第21話 傷
次の日の土曜日、善行は何気ないように、生徒会の仕事が終わらない、手伝ってくれないかと千秋を学校に呼び出した。
雨雲を全く見かけない空に、太陽の眩しい主張が目立つ中、善行は生徒会室で、千秋をじっと待っていた。
気温差にやられないよう、冷房を緩め、ただただ、彼女がやって来て、これから明かす事実をちゃんと受け入れられるように、心構えをしておく。
千秋からは当然のようにすぐに行きますと連絡が来て、何も知らないであろう少女は、ここに向かっている。
果たして、昨日梶から聞いたことをどう説明するべきか。いや、きっと千秋は何かしら気付いているはずだ。腕に無数の傷が広がっているというのに、何も知らないふりを続けられるわけがない。
なら、善行はどうやって聞きだせばいいのだろう。
きっと千秋は、善行に心配をかけまいと黙っていたんだろう。わざわざ長袖を着て、日焼けが嫌だからと嘘をついて。その気遣いを、善行が壊してしまっていいのだろうか。何も知らないふりをして、そのまま解決の糸口を見つけた方がいいのではないか。
でも、どうやって?
結局、考えることは全てが堂々巡りで、一人で悩んでいては、頭を抱えるばかりだった。
そうこうしているうちに、廊下から足音が聞こえて、善行は慌てて佇まいを直す。
ノックの音が聞こえて、その後、ゆったりとした動作で入ってくる小柄な少女。最近では見慣れた長袖の制服を見つめて、その下に広がるものを想像すると、善行は顔をしかめた。
「おはようございます」
「おはよう。……ごめんね、急に呼び出しちゃって」
「いえ、全然。むしろ助けてもらっているんだから、協力できることはさせてください。私は、何をすればいいですか?」
机の上に何も広がっていないことを確認した千秋は、首を傾げて仕事が与えられるのを待つ。素直なそれに、善行は少しだけ心を痛める。やはり、ここはちゃんと話し合って、彼女と向き合おう。そのつもりで呼び出したのだから。
善行は、一度深呼吸すると、意を決して千秋を横に座らせ、口を開く。その真剣な顔に、何かを悟った彼女も、きゅっと口を引き結んだ。
「ごめん。生徒会の仕事っていうのは嘘なんだ。実は、君に聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「……うん。ねえ、どうして君は、長袖に変えたの?本当に、日焼けを気にして、なのかな」
「そんなの、当たり前ですよ、先輩。女の子は、そういう一つ一つのケアが大事なんですから」
そういう千秋の顔は、あまりにも引きつっていて、かつての人形らしさは何処にもない。本当は、感情を抑え込むのが苦手な子なんだ。そんな些細なことを、今、気づいてしまう。
「嘘はつかなくていいんだ。僕は……。昨日、夏祭りで悪魔の書を見つけて、怯えていた人と話をしてきた。その人に聞いたんだ。ページを破るたびに、身体中に傷が広がっていくって」
「ッ……。じゃあ、知ってたんですね」
「知ったのは、昨日、だけど。その反応だと、やっぱりそうなんだね?」
優しい声音で問うと、千秋は気まずそうに頷いた。優しい少女は、本当はずっと隠していたかったんだろう。
善行は、思わず彼女の腕を取って、袖をまくろうとする。その下に、本当に傷が広がるのなら、治すことはできるのか。どんなふうに広がっているのか。
単なる好奇心に、お節介の感情が加算された、厄介なそれに突き動かされるまま、善行は手を出す。だが、咄嗟に千秋が手を引いた。
「やめてッ!」
室内に響き渡る怒鳴り声。千秋の声だと気づいたとき、善行はハッと意識を取り戻したように、慌てて自身の手を引っ込めた。自分はなんてことをしようとしていたんだ。
傷だらけの身体を見られるなんて嫌に決まっているだろう。梶のように、終始肌を隠す人の気持ちが、どうして汲み取れない。千秋だって、見られたくないから、長袖を着ているというのに。
「ご、ごめん」
慌てて謝ると千秋は一歩引いたまま首を振った。自分でも、大きな声を出したことに罪悪感を感じているのか、表情は暗かった。
と、そんな時。
タイミング悪く、千秋の鞄の中から淡い光が漏れる。
二人が幾度も見たそれは、悪魔の命令が下る瞬間だ。
千秋は当然のように、鞄から分厚い本を取り出すと、迷わずページを破った。善行が止める暇すら与えず、だ。
破った瞬間、僅かに悲痛な顔色を浮かべたのは見間違いではない。傷が増えた瞬間だった。
「米倉さん、このままじゃ」
「歩けないくらい、傷に犯されてしまう。分かっています。……でも。でも!このままおめおめと命令を聞き続けるわけにはいかないんです!」
千秋は、叫んでいた。いつもの落ち着いた雰囲気は取り払われ、まるで駄々をこねる子供のように、嫌だいやだと首を振って。善行を戸惑わせた。
「やっと手に入れた、自由の時間なんです!傷が増えようと、私は命令を無視したい!もうあんな生活は嫌!」
「米倉さん、落ち着いて。それは分かっている。でも、君はこのままじゃ、本当に死んでしまうんだ。最後のページを破ったって、魂はそのまま悪魔に差し出されてしまうかもしれない。だから、破るだけじゃなくて、何か他の方法を見つけないと」
見たところ、先ほど千秋が開いていたページは、かなり後ろの方だった。もうじき最後のあのページにたどり着く。当然、破れば破るほど、死は近づく。つい最近まで、全てのページを破れば契約は消えて、万事解決だと思っていたその行為は、ただただ千秋の首を絞めているだけだったのだ。
それでも千秋は何も聞きたくないとでもいうように耳を塞いで、善行の言葉をまともに聞こうとはしない。
「ずっと、黙っていようと決めたのに。どうして知ってしまうんですか。……そもそも、私をどうして助けたんですか」
「それは。……君と、結花が重なって見えたから。……本当に、ごめん」
「とんだお節介男ですもんね、先輩は。ただそれだけの理由で、自らも危険にさらすのだから。……だからこそ、私は貴方に惹かれてしまったのかも、ですけど」
ぼそぼそと呟く言葉はあまりにも小さすぎて、善行には届かない。千秋は一つの決意をすると、善行に言いきった。
「先輩。私は、もうじき死にます」
「諦めるのか!本当に、それでいいの!?探せば方法はまだあるかもしれないよ、だから」
「もう、いいんです。私、これ以上先輩に迷惑はかけられない。傷の事も黙っていようと思っていたのに、知られてしまったし。それに、決めた事ですから」
「でも」
「先輩、最後のお願い、聞いてもらっていいですか?」
千秋の言う顔に、嘘偽りのない決意が現れていることに気付いた善行は、そのお願いを、断ろうと思った。彼女の意思を無視してでも、助けてやろうと思った。
だから、彼女のこれからの言葉は、全て、善行の心の中で、泡のように弾けて消えた。
「私はもうじき死にます。だけど、決して意味のない人生だったと言わせません。私を救ってくれた、先輩にだからこそ、見ていてほしい。どうか、私が死ぬときは。……傍で見ていてください」
「……もちろん」
完全に空返事で、千秋の意思を無視した善行は、心の中で、別の事を決意していた。すなわち、彼女を絶対に生かす。
お節介と疎まれてきた男の底力、見ていろ。
そうしてここに、絶対に死ぬと決意した少女と、絶対に生かしてやると決意した少年が、生まれた。
残りの数ページは、運命の時間を着々と刻んで。
少女の命は、後二日も残されていなかった。
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