第3話
第三話
1
「よし、今日はこの辺にしておくか。今日はヨーダがいるからな」
「早めに出ないとヨーダ店長うるさいしね……」
バンドで合わせるコツをつかんだハジメたちは、バンドとして順調に上達していた。簡単な曲ばかりではあるが、コピーした曲も合計三曲になった。おかげでスタジオでの練習も、時間いっぱい同じ曲ばかり練習していた最初の頃よりもずっと楽しくなった。
「そうだ、片付けしながらで良いから聞いてくれ」
一番に自分の片付けを終えたジロウが片手でハンディレコーダーを操作しながら言った。ジロウが再生ボタンを押すと、ハンディレコーダーの小さなスピーカーから、アコースティックギターらしき音と、ジロウの曖昧なふにゃふにゃしたハミングが聞こえてきた。
マイナー調でテンポの速い曲だ。これはいつか、ジロウが公園で子供達の前で演奏していた曲だ。今まで頭の片隅に追いやられて忘れかけていた。
よく聞けば、改良を加えたのかあの時よりも部分的に複雑になっている気がした。
ハジメは公園で立聞きした時同様、いつの間にか手を止めて聞き入っていた。ミツコとマサヨシも同じ様子だった。やがて曲が終わり、スタジオは静寂に包まれた。
「かっこいいよ、すげーいい!」
ハジメは興奮気味に叫んだ。ミツコとマサヨシも頷いている。三人の反応を満足げに確かめたジロウは、自信満々に宣言した。
「いいだろう! オレたちのレベル的にもそろそろ次の段階へ行く頃だと思ってな! 聞いて驚け、これはオレが考えた、金星人を抹殺するためのオリジナル曲だ!」
スタジオに静寂が戻った。
「うんうん……いいと思う。金星人も死ぬ死ぬ……。オリジナルやるにはちょっと早い気もするけど、やってみようよ。コード譜ちょうだいね……」
ミツコは片付けを再開しながら抑揚のない声で言った。ミツコはもうジロウの発言にはすっかり慣れたようだった。
「楽しみですねえ! 僕もドラムの勉強しなくちゃ!」
マサヨシはジロウの曲に感動したようで、いつにも増して目を輝かせていた。よほど気に入って一発で覚えたらしく、片付けながらサビの部分を鼻歌で歌いだした。
「オリジナルかぁー! やっぱテンション上がるなあ!」
ハジメも興奮していた。金星人云々はさておき、実際ジロウの作ってきた曲はとてもカッコよかった。
ハジメがマサヨシと一緒になって鼻歌を歌い始めた瞬間、突然スタジオのドアが開いた。
「あと二分で出ないと延長料金取るよ!」
「うわああああああ!」
ハジメは腰を抜かした。ドアから入ってきたのはヨーダ店長だった。
「はいはい! すぐ出ます! こいつもすぐ出ます!」
腰を抜かしているハジメの横をすでに片付けを終えたジロウたちが足早に出て行った。ハジメも慌てて立ち上がり、片付けを終えて後を追った。
ハジメが一階へ降りると、すでに三人は会計を済ませており、ジロウはギターを抱えて机の前に座っていた。机の上にはノートが出ていて、ミツコがジロウの話を聞きながらなにやらメモを取っている。残念ながら今日は店内に犬塚さんの姿はなかった。
「……で、サビのコード進行がこうで……と。あとはこれが繰り返しで……、ベースは、この辺は大人しい感じで頼みたい。できるか?」
「なるほどね……だいたいわかった。あとはスタジオで合わせながらね……。鼻歌バージョンの音源後でメールで送っといて」
「了解だ。ドラムは全体的に今やってる曲みたいな感じで……」
例のオリジナル曲の話をしているらしい。ハジメも奥の机へと向かった。
「曲の話?」
「ああ、ハジメの分のコード譜はもう用意してあるぜ」
ジロウは一枚のルーズリーフを差し出した。上の方にでかでかと『金星人抹殺ロック』と書かれている。おそらく、これが仮タイトルなのだろう。
コード譜とはその名の通り、曲のコード進行だけが書かれた簡易的な楽譜だ。仮タイトルの下には雑な文字で数行にわたってコード進行が書かれていた。幾つか新しく覚えなければならないコードもあったが、使われているコード自体はそれほど多くなく、ハジメにもすぐに覚えることができそうだった。
「サンキュー、ところで歌詞は?」
「歌詞はまだだ、歌うのはハジメだからな。ハジメと作ったほうがいいだろうと思ってまだ考えてない」
「わかった、俺も考えてみるよ!」
ハジメは自分もこのオリジナル曲作りに参加できるのが嬉しかったし、ジロウに 頼りにされているような気がしてそれもまた嬉しかった。
「よし、それじゃあ次は三日後くらいにするか」
ジロウが予約を取ろうとしてカウンターへ向かおうとしたが、ミツコがそれを引き止めた。
「あ、ごめん三日後は私バイトなんだよね」
「バイトか、じゃあ四日後はどうだ」
「オッケー」
「僕も大丈夫です」
「じゃあ四日後、ヨ……店長、四日後の同じ時間空いてますか?」
「あいよ、川崎君たち二時間ね」
ヨーダ店長はカウンターの下からノートを引っ張り出してきてスタジオの予約を書き留めた。
「じゃあそろそろ私帰るね。じゃあまた」
ミツコは重たそうにベースを担ぎ、鼻歌を歌いながら外へ向かった。ジロウが作ってきた曲だ。どうやら、ミツコも気に入った様子だった。やがて外から軽快な原付のエンジン音が聞こえ、すぐに遠くへ去って行った。
「ミツコさん、バイトしてたんですね」
マサヨシがつぶやいた。
「そういえば初耳だな。最近始めたのかな」
ミツコは二年生であったし、これまで毎日顔を合わせていたわけではなかったので放課後何をしているのか知っているわけではなかったが、スタジオの日程をバイトで断られたことは今までなかった。偶然今まで日程が重ならなかっただけだろうか。それともやはり最近始めたのだろうか。答えは意外なところから帰ってきた。
「あの子、そこのアーケードの変な店でバイトしてるんだろう? 時々しか空いてない、あの変な店の」
「店長、ミツコのバイト先知ってるんですか?」
「商店街のババアのネットワークを舐めちゃいけないよ。ウェッヘッヘッヘッヘ」
ヨーダ店長は不気味に笑った。ミツコが時々しか空いてない変な店のバイトをしている……ハジメは良からぬ想像をした。変な店のバイト……変な店。高校一年生の想像力はすぐに限界を迎えた。
ハジメが想像力の限界を越えようとしていると、ジロウが立ち上がった。その顔は不気味に笑っていた。
「ハジメ、マサヨシ。三日後暇か?」
「ジロウ、まさかとは思うけどさ」
ハジメはジロウが考えていることが恐ろしくなった。
「まさかも何も、行ってみようぜ」
「マジかよ……」
「いいですね! 見に行きましょう!」
こうして、ミツコの知らぬところでハジメたちの三日後の予定が決まった。
2
三日後の午後五時、集合場所となったオオハマ楽器前にはすでにジロウとマサヨシの姿があった。
「お、きたかハジメ」
「あ、ああ。ごめん遅くなった……なんだその格好」
「昼間に学校に用事があってな。そのままきた」
これから変な店に行くというのにジロウは学校の制服という出で立ちであった。変な店は学校の制服でも入れてくれるのだろうか。変な店のシステムはよく知らないが、何かに引っかかったりしないのだろうかとハジメは心配になった。
「じゃ、行くか」
「はい!」
ジロウが立ち上がり、マサヨシもそれに続いた。ハジメも悶々とした気持ちでそれに続いた。
オオハマ楽器のすぐ近くに、寂れたアーケード街がある。いつ行っても薄暗い、七割がシャッターの商店街だ。
一応営業している店は、時計店、眼鏡店、喫茶店などがあるが、どれもどうやって採算を取っているのかわからないほど常に客がいない。
アーケード街を通り抜けると向こう側は居酒屋やバー、パブなどが密集したいわゆる夜の街で、ハジメはそちら側はあまり歩いたことはなかった。
「どこなんでしょうね、ミツコ先輩の変な店」
マサヨシがつぶやいた。ミツコがバイトしているという変な店は、ヨーダ店長の話だとアーケードの中ということだ。
アーケード街は営業している店自体が少なく、加えてそれほど広くもないのでシラミ潰しに歩いていけばすぐに見つかるはずだ。アーケードの向こう側は本当の意味で変な店だらけなので、あまりそちら側にあることは考えたくなかった。
ジロウは何を考えているのか無言で歩いていた。ハジメはというと、変な店について想像を膨らませて精神が疲弊し始めていた。
シャッターだらけのアーケード街を八割ほど進んだ頃、ジロウが脇道を指差して言った。
「アレじゃないか?」
「なるほど……あれは変な店だな」
「変ですね」
ジロウの指差す先にはハジメの想像を超えた変な店があった。真っ赤に塗られた壁、壁の塗装と不釣り合いなほど古めかしい大きな扉。外にせり出した窓には、びっしりと怪獣のソフビ人形が並べられていた。
過剰なほど電飾が巻かれた看板には、黒地に白い明朝体で『不定期営業 喫茶・思春期の恋』と書かれていた。そして店の前には、見慣れたミツコの原付が駐めてあった。
「喫茶店か……思ったほど変じゃないな。変な店っていうからオレはてっきり催眠商法とか霊感商法の店かと思ったんだが」
「僕も、変な店っていうからイルカの絵とか売ってるのかと思いましたよ」
「いや、十分変だけどな、これでも」
ハジメは自分が考えていた変な店については伏せたままにした。想定していた変な店とは違ったが、ハジメはショックを受けていた。
ハジメはこれまで、ミツコはジロウと比較してまともな部類の人間であると思っていたからだ。それがこんな得体の知れない店で好き好んでバイトしているとなると、考えを改める必要があるかもしれない。そう思った。
「とりあえず入るか!」
ジロウが勢い良く巨大なドアを開けた。同時に、低い鐘の音が鳴り響いた。お寺の鐘のような音だ。どうやらドアベルの変わりらしい。ハジメはおそるおそるジロウに続いて店内へと入った。
「いらっしゃいませ」
男の声だ。声の方を見ると、カウンターの中に三十代くらいの男が立っている。ここの店長だろうか。ハジメは店内を見回したが、ミツコの姿はなかった。
店内は意外と狭く、天井からは裸電球がいくつかぶら下がっている。カウンター席の他に、四人がけのテーブル席が二つ。壁には所狭しとポスターが貼られていて、その内容も最近の映画から昔のビールのポスター、果てはスーパーの折り込み広告などバラバラだ。
カウンターや、その奥の店内の棚などのいたるところに、窓で見たような怪獣のソフビ人形や美少女フィギュア、土偶、空き瓶、法螺貝、人間大の怪物の置物など、雑多な置物が飾ってある。店内の音楽は古い曲ばかりかけているラジオか何からしい。
ハジメたちは無言のまま奥のテーブル席についた。
「これは、普通じゃないな……金星人のアジトの可能性もある。二人とも注意しろ」
ジロウはメニューをパラパラとめくりながら言った。冗談を言っている顔ではなかった。
「いらっしゃいませ、ご注文がお決まりになりましたら声をお掛けください」
いつのまにか席まできていた店長らしき男が、テーブルに人数分の水とおしぼりを置きながら言った。胸のポケットにはネームプレートが挟んであり、『マスター』と書かれていた。
「普通マスターって自分で言うのか? いや、言うのかもしれないけど……」
ハジメは自分もメニューを手に取りながら、マスターが席から十分に離れたのを見計らってから言った。メニューを開くと、そこは思いの外普通で何種類かのコーヒーや紅茶。軽食などが記載されていた。ハジメたちには注文できないが、アルコールメニューもあるようだ。心配していた値段も思ったより普通だ。
メニューをもう一ページをめくると、今度は普通ではなかった。そこには見覚えのあるグロテスクな食べ物の写真が載っていた。
「ワラスボ焼きってこの店のだったのか!」
「そういえば、犬塚さんもたまにしか食べてませんもんね。不定期営業だったからなんですね」
「オレも実際に売ってる店は初めて見た、ここで買ってたのか……」
メニューにそれ以上ページはなかった。ハジメたちはそれぞれ、ワラスボ焼きとブレンドコーヒーを注文した。
直後、店内に低い鐘の音が鳴り響いた。店のドアが開けられたのだ。ハジメがドアの方を見ると、入ってきたのはミツコだった。黒地に白い文字ででかでかと「思春期の恋」と書かれたエプロンを着用していて、手にはスーパーのビニール袋を持っている。
ミツコはハジメたちに気がつくと、あからさまに表情を引きつらせた。その口から「ゲッ」と小さく声が漏れたのがハジメにも聞こえた。
「お、ミツコちゃんお帰り。買い出しご苦労」
マスターが何やらカウンター内で作業をしながら言った。
「何、ミツコだと?」
「あ、本当だ。ミツコさーん!」
ドアに背を向けて座っていたジロウとマサヨシも、振り返ってミツコを見た。ミツコは無言のまま早歩きでカウンター内に入りビニール袋を降ろすと、マスターが淹れ終えたばかりのコーヒーをトレイに乗せてハジメたちのテーブルへとやってきた。その顔は引きつったままだ。
「ブレンドコーヒーでぇす……」
ミツコはトレイからテーブルへ乱暴にカップを置きながらうらがえりかけた声で言った。
「ヨーダ店長がミツコさんが変な店でバイトしてるって言うから見にきました!」
「へ、へぇ、そうなの……し、静かにね……」
ミツコは無邪気に経緯を説明するマサヨシにあからさまに焦った様子で返すと、そそくさとカウンターの裏へと引っ込んでいった。
緊張しがちなミツコだったが、接客の緊張というよりは、明らかにハジメたちの存在に動揺しているように見えた。ハジメは来てはまずかったのだろうかとも考えたが、今は気にしないことにした。
「せっかくだし、今歌詞でも考えようぜ!」
「そうですね、いい機会ですし」
「歌詞か、そうだな」
ジロウはカバンから一枚のルーズリーフとボールペンを取り出した。
「よーし、どんな感じにしようか!」
ハジメは目を輝かせて言った。ハジメにとって作詞は憧れの一つだったし、喫茶店でコーヒー片手に作詞というシチュエーションは、何だか非常に格好良い気がした。
「ああ、金星人を倒すのに重要なのはおそらくメロディだからな。言ってしまえば全部ラララでもなんでもいいのだが。それじゃ味気ないしな。どうしたものか」
「じゃあ、とりあえずテーマを何か決めましょうか」
マサヨシが言った。
「テーマか……」
ジロウはカバンから新しいルーズリーフを取り出しテーブルに置くと、ボールペンで単語をいくつか書き始めた。時折周りを見回しながら、単語を声に出しながら箇条書きにしていっている。どうやらただ思いつくがままに単語を並べているらしい。
・金星人
・やっつける
・ロック
・コーヒー
・思春期の恋
・映画
・ルーズリーフ
・ボールペン
・金星人
・マーズ・アタック
・フィギュア
・金星人
ハジメが「金星人が三つあるぞ」と指摘しようとした時、ワラスボ焼きを三つトレイに乗せたミツコがやってきた。未だにその顔面は引きつっている。ミツコは机にワラスボ焼きを置きながら小声で言った。
「ちょっ……ちょーっといいかしら……お客様」
「どうしたミツコ」
「コーヒーおいしいですねここ」
「ミツコさんそれ似合ってるよ」
「っ! いやそんなことよりちょっと……あの……」
ミツコはマスターを一瞬見て、彼が新聞に夢中になっていることを確認すると小声で話を続けた。
「いい……ここでは金星人トークやめて……頼むから……」
「何、どういうことだ? まさか……!」
ジロウは急に真剣な顔になり、声を潜めた。
「あー……なんていうか、とにかくやめて……」
ミツコが言葉を選んでいると、ジロウは勝手にヒートアップして声を潜めたまま興奮してまくし立てた。
「まさかあの男の正体は人間に化けた金星人! ここはやはり金星人のアジトか! お前はスパイとして潜り込んでいるというわけだな……!」
「あー……うん。それでいいわ。そうなの。だから怪しい行動はナシで、ね……お願いね……」
ミツコは呆れた顔で言うと、ハジメとマサヨシに「頼む」という強いメッセージのこもったアイコンタクトを送ってカウンター内へと戻っていった。
「ジロウ、さっさと食べて出ようか」
ハジメが提案すると、二人は非常に不服そうな顔で答えた。
「バカ言え、ここがアジトなら絶好のチャンスだ! 様子を探るぞ」
「そうですよハジメくん、こんな面白いことなかなか無いですよ」
ハジメは心の中でミツコに詫びた。
3
作詞作業は難航していた。というより、一時的に滞っていた。ハジメたち三人は極端に口数が少なくなっていた。ハジメも、ジロウも、マサヨシも、カウンター内の様子が気になって気になって仕方がなかったからだ。
一応は皆、作詞作業のふりをしてノートに向かっていたが、マスターとミツコのどんな些細な会話も聞き逃すまいと耳をすませていた。ハジメはもう一度、心の中でミツコに詫びた。
ハジメは最初ミツコの味方のはずだった。それがこうして二人と一緒になって聞き耳を立てているのは、マサヨシのある気づきのせいだ。遡ること数十分、ミツコに釘を刺された少し後、マサヨシがカウンターを見ながらハジメにそっと言ったのだ。
「ミツコさん、マスターを見てるとき、見たことないくらい良い顔してますよ」
ハジメが言われてそっとカウンターの方を見ると、新聞をめくるマスターと、それをじっと見つめるミツコが目に入った。マスターを見つめるミツコは一見無表情に見えたが、よくよく観察してみればほんのり頬が染まっているように見えた。真一文字に結んだ口角も時折ピクピクと動き、にやけるそうになるのを噛み殺しているかのように見えた。
ハジメは悪趣味だとは重々分かっていたが、一度気にし始めるとカウンターの中の二人の動向が気になって仕方なくなった。
それから数十分、三人はチラチラとカウンターの中の観察を続けていた。ジロウだけは観察の目的が異なっていたのは言うまでもないが。
「そういえばミツコさん、なんで映画研究会にいたんでしょうね。映画そんなに詳しくないって言ってたし。だいたいベース持ってあそこにいたのも謎ですよ」
観察の最中、マサヨシがぽつりと言った。
「言われてみれば確かに。俺たちミツコさんのことあんまり知らないな」
ハジメはすっかりぬるくなったコーヒーをすすりながら答えた。ジロウは聞こえていない様子で、ジロジロと店内やマスターを観察し続けている。挙動不審と言えるほどの動きだったが、マスターは新聞を読みふけっており、ミツコはマスターを眺め続けていたため誰もジロウを咎めるものはいなかった。
ハジメがミツコについて知っていることといえば、学年、ベースが弾けること、原付免許を持っていること、それと緊張しがちということ程度だった。
「去年は映画研究会の一年生はミツコさん一人だったんですよね、二年生はいなくて、三年生はいたみたいですけど。それで三年生が卒業してミツコさん一人になったって」
「そんなこと言ってたな。たまに映画見るだけの集まりだったとか。あと、もっと昔の映画研究会は一応自主制作映画作ってたんだっけ?」
「うらやましいです……」
「ああ、そういえばマサヨシはそういうのやりたかったんだっけ」
ハジメがマサヨシと冗長な会話をしていると、カウンターの中に動きがあった。
「じゃあミツコちゃん、ちょっと出てくるから店よろしく。すぐ戻るよ」
「は、はい!」
マスターはミツコに声をかけ外へ出て行った。大きな扉から出て行くと同時に、低い鐘の音が店内に鳴り響いた。
ミツコが返事をするときいつもより幾分高い声だったのをハジメは聞き逃さなかった。ミツコはよほどマスターに懐いてるらしく、その後のミツコは忠犬と恋する乙女を足して二で割ったあとで水で十倍に薄めたような表情をしていた。
ハジメはマスターが出て行ったこの隙に、ミツコに疑問をぶつけてみることにした。
「ミツコさん、そういえばなんで映画研究会に入ったの?」
「ひぇっ……何? 映画研究会?」
突然話しかけられたミツコはひどく狼狽した様子で答えた。
「そう、ほら、ミツコさん映画あんまり詳しくないって言ってたろ?」
「とっ、友達の勧めで入ったの……入りたい部活も無かったし」
「その友達は?」
「や……辞めたの、先に。それより、作詞……作詞どうなったの!」
「全然進んでない」
「何してたの今まで……」
「あ、えーと……」
まさかミツコの観察をしていたとも言えずハジメが答えに詰まっていると、店内に低い鐘の音が響き渡った。先ほど出て行ったマスターが早くも帰ってきた。
「ただいまー」
すぐ戻るとは言っていたがこれほどすぐだとは思っていなかったハジメはミツコへの質問を中断せざるを得なかった。だがハジメが机に向き直るのと入れ替わりに、ジロウが机を叩きながら力強く立ち上がって大声で叫んだ。
「ついに尻尾を出したな金星人め!」
ジロウの指先はしっかりとマスターを指し示していた。ハジメは店内の空気が凍りついたような錯覚を覚えた。
「ジロウ、お前ちょっと……!」
ハジメが我に返ってジロウを抑えようとしたその時、マスターがニヤリと口角を上げ不思議なポーズをとった。そして低い声で、ハジメの貧弱な常識を軽々吹き飛ばすような事を呟いた。
「バレたか!」
「はああああああ?」
ハジメは開いた口が塞がらなかった。ハジメの脳内で様々な考えが渦巻いた。何を言っているのだこのオッサンは、まさかこの人も妄想狂いなのか、ふざけているだけなのか。いやあるいは正しいのはジロウでこのオッサンは本当に金星人なのだろうか。いや、どう見てもただのちょっとお茶目でダンディなオッサンだ。なんだあのポーズは。ハジメは状況に脳が追いつかなかった。ミツコもハジメ同様固まっている。マサヨシは腹を抱えて笑っている。
ハジメが口を開けたままのハニワ顔で固まっているのをよそに、ジロウは大声で話を続けた。
「ああ、お前ら金星人がロックに弱いことは知っている! 店内の音楽がロックに変わった瞬間お前は外に出たな! そして曲が終わる頃合いを見計らって戻って来た! 残念だったな金星人め! お前はオレたちの曲の実験台になってもらうぞ金星人! ミツコそいつを捕まえろ!」
ジロウはカバンに手を突っ込んでハンディレコーダーを構えた。しかしマスターはジロウの頭のネジが外れきった発言を聞いて何か合点がいったらしく、ポンと手のひらを一度叩いて笑い出した。
「金星人……ロック、ああ! 君たちもしかして御徒高校の映画研究会の新一年生か! ハッハッハッハそうか君たちが!」
ハジメは何が何だかわからなかった。ハニワ顔のまま場の流れを見続けることしかできなかった。ジロウはマスターを指差し叫び続けている。
「ええい何がおかしい! ミツコ! 早くとらえろ! 今だ!」
「キエエエエエエエエエ!」
ミツコがカウンターから奇声をあげながら飛び出してきた。その手にはフライパンが握られていた。ミツコは飛び出した勢いを殺さずにそのまま目にも留まらぬ速さでジロウの背後に回ると、フライパンで思いっきりジロウの後頭部を殴った。
「ぐぇっ」
ジロウは小さく悲鳴をあげて倒れた。ミツコは頭をかきむしりながらマスターに向かって慌てて口走った。
「違うんです! あの、とにかく違うんです! 違うんです! 関係ないんです!」
そう言うとミツコはフライパンを持ったまま店から駆け出してしまった。
「あ……ええと、マサヨシこっちは頼む!」
ハジメはそう言うとミツコを追って飛び出した。
ミツコは意外と足が速かった。ハジメが全速力で追ってもなかなか追いつけない。ミツコが原付に乗っていないのが不幸中の幸いだった。
「ミツコさんちょっと待って! 待って!」
「うわあああああやっちゃったあああああ!」
ミツコは叫びながらアーケード街を走り回っていた。奇妙なエプロンをつけてフライパンを持って、長い髪を振り乱して走り回る姿は深夜であったら失禁ものの怖さだった。しかし日中は日中で別の問題がある。人目だ。寂れたアーケード街内ならまだ人目も最小限で済むだろうがあのままアーケード街の外に出てしまっては最悪通報沙汰の恐れがある。アーケード内でなんとか落ち着かせる必要があった。
「ミツコさんストップ! ストップ!」
ハジメは渾身の力を込めてダッシュし、アーケード街ギリギリ内側の眼鏡店の前でミツコの服を鷲掴みにするような形で捕まえることに成功した。
「はぁ……捕まえた……」
「うう……ハジメくん、離してくれない?」
「もう逃げないでくれるなら……はぁ……疲れた……」
「わかったから、あの、そこの眼鏡屋さん見てるし……」
ハジメは慌ててミツコの服を握りしめていた手を離した。
喫茶店『思春期の恋』へ戻りながら、ミツコはハジメに語り始めた。
「あの……迷惑かけちゃったから話すけど……絶対誰にも言わないで欲しいんだけど……」
「わかった、言わない」
ハジメはどんな話が飛び出すのか恐怖しながら約束した。ミツコはハジメの返事を確認すると、話を続けた。
「ええと、どこから話せばいいかな……マスター、お父さんの友達でね。小さいころから知ってたのよ……で、その、マスター、御徒高校の映画研究会の元部長でね。マ、マスターとの、共通の話題になれば良いなって思って……」
「ああ、それで映画研究会に入ってたんだ」
「…………」
ミツコは耳を真っ赤にして頷いた。
「ごめん、続けて」
「あとマスター、ベースもやっててね。とっても上手なのよ」
「じゃあもしかして、ベース始めたのもマスターと話題作るため?」
「…………」
「ごめん」
「いや、そうよ……あの、ハジメ君たちがバンドに誘ってくれた時も、怖かったけど、バンド始めたって言ったらマスター喜んでくれるかなって思って……あ、違うの! 好きとかじゃないの! 好きとかじゃないの! だってマスター滅茶滅茶年上だし! ただその、マスターかっこいいし、その……」
ミツコは真っ赤な顔のまま固まってしまった。ハジメはミツコの意外な一面を見てなんだか安心したと同時に、ミツコに対する妙な親近感が湧いてきた。話を聞きながら、犬塚さんの顔がよぎったからなのかもしれない。さすがにミツコとマスターほど歳は離れていないが。
「ごめんね、サポートメンバーになってあげる……とか言って、利用してるみたいになって」
ハジメが黙っているとミツコが小声で言った。
「いや、それを言ったら俺だって、無理言って入ってもらったし、手伝ってくれるだけでありがたいですよ……ところで、マスターが金星人云々ってのは?」
「そんなわけないでしょう……マスター、悪ふざけ好きだからあのアホに乗ったのよ」
気がつくと、もう『思春期の恋』は目の前だった。恐る恐る扉を開けると、ジロウとマサヨシに加えてマスターまでもが机を囲んでいた。
「遅かったな、どこに行ってたんだ!」
ジロウは一体どうしたことか、まるで何事もなかったかのように言った。
「歌詞書いてみましたよ! 見てください!」
「ああ、傑作だぞ」
マサヨシに続いて、マスターも言った。
「はあ……」
ハジメは歌詞を書き綴ったルーズリーフを受け取った。「金星人」と「殺す」という言葉がそれぞれ三回ずつたっぷり入った、脳みそがドロドロに溶けてしまうほど頭が悪い歌詞が書かれていた。ハジメはため息をつくと、自分も席についた。
「よし、俺も一緒に考えるから。これは保留で……」
「ハッハッハ、頑張れよ」
マスターはそういうとカウンターへ戻っていった。
「マスター、さっきはごめんなさい、その……」
ミツコはカウンターの中へ戻りマスターに頭を下げた。
「ハッハッハ、もうお客様は殴っちゃダメだぞ」
「はい!」
ミツコはいつもより幾分か高い声で返事をした。
4
「頑張れ頑張れー」
「なんでいるんですか」
「だってジロちゃんたちの初オリジナル曲とか、聞かないわけにはいかないじゃん」
「仕事は……」
「どうせ暇なんだもん」
「はぁ、じゃあこれお願いします」
「ん、まかせてー」
ジロウは呆れ顔で犬塚さんにハンディレコーダーを手渡した。
喫茶店事件から数日後のオオハマ楽器の二階スタジオ、ハジメたちのいつものセッティングに加えて、ハジメの前に譜面台が一本立っている。出来たばかりのオリジナル曲の歌詞が書かれたルーズリーフが一枚、不安定そうにのっている。
「また人がいるの……」
「大丈夫ミツコさん、っていうかバンドなんだから人前に慣れてくださいよ」
「う……うん」
ハジメは深呼吸して、譜面台のルーズリーフを見た。あの日『思春期の恋』でみなで書いた歌詞だ。結局あの後できたのは一番の歌詞だけで、二番にはとりあえずジロウとマサヨシ、マスター合作の例の電波歌詞を当てはめてある。
ちなみにハジメがミツコを追って出て行った後の出来事をマサヨシに聞いたところ、あの後ジロウはすぐに意識を取り戻したが、フライパンの衝撃で店に入ってからの記憶がすっかり吹き飛んでいたらしい。マサヨシの「歌詞を作っていたんですよ」という言葉をあっさり信じて歌詞を再開したそうだ。マスターもゲラゲラ笑いながら歌詞作りに参加したそうだ。
「よし、オッケー。やろう!」
ハジメが合図を出すと、マサヨシがスティックを四回打ち鳴らした。同時に、正面で見ている犬塚さんがハンディレコーダーの録音ボタンを押した。
マサヨシのカウントが終わると同時にピックを振り下ろす。家で何度も練習はしたが、初合わせはやはり緊張する。おまけに犬塚さんまで見ている。犬塚さんはハジメたちの曲を聴いてどう思うだろう、歌詞を聴いてどう思うだろう。そう思うとハジメは急に照れ臭くなってきた。
イントロが終わり、歌に入る。ハジメは少し照れたまま歌い始めた。ちらりと正面を見ると、犬塚さんがジェスチャーで「全然聞こえない」と言っているのが見えた。
「こんなところで照れて歌えなくて何がバンドマンだ。これまで人で埋め尽くされたライブで演奏する妄想ばかりしていたじゃないか、犬塚さん一人の前で照れてどうするんだ!」ハジメは頭の中で自分に強く言い聞かせ、照れを振り払うかのように、大声で歌い出した。
勢いさえついてしまえば、あとは驚くほど上手くいった。ジロウの演奏はすでに手慣れており、マサヨシのドラムも安定していた。ミツコはというと、以前の彼女の演奏よりも何かが吹っ切れているような気がした。荒くなっている部分もあるが決して悪い意味ではなく、むしろそれが格好良く感じた。
そして演奏が二番に差し掛かる、ハジメは例の珍妙な歌詞を歌い出した。二番の間中、犬塚さんは腹を抱えて笑っていた。ハジメは照れを押し殺しながら、最後まで歌いきった。
歌いきったハジメが左を見ると、満足げなジロウと目があった。
「完璧だな」
「ああ! すげー楽しいよこれ!」
ハジメも笑顔で返した。初めてのオリジナル曲の合奏は、これまでコピーしてきたどの曲よりも楽しかった。
「僕も、楽しかったです!」
「私もなんか……楽しいよ、これ。ジロウくんすごい」
マサヨシとミツコも満足げだった。あのミツコがジロウを褒めているのをハジメは初めて見た気がした。
「楽しい、か。これは遊びじゃない……が、まあいい。それくらいの方がいいだろう。ククク今に見てろよ金星人どもめ! よし早速聞いてみよう、犬塚さんそいつを!」
「はいよ、ちゃんと録れてるといいけど。いやーよかったよみんな! かっこよかった!あと、二番の歌詞なんなのアレ、最高」
犬塚さんはニコニコ笑いながらジロウにハンディレコーダーを手渡した。ジロウは手早くハンディレコーダーをミキサーに接続し、再生ボタンを押した。スピーカーから大音量でハジメたちの曲が流れ出す。客観的に聞くその曲は、ハジメが思った以上に格好良く、また思った以上に気恥ずかしいものだった。
「いやーイイじゃんイイじゃん、アタシ好きだよこれ!」
聞きながら犬塚さんが目を輝かせて言った。その一言は、ハジメを調子に乗らせるには十分だった。
「よし、もう一回やろう!」
「よしきた」
「ヨシくんカウント!」
マサヨシがスティックを打ち鳴らす。この日はスタジオの時間いっぱいこの曲に費やした。
夜、ハジメはジロウから送られてきたmp3データを繰り返し繰り返し聞いた。飽きることはなかった。一回聞くごとに誇らしいような恥ずかしいような、不思議な気持ちが胸に湧き上がった。リピート再生しながらベッドに横になると、ハジメはいつの間にか眠りに落ちていた。
その日の夜、ハジメは全校生徒の前でライブをやる夢を見た。ハジメたちの演奏を聴いた生徒が一人一人倒れていく奇妙な夢だ。倒れた生徒は痙攣したのち、真っ黒い化け物に姿を変えた。ハジメはそこで飛び起きた。
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