押しのけて防波堤の階段を駆け上がった。ボロボロの自販機に蹴りを入れた後、自転車にまたがって走り出した。涙が止まらなかった。
ぽつりぽつりと、また雨が降り出した。
3
避難訓練の翌日は打って変わって快晴だったが、ハジメは重い気分のまま自転車を漕いでいた。
学校に近づくにつれて増えていく、同じ制服の生徒達。ハジメは彼らが全員ハジメのことを見ているという嫌なイメージが抜けなかった。実際、そのうちの数人の会話からは確かに「金星」という単語が聞き取れた。
ハジメは重い気分のまま自転車をとめ、重い気分のまま上履きに履き替え、重い気分のまま教室へ向かった。そして良いイメージが全く浮かばないまま、教室のドアを開けた。騒がしかった教室が一瞬の静寂を迎えたが、すぐにもとの騒がしさを取り戻した。
ハジメは少しホッとして席へと向かった。隣のマサヨシはまだきていないようだ。
自意識過剰だ、考えすぎだ、昨日のあれでハジメだということがバレるはずはない。それにバレたとしても、何を恥じる必要が有る。そう思い込もうとした矢先、クラスの女子が二人、ハジメの席へやってきた。昨日目があった二人だ。ハジメは二人とも数回話したことがある程度で、別に仲良くはなかった。そんな二人がわざわざハジメのところまできたのだ。嫌な予感がした。
「ねねねねねねねねね、昨日の金星くんの歌さ、あれ山葉くんだよね!」
「ね、そうだよね? 山葉くんってC組の金星くんと友達なの?」
ハジメは返答に詰まった。何を恥じる必要がある、恥じる必要などないじゃないかと自分に言い聞かせたばかりだったが、いざ言葉にしようとすると、何かに押しつぶされそうになった。
今後の学校生活、金星二号として生活することになるかもしれない。ジロウのように、奇人変人として高校生活を送る羽目になるかもしれない。そう思うと、喉まででかかった「そうだぜ!」の言葉がでなかった。
「ほら席につけーい、ついてくださいねー」
ハジメが言葉に詰まっていると、タイミングよく担任が入ってきた。二人は渋々自分の席へと帰って行った。ハジメは少しホッとしたが、同時に再び重い気分になった。大好きだったあの曲に誇りを持てない自分が、嫌だった。
「遅れてすみません!」
直後、マサヨシが息を切らして教室に駆け込んできた。珍しく遅刻だ。
「ハジメくん、その……」
「なんだよ」
「なんだよじゃないですよ……」
隣の席に座った汗だくのマサヨシが話しかけていたが、すぐに授業が始まり会話は打ち切られてしまった。
授業後、ハジメはトイレへ走った。別に尿意があったわけではない。ただなんとなく、マサヨシとも話したくなかった。もちろんマサヨシに恨みがあるわけではないし、むしろマサヨシもハジメの側の人間だと思われたが、今はバンドのことを思い出したくもない気分だったため避けてしまった。
ハジメのこの行動は昼休みまで続いた。昼休みも避けるつもりだったのだが、さすがに避けられていることを察したらしいマサヨシに捕まってしまったのだ。
「ひどいですね、逃げることないじゃないですか」
ハジメの服の袖を引っ張りながらマサヨシが言った。その声からは怒りの感情は見えないが、それでも何かただ事でない様子は伝わってきた。
「いや腹壊しちゃってさ」
「嘘ついてもわかりますよ」
マサヨシはハジメを引っ張りながら歩く。ハジメはただでさえ他人からの目線に敏感になっていたのに、マサヨシに引っ張られている状態が余計に人の目を引いて居心地が悪かった。
「どこに行くんだよ」
「部室、部室でちょっとお話ししましょう。ミツコさんも呼んであります。来てくれるかわからないけど……」
ハジメは「ジロウは」と聞こうとしたがやめた。おそらく呼んでいないのだろうし、聞いて呼ばれても困るからだ。
映画研究会の部室はすでに鍵が開いていた。マサヨシがドアを勢いよく開けると、中にいたミツコが小さな悲鳴をあげた。
「早かったですね」
「な、なんだ、ヨシくんたちか……うわ、なんで手繋いでんの……」
「繋いでない!」
ハジメは慌てて袖をつかんでいるマサヨシの手を振りほどいた。
マサヨシは振りほどかれた手でドアをしめると、真剣な顔になって切り出した。
「あの、ジロウさんのことなんですけど、メール、どういうことなんでしょう。聞いてみたけど返事がなくって。電話にもでないし、今朝は学校にきてないみたいだし」
「メール?」
ハジメが携帯を見ると、いつの間に受診したのか未開封メールが一件あった。差出人はジロウだ。件名は無い。気は乗らなかったが渋々開くと、本文は驚くほど短かった。
『オレが全て間違っていた、今まで悪かった。もうやめよう。』
「どういうことも何も、反省したんじゃないのか」
ハジメはそう思った。しかしマサヨシはまだ難しい顔をしていた。そこでハジメは昨日の出来事を話すことにした。
「……それで俺キレて帰ったんだよ。それであいつも反省したんじゃないのか」
「ハジメくん、その言い方ちょっと嫌な奴っぽい」
ミツコが言った。その言葉が、ハジメの心をチクリと突いた。確かにそうかもしれないが、悪いのはどう考えてもジロウじゃないか。そう思った。
「だって、当然だろ。ミツコさんやマサヨシはまだいいよ。俺は声流されたんだぜ? あいつのせいで俺まで金星呼ばわりだよ」
「……そりゃ、私だって恥ずかしかったし、ジロウは本当にどうかしてると思うけど……それでも、メンバーじゃん。そんな言い方ないよ」
「メンバーでもやって良い事と悪い事があるだろ」
「そうだけど……」
「……話を戻しますけど、ジロウさん、やめようってもしかしてバンドのことでしょうか」
マサヨシが話を戻した。ハジメとミツコは黙ってしまった。数秒の沈黙の後、ハジメが口を開いた。
「……かもな。いいじゃないか。もうあんな奴とやってられないよ」
「は? ……ハジメくんそれマジで言ってるの?」
ミツコが今まで見たことのないような冷たい顔で言った。ハジメは一瞬面食らったが、睨み返して言った。
「マジだよ。だいたいミツコさんもそう思うでしょ……うわっ!」
身の危険を感じたハジメはとっさに姿勢を低くした。ハジメの頭が一瞬前まであったところを高速で何かが横切った。顔を上げると、激昂したミツコがいつの間にか取り出したベースのネックをつかんで振り回して、今まさに構えなおしているのが見えた。
「ミツコさん! それはダメです! 死にます!」
とっさにマサヨシがミツコを羽交い締めにして抑えた。
「離して! ああもうムカつくなこの男! 確かにジロウくんは頭おかしかったよ! でもハジメくんのバンドの夢叶えてくれたのはあいつでしょ! なにあれくらいで! ジロウくんとハジメくんと何が違うの! ジロウくんが妄想狂いのサイコ野郎ならハジメくんも妄想狂いの中二病でしょうが! だいたい私らの意見も聞かないでお前ら二人は! だいたい、バンド仲間である以前に友達じゃなかったの!?」
ミツコがまくし立てた。ハジメは突然のことにたじろいだ。一番バンドに対して冷めていると思っていたミツコがここまで怒ったことに驚いていた。それはマサヨシも同じようだった。
「ミツコさん……そうですね。ハジメくんがそういうのならジロウさんの事の前に、ハジメくんとちゃんと話す必要がありますね……」
「友達……」
ハジメは呟いた。そして、自分がジロウについてどう思っているのか、今一度整理する必要があると思った。「バンド仲間である以前に友達」というミツコの言葉が、心に引っかかっているのを感じた。
「ハジメくん、本当に僕らのバンドやめちゃってもいいって思ってるんですか。ジロウさんなんか嫌いだって思ってるんですか?」
マサヨシがミツコを解放しながら改めてハジメに聞いた。だが、それがいけなかった。
「キエエエーッ!」
全く怒りが収まっていないままマサヨシの羽交締めから解放されたミツコがフルスイングしたベースのボディが、ハジメの頭部に直撃した。ハジメの意識はブラックアウトした。
4
機械の音がする。視界一面に銀色の、何に使うのかわからない装置が並んでいる。工場というよりは、実験室といったイメージだ。装置は時折音を立てたり、光ったり、細く動いたりしている。ハジメはその光景をぼんやりと眺めていた。
数分後か、もしくは数時間後か、時間の感覚すら曖昧になっていることを自覚し始めた頃、銀色の部屋に警報のような音が鳴り始めた。どこかで聞いたような音だが思い出せない。そんなことより、とにかくただ事ではなさそうだ。ハジメはようやく自分が異常な状況にいることを理解した。
「ここ、どこだ……」
どこかで見たことがあるような気がするが、覚えている限り自分の人生でこんなところにきたことはない。自分の置かれている状況を確かめるため、ハジメは歩き出した。正確には、歩き出そうと思った。
しかし、体が動かない。どれだけ動かそうと思おうとぴくりとも動かない。首さえ動かない。かろうじて眼球は動かせるようだ。見える範囲は全て銀色の装置で埋まっていた。
いつの間にか警報はやんでいた。代わりに、何か他の音が聞こえる。話し声のようだ。しかし何を言っているのか聞き取れない。日本語ではないのかもしれない。英語でもなさそうだ。
不思議な話し声は後ろの方から、だんだんとハジメに近づいてくる。そして目の前に現れた話し声の主を見てハジメはゾッとした。必死に逃げようとしたが、もがくことすら叶わなかった。四肢が動かないのだ。
話し声の主は二人、どちらも人間と似たような姿をしていたが、明らかに人間ではなかった。
「金星人!」
ハジメは叫んだ。もちろんハジメが彼らを金星人だと判断できる材料は何一つない。今初めて見たのだから。しかし、ハジメは彼らこそがジロウの言っていた金星人なのだと思った。
金星人の片方がハジメの顔に向かって細長い両手を伸ばした。ハジメは恐ろしくて目を閉じた。次の瞬間、ハジメは妙な浮遊感を感じた。
ハジメが恐る恐る目を開けると、目の前に金星人の顔があった。ハジメは小さく悲鳴を漏らした。そして三つのことに気がついた。
・どうやらハジメの頭部は透明なカプセルのようなものに覆われているらしいこと。
・ どうやらハジメの頭部は胴体から切り離されていて、目の前の金星人はハジメの頭部入りのカプセルを抱えているということ。
・ 最後に、どういうわけか、ハジメは頭部だけでもまだ生きていること。
金星人はハジメの目を見ながら何やら隣の金星人と一言二言会話をすると、ハジメの頭部入りカプセルを抱えたまま室内を歩き出した。
ハジメがいたのはやはり実験室のような部屋らしい。謎の機械や器具がひしめき合っていた。見える範囲にはハジメの胴体は見当たらない。部屋には一箇所窓がしつらえてあり、外の様子が伺えた。
金星人はハジメに外を見せるように、カプセルを窓に掲げた。星空が見える。夜なのだろうか、いやそうではない。星空の中に、テレビや映画でしか見たことのないものが浮かんでいる。
それは地球だった。
ハジメは金星人の宇宙船に囚われたのだ。恐怖と絶望で叫びと涙が溢れた。金星人はそれを見て笑っているような声を出した。
そして金星人はハジメの頭部を、今度は部屋の入り口の方を向けて置き直すとどこかへ行ってしまった。直後、金星人の話し声に混じって聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「やめろー! やめろー!」
声の主はしきりに叫んでいる。少しずつ聞こえる叫び声が大きくなっている。こちらへ近づいているのだ。そしてついに声の主が部屋へと入ってきた。声の主は銀色の台に縛り付けられ、金星人によって運ばれてきた。
「やめろー! やめ……ハジメ! ハジメか!」
「ジロウ!」
運ばれてきたのはジロウだった。ジロウはハジメの目の前に、縛り付けられている台ごと横たえられた。そして台の周りを数人の金星人が取り囲み、ハジメからはジロウが見えなくなった。
「何をする! やめ、やめろー! ハジメ! ハジメー!」
ジロウが叫ぶと同時に、金星人たちは様々な器具でジロウに何かし始めた。ハジメの位置からでは何が起こっているのかわからないが、恐ろしいことには違いなかった。
ジロウの悲鳴に混ざって歯医者のドリルのような音、何かが飛び散る音が聞こえた。時折金星人の間から赤い血しぶきらしきものが飛んできた。
「ハジメー! ハジメー! ギャアアア! すまなかった! こんなことに巻き込んで! ギャアアアア!」
ジロウは何か恐ろしいことをされながらハジメに話しかけてきた。
「ジロウ! ウワアアアア!」
ハジメは直視できなかった。
「ハジメー! 本当にすまなかった! 出会わなければ! 仲間になんてならなければお前をそんな姿にすることもギャアアア!」
「ジロウ!」
「ギャアアアアアアア!」
ひときわ大きな悲鳴を上げたのち、ジロウは黙ってしまった。金星人たちは手を動かし続けている。
「やめろ金星人ども! ジロウ! ジロウ! 死ぬな! 死なないでくれ! 俺はお前に謝らなきゃならないんだ! 海辺でのことも! 心の中でお前のことバカにしてたことも! 俺たちの曲を恥ずかしいって思っちまったことも! お前のおかげでバンドの夢が叶ったのに! 仲間なのに! それがこんな……ウワアアアアア!」
ハジメは叫んだ。ジロウに言わなければならないことが山ほどあった。こうなる前に言うべきだった。後悔で涙が止まらなかった。
「ハジメ」
ハジメを呼ぶ声がした。ハジメは声のする方、台の方を見た。ハジメの視界を遮っていた金星人がゆっくりと傍に移動し、ハジメからも台の上が見えるようになった。
「大丈夫だハジメ」
声の主は確かにジロウだった。ハジメも見慣れているジロウの顔だ。しかし、ジロウのその首から下が異質なものになっていた。ジロウの首から下は小型犬の胴体になっていた。
「大丈夫だハジメ」
ジロウの顔をした人面犬はもう一度言った。胴体に不釣り合いな大きさの顔はニヤリと笑い、尾を振っている。人面犬ジロウは二、三回ほど何かを吐くような動作を見せた後、口から本当にハンディレコーダーを吐き出して、前足でその再生ボタンを押した。ハンディレコーダーからハジメたちの曲が流れ出した途端、金星人たちは突然苦しみだして、ついには全員倒れてしまった。
「ジロウ! いったいどうやって!」
ハジメは驚いて言った。人面犬ジロウは再びニヤリと笑っていった。
「だから大丈夫だと言ったろ。だってこれ、お前の夢だしな。金星人が本当にいるとでも思ったか?」
「夢?」
ハジメが聞き返すと、急にあたりが揺れだした。装置類が倒れ、突然壁がバラバラに宇宙へ向かって剥がれていった。この宇宙船が崩壊しているらしい。あっという間に宇宙船は完全にバラバラになって、ハジメの頭部はカプセルごと宇宙空間に放り出された。そしてハジメの目の前に人面犬ジロウがフワフワと漂ってきた。
「じゃあな」
人面犬ジロウはそう言うとハジメの頭部入りカプセルを地球の方へと蹴った。そのあと人面犬ジロウは笑いながら爆発した。
そしてハジメの頭部はゆっくりと地球の方向に進みだした。その速度は徐々に速くなっていく。
「ウワアアアアアアアアア!」
ハジメはついに日本列島の形が見えるほど地球に近づいた。そこからの落下は一瞬だった。ハジメの住む県、ハジメの住む町、御徒高校の上、部室のプレハブの屋根……。
「ウワアアアアアア!」
ハジメが目を開けるとそこは部室だった。ミツコが覗き込んでいる。
「あ、起きた。よかった……人殺しになるところだった……」
「ミツコさん、懲りたらもう人殴っちゃだめですよ」
「うん……」
ミツコとマサヨシが物騒ながらもどこか気の抜けた会話をしている。
「夢か……そりゃそうか」
ハジメは起き上がりひとりつぶやいた。そして二人を見て言った。
「……ごめん、二人とも。それと俺、ジロウにも謝らなきゃ。俺たちのバンドこんなところで終わらせたくないし、それにはあいつが必要だし……それに、友達だし。仲直りしなきゃ」
「そっか、なんだか知らないけど、殴って正解だったみたい……ね……うん」
ミツコが一部塗装の剥げたベースを眺めながら言った。
マサヨシが笑顔で頷いた。
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