第2話
第二話
1
ステージの上。まばゆいスポットライトが山葉ハジメを照らしている。
ハジメの正面にはマイクスタンド、その向こうには人、人、人、人、人。まるで人の海のような光景が広がっている。
ハジメがギターをかき鳴らすたびに、スタンドのマイクに向かって歌声を張り上げるたびに、人の海は大きく波打った。こんなにも気持ちがいいことがあるだろうか。いや、あるわけがない。ハジメは興奮を抑えきれなかった。
曲も後奏へと差し掛かり、最後の一音へ向けてハジメは大ぶりなストロークでギターをかき鳴らしてゆく。ワン、ツー、スリー……ジャンプ! 着地と同時に右手に持ったピックを思いっきりギターへ振り下ろした。
人の海から歓声が湧き上がる。ハジメは汗を拭い、マイクを掴んだ。
「ありがとう!」
再び大きく湧き上がる観客。ハジメは振り返り、仲間達を見た。
ドラムの小柄な男、本田マサヨシは笑顔だが、どこか困惑した様子でキョロキョロと辺りを見渡している。
紅一点のベース、鈴木ミツコは不思議な形のベース(サンダーバードと言うらしい)の上に腕組みをして、苦虫を噛み潰したような顔で何やら考え込んでいる。
リードギターの眼鏡男、川崎ジロウも同様だ。片手をあごに当て、難しい顔で何か考え込んでいる。そしてハジメをみて、その口を開いた。
「酷いなこれは」
「ちょっと酷いかもね……」
ミツコもジロウに続いた。
「え、嘘っ、俺的には良かったと思うんだけど」
ハジメが言い返す。
「アハハハ……」
マサヨシは困惑気味に、乾いた笑いを振りまいている。
「いや、全然ダメだ。金星人を倒すとかそれ以前の話だ。とりあえず、聞いてみよう」
ジロウはそう言うと、ギターをスタンドに立てかけてステージの先へと歩き出した。そこにはすでに観客の海の幻はなく、フローリングの床にハンディレコーダーが一つ、ぽつんと置かれているだけだ。
ハジメは自分が立っている所がライブのステージでもなんでもなく、オオハマ楽器の二階のスタジオであることを思い出した。
「行くぞ」
ジロウはハンディレコーダーをスタジオの隅の、スピーカーにつながっている機械(ミキサーというそうだ)に接続し、先ほどの自分たちの演奏を録音したものを再生した。
…………ハジメたちがバンド『ザ・ヴィーナス・アタック』を結成したその日、練習する曲目の話し合いが行われた。
ジロウは初めから自作の曲、例によって金星人とやらを倒すための曲を作りたいと言ってきたが、ミツコの「一発目からわけがわからなくてなんだか心の病気になりそうだし、初心者が二人もいるのだから初めは簡単な曲のコピーで練習するべきだ」という意見に押されて渋々折れた。ハジメもミツコと同意見だったし、マサヨシもそれに従った。
そしてミツコがたまたま楽譜を所持していた、昔流行ったパンクロックバンドのコピーをすることになった。ハジメのパートはギターボーカルだ。
歌いながら演奏する必要があるため、ハジメのギターのパートはとても簡単で、コードを五つばかり覚えればよかった。しかし歌いながら演奏するにはそれなりの練習が必要だった。
初のスタジオ練習は二週間後、ハジメは必死に練習した。時に教本に噛みつきながら、時に動画サイトを睨みつけながら、時にジロウに助けてもらいながら。そしてその二週間後が、今日だった。ハジメは存分に練習の成果を発揮したはずだった。
「そんな馬鹿な……」
録音された自分たちの演奏を聴いたハジメは膝から崩れ落ちた。録音されていたのは、往年のパンクロックの名曲とは程遠い、ギリギリ音楽に聞こえないこともない程度の騒音だった。
これが、自分が今の今まで自信たっぷりに演奏していたものだとは信じられなかった。演奏しているときは確かに手応えがあったし、ミスもなかったはずだった。これは何かの間違いだ、ハジメはそう思った。
「も、もう一回やろうぜ! もう一回やったら上手くいくって!」
ハジメは根拠なく言った。
「そ、そうですね!」
マサヨシがスティックを頭上に掲げ、ミツコとジロウを見た。
「よし、とにかくやってみよう」
「オーケー……じゃあ、ヨシくんフォーカウントお願い」
ミツコとジロウは苦い顔のまま言った。
「は、はい!」
マサヨシはスティックを四回打ち鳴らした。その数拍後にはハジメは再びライブステージの幻を見ていた。
自分でかき鳴らすギターの音がたまらなく気持ちいい。口からは歌が溢れ出し、マイクを通じてスピーカーからハジメの耳へ帰ってくる。ハジメは今日まで家で練習に練習を重ねた結果、ギターはすでに手元を見ないで演奏できるほどになっていた。
「ありがとう!」
ハジメは再び幻の中の観客に向かって叫んだ。そして仲間たちを振り返った。
「今度はどうだったよ!」
「なぜハジメはそこまで自信満々なんだ……ミツコ、どう思う」
ジロウがギターを置きながら言った。
「どうも何も……全然……合ってないのよね」
二人は先ほど同様、苦い顔のまま言った。二人とも、またしても演奏には満足していないようだ。ハジメはそれが不思議だった。
「さっきのも録音してたんだろ? 聞かせてくれよ」
「ああ、いま再生する」
ジロウはすぐにハンディレコーダーをミキサーへ接続し、再生ボタンを押した。再生されたのは、よりひどくなった騒音であった。
「なんだこれ……弾いてる時は上手く弾けてるつもりなんだけどな、なんでなんだ……」
ハジメは頭を抱えた。
「ほら、家の練習とスタジオとじゃ環境が違うじゃないですか。それですよ、きっと。慣れってやつじゃないですか」
マサヨシはハジメを元気付けるように言った。
「うーん……まあ慣れといえばそうなんだろうけど。そ、それにしてもヨシくん上達早いね。まだ始めたばっかなのに結構叩けてる……」
ミツコはマサヨシを見ながら言った。確かに言われてみれば、録音の中のドラムはうまく叩けているような気がした。
「ありがとうございます! 実は、中学の頃からゲームセンターのドラムのゲームやってたんです。それで、ちょっとは応用できてるのかも。ところでヨシくんってなんですか?」
「マサヨシって長いから……」
「みんなと一文字しか変わらないですよ」
マサヨシは苦笑しながら答えた。
「とにかく、もう一度だ。一刻も早くオレ達は次のステップに行かないと、こうしている間にも金星人はこの街を、地球を狙って……」
「ヨシくん、カウント」
ミツコがジロウの演説を遮って言った。
「はい!」
マサヨシは元気に返事をしてスティックを四回打ち鳴らした。
2
「お、初スタジオはどうだった? 楽しかった?」
二階から降りてきたハジメたちを出迎えたのは、閉店の準備をしているお姉さん店員、犬塚さんだった。
「まあ、演奏してる間は楽しかったですけど……」
ハジメは苦笑いで答えた。メンバーたちは浮かない足取りでぞろぞろと店の奥のテーブルへと向かった。
「合わん、何度やっても合わんぞ」
ジロウはそう言うと、カバンからコーラのボトルを取り出して呷り、むせた。
「まあ……まだ初心者だし。こんなもんじゃないの。ジロウくんだって、バンドでやるのは初めてなんでしょ……」
ミツコは長い髪先を指で弄びながら言った。よく櫛の通された髪がサラサラ揺れた。
「そうですよ、むしろ、思ったよりできたっていうか! 何より楽しかったですし!」
マサヨシだけは機嫌がよさそうだった。初めてのスタジオ練習がよほど楽しかったらしい。
「いやージロちゃんが友達連れてバンド練習にくるなんて、アタシ泣きそうだよ。あ、アタシはジロウの親戚の犬塚と言います。よかったらどうぞ」
犬塚さんはどこかから奇妙な菓子を五つ持ってくると、皆に一つずつ配り、自分も一つ食べ始めた。
「なんですかこれ……ウツボのたい焼き?」
ハジメは奇妙な菓子を眺めながら言った。細長い何かがうねっている状態を模した皮に何かが包まれている、さながらグロテスクなたい焼きと言った感じだ。
「ワラスボ焼き……」
ミツコがそのグロテスクな何かを齧りながらつぶやいた。
「ワラスボ」
ワラスボはハジメも聞いたことがあった。ワラスボとはこの近くの海に生息している魚で、悪夢に出そうなほど非常にグロテスクな見た目で有名だった。このワラスボ焼きは本物に比べればまだ可愛らしくデフォルメされていた。
「あ、ありがとうございます」
マサヨシもハジメ同様ワラスボ焼きを初めて見たらしく、始めはおそるおそる口に運び、二口目からモリモリと食べ始めた。
「いただきます」
ハジメは一口かじって中身が黒あんであることを確認し、二口目を食べた。
「犬塚さんまだ仕事中だろ」
「いいのいいの、もう閉店時間だし、どうせ店長来ないし」
犬塚さんはジロウの小言を聞き流し、話を続けた。
「で、どうだったの? スタジオ、楽しかった?」
「えーと、なんというかまあ、早速壁にぶち当たったというか。まあ、楽しいのは楽しいんですけど、それが、弾いてるときは完璧に出来てるつもりなんですけど、録音したのを聞くとメチャクチャで……」
ハジメはワラスボ焼きをかじりながら、今日のスタジオでの出来事を話した。犬塚さんはうんうんと大きく頷きながら聞いてくれた。
「なるほどなるほど、その録音したの聞かせてくれる?」
「聞かせるようなもんじゃ……」
「いいからいいから、お姉さんに任せなさい」
「……ジロウ、聞いてもらおう」
ジロウはワラスボ焼きを咥えたままカバンからハンディレコーダーを取り出し、イヤホンを接続して犬塚さんに手渡した。犬塚さんは髪をかきあげてイヤホンを耳に入れ、本体の再生ボタンを押した。
「えーとどれどれ、なるほどね。おー、意外とちゃんとできてるじゃん。ベース上手いねえ」
「か、簡単な曲ですから……。ほとんどルート弾きだし」
ミツコは謙遜していたが、それでもまんざらでもなさそうな表情だった。
「いやいや、それでもリズムキープできてるよ。しっかし懐かしい曲だね」
ハジメはこれが一応曲だと認識されたことにホッとした。
一曲丸々聴き終えた犬塚さんはイヤホンを外し、ハンディレコーダーをジロウに返しながら言った。
「まあ練習不足もあるんだけど、みんな多分周りの音をあんまり聞いてないね。しっかり周りの音を聞くだけでずっと良くなるはずだよ。それぞれはそこそこ出来てるみたいだからさ」
「周りの音?」
聞き返したのはジロウだ。
「合わせようーってもっと意識するって事かな。そうだね、ジロちゃんたちの場合ベースの……ええと」
「鈴木、ミツコです」
ミツコがおそるおそる手を挙げた。
「ミッちゃん、ミッちゃんがリズムキープできてるから、ドラムの君」
「あ、本田マサヨシです!」
マサヨシは立ち上がってお辞儀をしながら答えた。
「本田マサヨシくん。君はミッちゃんの音をよく聞きなさい。君たちはお互いに聞きなさい。んで、ジロちゃんとハジメくんはマサヨシくんのバスドラの音を感じるようにしたら良いんじゃないかな」
犬塚さんは一人ひとりの顔を見ながら、いつもより少し真面目な顔で言った。
「バスドラの音を感じる?」
ハジメは首をひねった。犬塚さんは少し考えて、話を続けた。
「バスドラムの音だけじゃなくて、振動を感じるの。最初はわけわかんないかもしれないけど、一度耳と体で捕まえちゃえば簡単だよ」
「耳と体で……?」
「捕まえる……?」
ハジメとジロウは首をひねった。
「犬塚さん、わけのわからないことを、もしや頭が……脳、脳が、金星人に……そうだ、どこかにチップを埋められているんじゃ……」
「キャー」
犬塚さんはこめかみを触ろうとしてきたジロウの手を笑いながら払いのけると、クスクスと笑いながら話を続けた。
「難しく考えないで良いよ、周りの音をもっとよく聞いてごらんってこと!」
「周りの音を聞く……なるほど!」
ハジメはようやくハッとした。言われてみれば確かにそうだった。スタジオでの演奏を振り返ると、ハジメは自分の世界に入り自分の演奏に熱中しすぎていた。それで、ハジメ一人が完璧だと思っても実際の演奏は全然合っていなかったのだ。
バンドは仲間と演奏するもの、合わせようとする気が無ければ成り立つはずもなかった。
「なるほどまわりの音か……言われてみれば、当たり前のことだな。何故気がつかなかったんだ……できれば今すぐに試したい! 犬塚さんスタジオ貸してくれ!」
ジロウが興奮気味に立ち上がり、ギターケースを担いだ。その目はギラギラと輝いている。
「俺も! お願いします!」
ハジメも立ち上がった。ジロウ同様、いてもたってもいられなかった。それぞれの演奏はできているのだ、あとは合わせる練習さえすれば……。合わせることを意識した演奏を早く試してみたかった。ハジメは残りの二人を見た。
「ゴメン、私そろそろ帰らないと」
ワラスボ焼きを食べ終えたミツコが口元を手の甲で拭いながら、少し残念そうな顔で言った。
「じゃあ、また今度ですね!」
マサヨシも立ち上がり、今夜はお開きとなった。犬塚さんも忘れかけていたスタジオ料金の会計をして、次回の予約をとる。ジロウはこれまでこっそりタダでスタジオを借りていたらしいが、バンドになってからきっちりと料金を取られることになった。
次のスタジオ練習は皆のスケジュールをすり合わせた結果、来週の土曜日の夜となった。
店外へ出ると、外はもう暗くなっていた。店の前に設置された自動販売機に虫が体当たりを繰り返している。その横には原付と中型バイクが一台ずつと、自転車が三台停められていた。
「じゃ、またね」
ミツコはその中の原付に跨りフルフェイスヘルメットを被ると、こちらに軽く手を振ってからあっという間に見えなくなってしまった。
御徒高校は遠方の生徒のみ、二年生から原付での登校が許可されている。ミツコも原付通学組の一人だった。
ハジメたちはまだ一年生なので徒歩かバス、もしくは自転車通学だ。ハジメは最初の数日こそバスで通学したものの、自転車の方が何かと自由が利くため、すぐに自転車通学に切り替えた。ここオオハマ楽器にも、直接学校からギターを背負って自転車で来た。距離はそこそこあったが、ハジメはそれほど苦だとは思わなかった。
「ほい、どいたどいたー」
エプロンを外した犬塚さんが店から出てきて、シャッターを下ろし始めた。春とはいえ夜はまだ少し肌寒く、犬塚さんは厚手のジャケットを羽織っていた。
ジロウは自動販売機で炭酸飲料を買い、店の前のベンチに腰掛けた。ハジメもホットの缶コーヒーを買い、その隣に腰掛けた。マサヨシはおしるこを買っていた。
「次の練習、上手くいくかな」
ハジメは熱い缶を手のひらで転がしながら言った。
「それはオレ達次第だ。だが、犬塚さんのアドバイスは役に立つ!」
ジロウはそう言うと炭酸飲料を一気に飲み、むせた。
「頑張りましょう! 金星人から地球を守るためですもんね」
マサヨシは笑顔で言った。ハジメはひどくむせた。ハジメが顔を上げると、いつの間にかシャッターを下ろし終えた犬塚さんがハジメたちの目の前に立っていた。なぜかヘルメットを被っている。犬塚さんはハジメの顔を覗き込んで話し始めた。
「そうそう。あと一個思ったことがあってね。ハジメくんボーカルやるなら声量がもっとあったほうがいいよ。あのね、海辺で練習するといいよ。遮るものがなーんにもないから音が散っちゃって、大声出さなきゃいけなくなるからなんか特訓になるんだって。前お客さんが言ってた」
「あ、は、はい! ああ、ありがとうございます」
ハジメはカクカクと頷きながら礼を言った。犬塚さんに至近距離で見つめられて、話はあまり頭に入ってこなかった。
「海辺でですね」
ハジメはかろうじて耳に入っていた単語を返した。
「うん、海辺で歌うの。この辺だと、あっちの防波堤沿いのとこがいいかな。あそこめちゃめちゃ臭いから誰もこないし。臭いけどさ。じゃ、頑張ってね! 応援してるから!」
犬塚さんはハジメの肩を軽く叩くと、店の前に駐めてある中型バイクへと走った。クリーム色の洒落たバイクだ。
「じゃあね若者たちー! 早く帰るんだよー! あ、今度君たち練習の時たぶん店に店長いると思うから、アタシが暇だったら練習見たげるよ!」
「はい! よろしくお願いしまーす!」
ハジメの返事はエンジン音にかき消され、おそらく犬塚さんには届かなかった。あっという間に見えなくなってしまったが、目の前を通り過ぎる一瞬、こちらにウインクしたのが見えた。ハジメはコーヒーに口をつけながら、今のウインクは自分宛なのだろうかジロウ宛なのだろうか、と、ぼんやり考えた。
「いい人ですね、犬塚さん」
マサヨシがおしるこを飲みながら言った。ハジメは頭の中を見透かされたような気がしてギクリとしたが、マサヨシの言葉に深い意味は無いようだった。
「ああ、あの人はオレを金星人から救ってくれた命の恩人だ」
ジロウの言葉にハジメは再び酷くむせ、コーヒーを吹き出した。
ハジメは、犬塚さんは不思議な雰囲気の人ではあったが、ジロウよりはずっとまともな人間だと思っていた。まさか犬塚さんもジロウ同様、金星人がどうのこうのを信じている妄想狂なのだろうか、それともまさかジロウに吹き込んだ張本人なのだろうか?
いや、これもジロウの妄言であってくれ。犬塚さんはまともな人であってくれ。ハジメは心のなかでそう祈った。
3
「お兄ちゃんそれギター? 弾けるの?」
「ああ、弾ける」
待ち合わせ場所である公園のベンチでアコースティックギターを抱えたジロウの前には、小学生程度の男の子が一人立っている。
ハジメはその様子を公園の外から、自転車にまたがったまま眺めていた。すぐにジロウと合流しても良かったが、ジロウと子供という、なんだか妙な取り合わせに対する好奇心に抗えなかった。
「すごーい! 弾いて見せて! ボクも友達とギターやりたいんだ!」
男の子は瞳を輝かせながらジロウに言った。ジロウはニヤリと笑い、ギターを構えた。
「ほう、ギターを! 君は見込みがあるな、いいだろう。まだ未完成だが……喜べ、これを聞くのは君が初めてだ!」
そういうとジロウは、アコースティックギターをかき鳴らしながら曖昧なハミングで歌い出した。ハジメは未だに少し離れたところからではあるが、男の子と共に聞き入ってしまった。聞いたことのない曲だった。テンポの速い、疾走感のあるメロディにジロウのふにゃふにゃとしたハミングが乗っている。とてもふにゃふにゃとしたハミングだったが、ハジメにはそれがなんだかとても格好良く思えた。
「すごーい! かっけー!」
男の子が興奮していると、公園のトイレからもう一人、男の子が出てきた。
「あ、てっちゃーん! この兄ちゃんすごいよ!」
男の子はトイレから出てきた男の子、てっちゃんに向かって呼びかけた。トイレから出てきた方、てっちゃんはその様子を見るなりジロウたちの方に駆け寄ってきた。そしててっちゃんではない方、ジロウのギターを聴いていた方に、耳打ちというには少し大きな声で言った。
「よっちゃん、逃げよう、この人ギターは上手いけどちょっと……」
「え、なんで?」
ジロウのギターを聴いていた方、よっちゃんがてっちゃんに聞き返すと同時に、ジロウの曲が終わった。
「どうだった、素晴らしいだろう。邪悪な金星人どもはロックに弱いのだ! この町には金星人が潜んでいる。この町を乗っ取ろうと人間の姿に化けて密かに暗躍しているのだ! そしてこれはオレが開発した金星人抹殺ロック! この曲で、オレがこの町に潜む邪悪な金星人を根絶やしにしてくれる! 安心してくれ、君たちの未来はオレが守ってやる!」
ジロウは男の子達の目を見ながら言った。その顔は真剣そのものだ。
「あ、え、あの、僕たち帰ります!」
「うわあああああ!」
男の子二人は一目散に逃げ出した。ハジメはそれと入れ替わりに、もっと早く合流しなかったことを後悔しながらベンチに駆け寄った。好奇心に負けて早く合流しなかったばかりに子供達にトラウマを植え付けてしまったかもしれない。
「遅くなってすまん」
ハジメはジロウと、すでに走り去ってしまった子供に対して謝った。
「ああ、気にするな。子供達に金星人の恐ろしさを説いていたのだ。オレたちがもうすぐ助けてやるともな」
「お前、それやめたがいいよ……まあ、いいか。じゃあ行くか」
ハジメとジロウは並んで自転車を走らせた。ジロウは背中にいつもより大きなギターケースを背負っている。中身は先ほどのアコースティックギターだ。
「マサヨシは?」
自転車をこぎながらジロウが言った。
「なんか急用できたってさ。それより付き合ってもらって悪いな。俺の練習なのに」
ハジメが答えた。
「気にするな、オレも練習になるしな」
ジロウがいつもの半笑い顔で答えた。二人は待ち合わせ場所の公園から防波堤沿いの道へと向かっていた。昨日犬塚さんから聞いた練習法を試す為だ。
ハジメは磯の臭いが近くなってきたのを感じた。すぐに防波堤が見えてきた。二人は防波堤沿いに適当に自転車を駐めた。
ハジメがあたりを見回すと、ポツンと立っているボロボロの自販機が目に入った。潮風と日光にさらされ続けて色あせている。
「そういや飲み物買ってなかった……あれ動くかな」
「いや、どうだろうな……」
二人が近寄ってよく見ると、意外なことにボロボロの自販機は所々ランプが点灯していた。
「まあ、ダメもとで」
ハジメがおそるおそる小銭を入れてみると、商品のランプが点灯した。ボタンを押すと、ガコンと音がして冷えたスポーツドリンクが出てきた。
「マジかよ」
「マジか」
ジロウも驚いているようだった。ハジメは念のため賞味期限を確認したが、期限内であった。、ジロウもその自販機でコーラを購入してみたが、やはり無事に購入することができた。
二人は防波堤の階段を降り、浜辺側へと出た。浜辺は誰もおらずゴミだらけで、独特の悪臭が漂っていた。
たしかに誰も来そうにないし近くに民家もない、練習にうってつけの場所と言えそうだった。悪臭さえ我慢すればの話だが。
「ウゲー」
「ウゲーだな、やめるか?」
ジロウが悪臭に顔をしかめながら言った。
「いや、やろう。すぐ慣れるさ」
ハジメも悪臭に顔をしかめながら言った。そして互いにしかめた顔を見合わせて、思わず吹き出した。
「よし、やるか」
「よーし」
ハジメとジロウはそれぞれギターを取り出した。
「俺、持ってこなくてよかったかな」
ハジメはジロウのアコースティックギターと自分のギターを見比べながら言った。ここには当然ながらアンプなんてものはない。室内ならいざ知らず、海辺でエレキギターを生音でかき鳴らしたところで全然聞こえないだろう。
「いや、ほとんど聞こえないかもしれないが、持って練習したほうが良いだろう。持った姿勢で歌うのになれた方がいいだろう」
ジロウが答えた。ハジメは確かにその方が練習になる気がして、ギターを持って弾きながら歌うことにした。ジロウは確かに言動におかしなところはあるが、ギターや音楽の話に関しては説得力を持っていた。その点に関してハジメはジロウを心底頼りにしていたし、尊敬すらしていた。
「そうだな。そうするよ」
ハジメが言うと、ジロウはアコースティックギターをジャッと鳴らして答えた。ハジメはそのあまりにも格好つけた返事を、不覚にも痺れるほど格好良く思ってしまった。この男は金星の妄想さえなければ格好いいのだと改めて思った。
ジロウはハジメにアイコンタクトを送ったのち、ギターのボディを軽く四回叩いてカウントをとるとバンドで練習中の曲のイントロを弾き始めた。夕暮れの海で聞こえるアコースティックギターの音色は、同じ曲のはずなのにスタジオで聞いたエレキギターの音色とは全然違った印象だ。ハジメはギターに合わせ、海に向かって歌い出した。
歌い出してハジメは、まるで自分の声が周りの空気に吸い込まれているような気がした。犬塚さんの言った通り、まったく響かない。
マイクやスピーカーがないばかりか、密閉された部屋と違って音を反射するものがなく、歌声が全て散ってしまう上に、波の音や風の音が想像以上に大きくどれだけ大声を張り上げても全然足りなかった。
一曲歌い終わり、ハジメはジロウの方を振り返って言った。
「海、すごいなー。こんなに響かないとは」
「ああ、犬塚さんの言う通りだな」
ジロウは答えると、コーラを開けて一口飲み、むせた。ハジメもスポーツドリンクを開けた。喉がカラカラだった。確かに練習にはなりそうだが、こんな歌い方をしていては喉が持たない。喉に負担をかけずに声量を出す歌い方も聞いておくべきだった。ハジメがそんなことを考えていると、それを察したのかジロウがぽつりと言った。
「オレはボーカルは専門外だが、よく腹から声を出せって聞くな」
「腹からか……どうすればいいんだろう」
「腹式呼吸とか、よく言わないか。鼻から吸って口から出して……腹を意識して……とかなんとか」
「鼻からか、うーん」
ハジメは腹の動きを意識しながら、鼻から空気を吸い込んで口から吐いた。確かになんとなく、いつもより、力が入った気がした。
「よし、意識しながらやってみる。もう一回頼む!」
「任せろ」
ジロウが再びギターのボディを叩いてカウントを取り、イントロを奏で始めた。ハジメはゆっくりと、鼻から浜辺の臭い空気を吸い込んだ。
「どうだ」
ハジメが歌い終えた後、ジロウはポロポロとギターをつま弾きながら尋ねた。
「うん、なんとなく力が入る気がするし、声も出る気がするけど」
「けど?」
「すげー臭い」
ハジメの返事を聞いて、ジロウは声をあげて笑った。ジロウがこんな風に笑っているのをハジメは初めて見た。ジロウは思ったほど変な奴ではないのかもしれないな、とハジメは思い、なんだか嬉しくなった。
それからも暇な放課後に、二人の海辺の練習は数回行われた。その度にジロウは笑い、ハジメは磯臭さに慣れていった。
4
土曜日、夕方。ハジメはギターを背負い猛スピードで自転車を漕いでいた。朝からいてもたってもいられず、一人で合奏のイメージトレーニングに没頭していたら予約していたスタジオの時間ギリギリになっていたのだ。
オオハマ楽器が見えてきた、すでに二台の自転車と一台の原付が並んでいるのが見える。犬塚さんのバイクもある。ハジメもその横に乱暴に駐輪すると、自転車に鍵もかけずに店内に飛び込んだ。
「あ、ハジメくんきた。もうみんな上のスタジオだよー」
カウンターから犬塚さんが声をかけてきた。
「ありがとうございます!」
ハジメは礼を言いながら二階へ駆け上がりスタジオへ飛び込んだ。スタジオに入ると、すでにメンバーたちは全員揃っていた。
「ハジメ! やっときたか! 金星人に拉致されたのではないかと心配していたぞ!」
ジロウだ。その表情は遅れてきた事を責める顔ではなく、まるで今まで本気で心配していたような、安堵の表情だった。
「あ、ああ。ごめん」
ハジメは荷物を置きながら、ふとスマートフォンの画面を見た。
「うわっ」
そこにはミツコとマサヨシから一度ずつ、ジロウからおびただしい回数の着信があったことが通知されていた。ハジメは少しゾッとしつつも遅れたことを反省した。練習で取り戻さなければ。
ハジメはギターをアンプに繋ぎ、ジロウが作ったメモ通りツマミをいじり、音の設定を終えた。マイクはすでにセット済みだった。おそらく先に来たジロウたちがやってくれたのだろう。
「よし、おまたせ。やろうぜ!」
合奏のイメージトレーニングはバッチリだ、発声練習の成果も見せる時だ。
「じゃあ行きますよ! ワン、ツー、スリー、フォー!」
マサヨシがスティックを四回打ちつけながらカウントを取った。合わせる、合わせるぞ、今日こそいける。ハジメは自分に言い聞かせながらギターをかき鳴らした。そして数小節の後、ハジメは再びライブステージの幻を見ていた。
幻の中の観客があげる大歓声の中、曲が終わった。
「ありがとう!」
ハジメは幻の観客に向かって叫んだ。
「……全然ダメね」
ミツコの一言でハジメは我に返った。また、やってしまった。いつの間にか自分の世界に入っていた。これでは前回と同じだ。
「あー……」
ハジメは頭を抱えた。自分以外のメンバーはどうだっただろうか、それだけでも確認するべきだ。ハジメはそう思い、床に置かれたハンディレコーダーを見た。するとその横に見慣れた顔が座っていることに気がついた。
「やっほー、やっと店長きたから店任せて見にきたよ」
犬塚さんだ。演奏の最中にいつの間にか入ってきたらしい、妄想のライブの光景を見ていたハジメは全く気がつかなかった。
「見てたんですか、今の……」
「うん。いやーハジメくんは楽しそうでいいね、楽しそうにやるってのはなかなかできることじゃないよ。うんうん、『ありがとう!』なーんて叫んじゃって、ライブみたいで良いね。声もよく出てる。練習したかな? あとは前言った通り、周りの音をよーく聞けばもっと良くなると思うよ」
ハジメはどうやら褒められたらしいことを自覚し舞い上がろうとしたが、徐々に今の演奏を第三者に、それも犬塚さんに見られていたことを意識し、それが急に恥ずかしく思えてきた。
妄想の中では何度も何度も大勢の観客の前で演奏してきたハジメだったが、実際に第三者に生で演奏を聴かせるという行為は、これが生まれて初めてだった。
人前で演奏、人に見られながら演奏、改めてそう意識すると、ハジメは急に緊張で体が硬くなってきた。実際人が前にいるだけでこうも緊張するものか、と思った。
「よし、合わせるのはさておき、とりあえずハジメの発声練習の効果は多少あったみたいだな。犬塚さんもきたし、もう一度やるぞ。準備はいいか……ハジメ、おい、ハジメ!」
ハジメはジロウの呼びかけで我に返った。
「あ、ああ、準備はいいけど、ちょ、ちょっと待って」
「どうした……まさか本当に途中で拉致されて、金星人に何かチップでも埋め込まれたのではないだろうな」
「いや、大丈夫、大丈夫。あっ」
緊張で震えるハジメの手からピックが床に落ちた。拾おうとしてしゃがむと、床に座っている犬塚さんと目があった。
「がんばれー、見てるからさ」
犬塚さんはニコニコ笑いながら言った。ハジメはぎこちない笑顔を返し、心の中で「見てるから困ってるんですよ!」と叫んだ。
ハジメは目を閉じて、ため息のような深呼吸をした。そして自分に言い聞かせるように頭の中で唱えた。「大丈夫だ俺、いつも妄想では人前で演奏してるじゃないか。気にするな。そして今度は一人で突っ走らないで周りの音をよく聞く!」ハジメは頭の中で数回繰り返し、目を開けて振り返りメンバーを見渡した。
ジロウとマサヨシは緊張なんてどこ吹く風で、むしろ観客が一人いることでやる気に満ち溢れていた。ところがミツコに目をやると彼女もハジメ同様、いやそれ以上に、目に見えて緊張していた。
「いっ……、いいい犬塚さん見に来るなんて……聞いてないんだけど……」
ミツコは小声でハジメに訴えた。ハジメを睨む目が少し潤んでいる。ミツコも案外、緊張に弱いタイプなのかもしれない。
「ああ、ごめんミツコさん、言い忘れてた……」ハジメが震える小声で返した。
「大丈夫大丈夫、ミッちゃん上手いから緊張しないで」
「よっ、余計プレッシャーかけないでください……!」
犬塚さんはミツコの様子を見てケラケラと笑った。
「ええい……やるよ! よっ、ヨシくんカウント!」
ミツコの一声でマサヨシがスティックを四回打ち鳴らした。
「げっ、やべっ」
まだ心の準備ができていなかったハジメは、最初の音に乗り損ねてしまった。しかし皆は演奏を始めている。ハジメは焦ってしまい、なかなかリズムに乗ることができなかった。
しかしこの時、ハジメは自分が今「周りに合わせようと」必死になっていることに気がついた。好き勝手に演奏して気持ちよくなっていた時とは明らかに違う、曲に入るタイミングを間違えたことで、自分が周りに合わせて、メンバーの作り出すリズムに後から乗ろうと必死になっていること自覚した。
「しっかり周りの音を聞くだけでずっと良くなるはずだよ」
ハジメは犬塚さんの言葉を思い出した。まずハジメの耳はジロウのギターを捕まえた。そうだ、考えてみれば、海辺の練習では海風の中でもジロウのギターが聞こえていたじゃないか。それと同じだ。そう思った瞬間、ハジメの耳はそのギターの下でうねるミツコのベースを捉えた。それとほぼ同時に、ベースを支えるマサヨシのドラムを完全に耳で捕まえた。そして、完全にずれている自分のギターも聞こえる。犬塚さんはなんと言っていたか……。バスドラムだ、マサヨシのバスドラムの音を捕まえろ。ハジメはちらりとマサヨシを見て、その体の動きに合わせて全身でリズムを取った。一瞬マサヨシと目が合い、マサヨシがニコリと笑ったのが見えた。
「よしっ」
ハジメはようやく曲のリズムを全身で捕まえ、自分もそれに飛び乗った。ギリギリでイントロが終わり、歌に入る。ハジメはマイクへと向き直り、歌い始めた。
そこにはいつもの妄想ライブの光景はない。目の前にはオオハマ楽器のスタジオの風景。床に置かれたハンディレコーダーと、その隣に体育すわりしている笑顔の犬塚さん。右を見ればミツコが緊張気味にベースを弾いており、左を見ればジロウが揺れながらギターを弾いている。ちらりと後ろをみるとマサヨシがスタジオ備え付けのボロのドラムを笑顔で叩いている。
それぞれが互いの音を聞き、ようやく一つの音楽を作っていた。それはいつものハジメの妄想の中での演奏よりはずっと下手くそな演奏だったが、これまでのスタジオ練習よりもずっとずっと楽しい演奏だった。
曲も終盤、後奏に差し掛かる。ハジメの緊張はいつの間にか溶けていた。ハジメは振り返り、マサヨシを見た。ハジメは曲の最後の瞬間のタイミングを見計らってジャンプし、マサヨシがクラッシュシンバルを叩くと同時に着地しながらピックを振り下ろした。
一瞬後、残響音が消え、スタジオが無音になった。
ふと隣をみると、ジロウもハジメとほぼ同じポーズで止まっていた。目が合い、二人はどちらからともなく声を出して笑った。二人の様子に気がついたミツコも、二人を指差して笑った。マサヨシは始終笑顔だった。
やがて拍手が聞こえてきた。妄想の観客のものではない。犬塚さんだ。輝くような笑顔で拍手をしている。
「すごーい! 見違えるじゃん! 出だしちょっとトチってたけどその後はだいぶ良かったよ! こないだの録音のやつよりずっといいよ!」
「ありがとうございます! 犬塚さんのおかげです!」
ハジメはマイク越しに礼を言った。実際、この進歩は犬塚さんのおかげだ。
「ハジメくんかっこよかったよー! ほれほれ聞いてみ、良くなってるから。あれジロちゃんこれどうやって止めんの」
ジロウはギターをスタンドに下ろしてハンディレコーダーに駆け寄った。そしてすぐにミキサーに接続し、再生ボタンを押した。
演奏前の会話が少し再生された後、ハジメたちの演奏が流れ出した。改めて聞くまでもなく、出だしのハジメはひどく失敗していた。ここだけ聴くならば前回の練習よりも酷いと言える。しかし、イントロから歌に入った瞬間雰囲気が変わった。まるでずれていた歯車がぴたりと噛み合ったような、ハジメはそんな印象を受けた。それは上手な合奏とは言えないまでも、しっかり『音楽』として成り立った演奏になっていた。
「すげぇ……」
ハジメは思わず口に出してつぶやいた。
「すげぇ! 音楽になってる! バンドみたいだ!」
今度は大声で叫んだ。夢だったバンド演奏が、ようやくここにしっかりと形になっていた。
「バンドみたいっていうか、バンドだよ」
ミツコが笑いながら言った。
再生が終わり、スタジオに静けさが戻った。
「ようやくなんとか、一曲形になったね……イントロ以外」
腕組みをして聞いていたミツコはホッとした表情でハジメを見た。
「俺やっとわかった気がするよ、合わせるって事」
ハジメは笑顔で答えた。
「僕も、前よりずっと気持ちよかったです!」
マサヨシも目を輝かせて言った。
「これだ、これこそロックの! ロックバンドの音楽だ! ククク……ついに手に入れた! オレたちの勝利は近い! 見ていろ金星人ども! ハハハハハ!」
ジロウが興奮気味にまくし立てた。
「さあ! もう一度だ! 今度は頭からしっかりたのむぞハジメ!」
「よし、まかせろ!」
ハジメはギターを構えた。それを見て、マサヨシがカウントを入れる。それからハジメたちはスタジオの予約時間いっぱい、一曲しかない持ち曲を何度も何度も練習した。
5
「お疲れ様ァ、ウェッヘッヘッヘッヘ」
「うわああああ!」
ハジメは驚きのあまり階段を踏み外しそうになった。オオハマ楽器の二階スタジオから降りてきたハジメたちを出迎えたのは、不気味な見知らぬ老婆だった。
「あんたが山葉君かい、じゃああんたが川崎君とねェ。ウェッヘッヘッヘッヘ」
「は、はあ……」
ハジメは見知らぬ老婆に名前を当てられてひどく驚いた。なぜこの老婆は自分の名前を知っているのだ、確かに神通力でも持っていそうな風貌だが。まさか、こいつがジロウの言う金星人だろうか。テレパシーで俺の脳を読み取って……そんなわけがあるか。ハジメは、自分の思考が少しずつジロウに毒され始めていることに気がついて、ため息をつきながら肩を落とした。
「ヨーダ……」
マサヨシがぼそりとつぶやいた。確かに老婆は、スターウォーズに登場するヨーダにそっくりだった。
「あ、店長お疲れ様でーす」
二階から最後に降りてきた犬塚さんが老婆に挨拶した。店長、ということはこの老婆がここオオハマ楽器の店長だったのか。
「なんだ、お前もスタジオ入ってたのかい。お前も払うんだよ、スタジオ代二時間分」
「そんな! アタシ見てただけだって!」
「うちは見学も金とるんだよ、ウェッヘッヘッヘ」
犬塚さんはハジメたちに混ざってしぶしぶスタジオ代を払った。オオハマ楽器の二階スタジオは一人当たり一時間五百円。二時間入ると一人あたり千円と高校生には少し厳しい価格だ。
犬塚さん曰く、他の一般的なスタジオは一時間あたり一部屋いくらといった様に入った人数に関係なく、部屋単位で料金が付けられているらしいが、オオハマ楽器は昔からこうなのだそうだ。少なくともこの街には他に貸しスタジオはなく、他にスタジオの選択肢はなかった。
あまり頻繁にスタジオに入っていると、あっという間に小遣いがスッカラカンになってしまうだろう。一回一回の練習を大事にしなければならない。ハジメは少し薄くなった財布をポケットにしまいながらそのようなことを考えていた。そのため、再び眼前にヨーダのような顔が迫っていることに気がつくのが遅れた。
「それで、あんたがうちでエレキを買った山葉君。なるほどなるほどヘッヘッヘ」
「うわあああああ!」
いつの間にか眼前に迫っていたヨーダフェイスに驚きハジメは尻餅をついた。ヨーダ老婆店長はハジメのつま先から頭までをしげしげと眺めると、目を細めて不気味にニコリと笑った。
「どれ……うんうん、あんたはビッグになるよ。才能がある。今度はもっと良いギターを買いな、二十万円くらいの。すぐに上手くなるよ。そこの川崎君なんかすぐ抜いちまうさ。ウェッヘッヘッヘ」
「え? あ、はい。あ、ありがとう……ございます」
ハジメはヨーダ老婆から想定していなかった言葉をかけられて呆然としていたが、だんだん今この老婆は自分を褒めたのだということを理解してきた。とたんに、この老婆の言葉は適当なようでいて、実はやはり神通力かなにかを持っているような気がしてきた。
「じゃあ、あたしゃ帰るから、店仕舞い頼んだよ」
「え、店長もう帰るんですか! 何しに来たんですかもう!」
犬塚さんが全て言い終わる前にヨーダ老婆店長は外へ出て、店の前の軽自動車に乗り込みどこかへ行ってしまった。
「あの、今の人は……」
ミツコが妖怪でも見たかのような顔で犬塚さんに尋ねた。仕事を押し付けられてうなだれている犬塚さんに代わって、ジロウがそれに答えた。
「あの人はここの店長だ。名前は……なんだったか。とにかく店長だ。あまり店にはいないがな。怪しい人物だが、金星人じゃないから安心していいぞ」
「うん、それは心配してないけど……」
「悪い人じゃないんだが、金にがめつくてな。スタジオの料金システムもあの人の発案だし。まあ、ここで買い物した人間にはしばらく甘いぞ。さっきみたいにその気にさせてもっと高いギターを買わせようとする」
「え、今の誰にでも言ってるのかよ」
ヨーダ店長の言葉にその気になりかけていたハジメはガッカリしながらフラフラと立ち上がった。ジロウはハジメに肩を貸しながら続けた。
「オレも最初のギターはここで買って、しばらくは過剰なほど親切だったんだがな。このギターを手に入れてからは尋常じゃないほど冷たくなった。あれは金星人の洗脳を疑うレベルの変わりようだったぞ」
「なんだそりゃ。なんだよー、俺てっきり神通力みたいなので才能を見抜かれたのかと」
ハジメは脱力して奥の椅子にヘナヘナと座り込んだ。
「ハハハハ、いやーでもあながち適当なことばっかり言ってるわけじゃないんだよ、店長」
どこかから犬塚さんが缶のコーラを五本持って現れた。笑いながらそれをハジメたちに配ると、自分も口をつけた。飲みこむのに合わせて動く犬塚さんの白い喉を見ていると、ハジメは急に自分の口の中がカラカラに乾いていくような気がした。
「あ、ありがとうございます」
ハジメもプルタブを起こし、口をつけた。よく冷えたコーラだった。
「プハーッ、店長たしかにがめついんだけどさ。ハジメくん才能あるんじゃないのってのはアタシもそう思うし、良いギターの方が上手くもなるってのも、まあその通りではあるしね」
「そんな、才能なんて。みんなのおかげですよ!」
褒められ慣れていないハジメは犬塚さんに急に褒められて照れを隠しきれず、隣にいたジロウの背中をバシバシと叩いた。店長の件はすっかり忘れ、内心天にも昇るような気持ちだった。ジロウはコーラを飲んでいる最中に急に背中を叩かれたため、むせた。
「ゲッホゲホ、じゃあ、今日録音した分は後でメールで送るから、今日は解散するか。月曜に学校でこれからの方針を会議だ」
背中をバシバシと叩かれながらジロウは言って立ち上がった。
「わかりました!」
「了解……」
なにやら雑談していたマサヨシとミツコも立ち上がり、今日は解散となった。
その夜、ジロウから練習を録音した音声ファイルが添付されたメールが届いた。本文には『各自今日の感覚を忘れないように、戦いの日は近い!』と、書いてある。
ハジメはおそるおそる音声ファイルを再生した。やはり一回目の演奏と二回目演奏の出だしまでは酷いものだったが、二回目の歌に入ってからはしっかり音楽になっていることを実感できた。ハジメは目を閉じてエアギターを構えると、脳裏にスタジオの光景が蘇ってきた。
今日の感覚を忘れないように、周りの音を聞く感覚を忘れないように。手首を動かしながら、音声ファイルに集中した。やがて曲が終わり、気が付いたらハジメは部屋で一人決めポーズをとっていた。
『ハジメくんかっこよかったよー!』
ハジメが我に返った瞬間、ヘッドホンから録音された犬塚さんの声が聞こえてきた。ハジメは急にむず痒い気持ちになり、ヘッドホンをベッドに放り投げた。そして深呼吸したのち、もう一度ヘッドホンをつけて、音声を十秒前からもう一度再生した。
『ハジメくんかっこよかったよー!』『ハジメくんかっこよかったよー!』『ハジメくんかっこよかったよー!』
ハジメはこの部分だけを繰り返し何度かニヤニヤしながら聞いた後、急に恥ずかしくなり再びヘッドホンをベッドに放り投げた。
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