第22話 運命の日
運命の日なんていうものは、意外とすぐにやってくる。人の瞬く間に流れていく時間の中で、そんな運命の日は一体何度あるのだろう。そして、その運命の日に気付ける人は、どれくらいいるのだろう。
千秋はそんなことを考えて、隣で堅い面持ちで座っている善行を見る。広がる公園の中の、何を見ているのだろう。眼鏡の奥で、ぎらぎらと光る瞳は、見つめ続けたら吸い込まれてしまいそうだ。
いっそ、吸い込まれてしまえばいいのに。そうして、悪魔との契約も、何もなかったことになればいいのに。
そんな馬鹿なことまで考えて、ふっと笑う。もう、人形としての自分も、自由な自分も、今日で終わりだ。
なんたって、悪魔の書はあれだけ分厚かったはずのものを、後半のページがほぼない、歪な姿に変貌を遂げ、唯一残ったページにたどり着いたのだから。
つまり、もうすぐ悪魔に魂を捧げる時間だ。
「傷は、痛くないの?」
「不思議と、痛みはありません。魂を捧げる時に、痛みが来るのかもしれませんね」
腕から全身へと広がっていった無数の切り傷は、昨日までは寝るのも辛いくらい、痛みを伴ったというのに、今では全く感じなかった。悪魔の考えは分からないが、痛みを一気に集中させて最後を迎えさせるという、下種なことは想像できる。
「そっか。……ねえ。米倉さんは、幸せ?」
「どうしたんですか、突然」
「うん、聞いておきたいなって。僕と出会って、少しでも、楽しめたのなら、僕も無力じゃなかったってことでしょ?」
「そんなこと……当り前じゃないですか。私を助けてくれたのは、荒井先輩だけです。先輩が居なければ、私は何も知らないまま、死んでいた。少しの間でしたけど、本当に……ありがとうございました」
米倉千秋は既に、死を覚悟している。もうじき訪れるであろう悪魔の出迎えを、ただひたすら待つだけの時間。千秋は、それを不思議と落ち着いた心で待っていた。
思えば、善行と出会ってから色々な事があった。
お節介な彼が居なければ、今の自分はいない。結花という悪魔を知る少女とも出会うことがなかった。両親もきっと、不仲なままだっただろう。
米倉家の両親は、現在、仲がいいとはいかないけれど、それでもお互いが歩み寄っている。父も月に一度しか帰ってこなかったのが、今では三日に一度になってきた。このまま上手くいけば、二人はまた、一緒に暮らして、仲良くやっていける気がした。それもこれも、父が帰って来て、食卓を三人で囲むたびに、千秋が無邪気に笑っているのが大きい。
今まで人形染みた行動と表情ばかりだったために、娘の存在はかなり大きかったのだろう。
善行に出会えて、本当に良かった。最後の人生を、少しだけでも楽しく過ごせた。
「僕もありがとう。君に出会って、面白い経験が出来たよ。眼鏡をたたき割られるとか」
「ご、ごめんなさい……」
千秋が慌てて謝ると、善行はニッと笑っていたずらっ子の顔を浮かべた。無邪気なその顔に、千秋もホッとして笑う。なんだか、最後のこの時までこうして笑っていられるのが、不思議で、だけど心地よかった。
「その本、もらってもいいかな」
「いいですけど。……どうして?」
「皮肉だけど、君が居た証は、この本が証明してくれる。だから、僕が持っていたい。……ダメかな?」
「いえ。私も、先輩に持っていてほしいです」
千秋は、そっと本を渡すと、立ち上がる。滑り台やブランコが遊んでもらえないことに悲しんでいるように思えて、少しだけ寂しくなった。
夕方だというのに、夏の暑さにやられているのか、子供の影はいない。小さな公園には、二人だけが、存在していた。
前だけを見て、そして、訪れる最後の瞬間を待つ。後ろでごそごそと音がして、少しだけ振り返ると、善行が本に何やら書き込んでいた。
「先輩?何、してるんですか?」
「いや。何でもないよ」
善行は誤魔化すように笑うと、さっと本を閉じた。そして、その瞬間だった。
夕暮れの景色が、一気に暗雲が立ち込め、夏の暑さに似合わない、ひんやりとした空気を帯び始めた。
衝動で善行も立ち上がって、周りを見渡す。千秋は毅然とした態度で、目の前に現れるであろう、あの忌々しい存在を待ち。
やがて、それは姿を現した。
「悪魔……」
それを間近で、しっかりと見るのは初めてだった。
そこいらの一軒家よりも大きい身体、避けた口、尖った耳。真っ黒な目は感情が読めず、その異形の見た目は、まさしく悪魔だった。
『迎えに来たぜ、女』
「……待ってたよ」
千秋は、恋い焦がれた、とでも言うように大袈裟に腕を広げると、悪魔が近づくのを待った。次第に全身がピリピリと痛みを伴い始めて、やはりこれが狙いだったのだと悟る。どうせ、死ぬのだから何も変わりはしない。千秋は気にせず、ただただ、待ち続けた。
のっそりとした、緩慢な動きで近づく悪魔を、善行は後ろで見守っていた。歯を噛み締め、その瞬間を待つ。
そして、悪魔と千秋の影が重なる瞬間に、善行は大声を張り上げた。
「待て!」
次いでポケットからライターを取り出した善行は、本を片手に、火を灯す。声につられて振り返った千秋は、その様子に、ふっと自嘲気味に笑った。善行が悪魔より先に千秋の命を奪おうとしている。
「どうぞ。……先輩に手をかけられるのも、いいかもしれません」
全てを悟ったように言った千秋に、違う、と叫んだ善行は、本に火をつける。
じわじわと燃えていくそれは、暗闇の中で、一筋の希望のように思えた。しばし、悪魔も、千秋もそれに見入る。
『俺に女の魂を喰わせるなら、殺した方がマシだってか?』
「違うと言っている。……見ていろ、これが僕の考え抜いた答えだ」
それは、善行の、絶対に千秋を救うと考えた決意の表れだった。次第に広がる炎の塊を彼は地面に投げ捨てると、ニヤリと笑う。やがて眼鏡を取り、それすらも捨てると。
善行の身体が、炎に包まれ始めた。
「先輩ッ!」
「だ、いじょうぶ。運命は、かえ、られ、る」
千秋は悲痛な声をあげながら善行に近づくが、彼がそれを許さない。渾身の力を込めて善行は後ずさると、太陽を直接触ったかのような熱さに身もだえしながら後ずさる。
「ああああああああああ」
「先輩、やめて、やめてください!」
どうすればいい。悪魔と契約したのは千秋だというのに、燃えているのは善行だ。どうして、こんなことに。死ぬのは、千秋のはずだったのに。
思わず悪魔を振り返ると、彼は地獄を這いずるかのような声で笑っていた。
『ククッ……。あの本に細工をしたのか、あいつ』
「どういうことよ!」
『俺が攻められるのはお門違いだなァ。奴は、最後のページに自らの名前を血で書き足したのさ。米倉千秋の魂を捧げろ、を』
――荒井善行の魂を捧げろ、に。
変えた?
さきほど何か書いていたのは、それだというのか。しかも、血で?
「契約が、先輩に変わっているってこと……!?」
いや、そんなことを推測している場合ではない。彼を、助けなければ。
千秋は慌てて混乱する思考回路を修正して、公園内を見渡す。咄嗟に見つけたのは、誰かが置き去りにした砂場用のバケツ。
走ってそれを掴み、手洗い場の蛇口を壊れるほどに捻ると、水を張る。
早く、早く。
そんな焦る気持ちを抱える中、悪魔は上空をたゆたい、未だ笑っている。
『血っていうのは、俺たちにとって甘美で絶対的なものだ。考えたな、奴も』
『しかし、程よく絶望した魂じゃないと俺はいらないんだ。ああ、とんだ無駄足だ。面白いものを見せてもらったが、さっさと魂を喰ってしまえばよかった』
『あんな真っすぐな魂、マズくて喰ってられるか』
辺りを木霊させるその声は、次第に遠のいていき、茜色が巻き戻っていく。そんなことにすら気づかない千秋は、バケツの水を目いっぱい張ると、捨てられた本に浴びせる。幸い、地面にそこまで炎が移っておらず、火事の心配はなさそうだった。
いつの間にかベンチの脇で身をよじって灼熱に耐えていた善行は、声を上げる気力もないのか、ひたすらに奇妙な動きを見せるばかりだ。
「先輩、待っていてください!」
本に広がった炎はほぼ消えた。炭となり果てたそれは、もはや原型をとどめていない。唇を噛み締めながら、千秋は一一九番にかけた。
焼けただれた肌は、どうしようもなく真っ赤で、それは夕暮れ色に混じっていきそうだった。
そんな中、善行は、ただただ笑っていた。
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