第20話 夢だった

「何から聞きたいのですか」

夕方、五時半頃。行きつけの書店の向かい合わせにある、喫茶店で束の間の休息を得ていると、唐突にそんな声が降って来た。

開口一番にそんなことを言って、善行を見下ろしているのは、目元以外をほとんど露出させていない男、梶だった。

ついに来たかと思う反面、人が本を読んでる途中、いきなり挨拶もなしにそんなことを言ってくるあたり、よほどの常識外れか怒っているのか、どちらかだろう。きっと後者だなと予想をつけた善行は、それでも穏やかに目の前の席に座るよう、視線で促した。

そして、コーヒーの追加をしようと店員を呼びかけると、即座に座った梶が遮って、注文を取り付ける。

「ホットチョコレートで」

こやつ、見かけによらず甘いもの好きか。

「以前本で読んだのですが、ホットチョコレートには、マシュマロを入れると美味しいらしい。試されますか?」

「いえ……。聞いただけで胸焼けしてくるので遠慮しておきます」

「そうですか。残念です」

梶は落ち着いた様子で鞄からマシュマロを取り出すと、テーブルの上に置いた。持参済みなのか。というより、この店は持ち込みが許されるのか疑問だが、目の前であまりにも堂々と出されると突っ込みづらい。

「実はずっと試してみたくて」

「甘いものがお好きなんですね」

「それなりには」

いやいや、ホットチョコレートにマシュマロはそれなりってレベルじゃないだろう。善行は甘いものを好んで食べないため、余計に珍しく見えてしまう。世の中には変わった人もいるものだと一人納得した善行は、あえて脱線させた話を終わらせ、本題に入ることにした。

「何から、と言いましたね。貴方の知っていること、全てを教えてください。……そうですね、まずは貴方の事から」

「ああ。そういえば自己紹介がまだでした。……俺は、梶美樹也と言います。貴方の言う通り、若い頃、悪魔と契約した人間です」

やはりその名前を聞いたことがあるような気がして、しかし思い出せない。善行はもやもやしつつも質問をすることにした。

「ですが、契約したが最後、死ぬまで命令を聞き続け、果てには魂を捧げなければならないのでしょう。どうして、逃れられたのですか」

「貴方は、逃れられた俺が、今、幸せそうに見えますか?」

善行はそう問われ、ぐっと押し黙る。梶の容姿、雰囲気、話し声のトーン。それらは、人を見る目がなくたって分かる。彼は、とても幸せそうに見えない。ほぼ初対面だというのに、それだけは見て取れる。今もなお、目の前で発される負のオーラが、善行にはたまらなく感じ取ってしまえるのだ。

「ほら、見えないでしょう。俺はね、昔、どうしても叶えたい夢があったんです」

「夢?」

「そう。野球選手になることです。夢見がちな俺は、それはもう、毎日のように練習しましたよ。だけど、突然肩を壊してしまって、投げられなくなったんです。それで、夢を諦めざるを得なくなった」

やがて店員がホットチョコレートを手にやって来て、梶の目の前に置く。ほのかに香る甘いそれに、梶は無表情でマシュマロをとぽん、と投げ入れると、一口すすった。こんな時ばかりはマスクを外すのかと思いきや、マスクの下からカップを口につけるという器用さを見せつけ、梶は話を続ける。

「そんな時です。悪魔が契約を持ちかけてきたのは。肩を治してやる、と。当時の俺は、そのことになんら疑問も覚えず、契約をしてしまいました。それがどんなに愚かな事か、知らずにね」

「それで、野球は続けられたんですか」

「最初はね。悪魔の命令を聞きつつも、何とか続けられた。だけど、途中で俺は、ダメになった」

「ダメに、なった?」

言葉が抽象的すぎて、善行は首を傾げた。梶はマスク越しに口をもごもごとさせて、言いにくそうに視線を彷徨わせる。そして、それでも決意したかのように目を見開くと、続けた。

「悪魔に、野球が全くできない身体にさせられたんです」

「どういう、ことですか」

「最初は、足からでした。少しずつ、走るのが遅くなって、ボールに追いつくのが困難になりました。次に、握力が目に見えるほど低下して、ボールを投げても全く飛ばなくなりました。野球には、動体視力も必要なんですが、それすらも、全く働かず、ボールが追えないようになりました」

「そんなのって!」

「ええそうです、酷いですよね。しかも、身体が機能しないのは野球をするときだけなんです。まるで、野球自体を俺自身が拒んでいるかのように。俺は、辛くて辛くて、毎日泣き叫んでいました。でも、契約の願いは、肩を治すことだけ。その後、悪魔がどう動かすかなんて、勝手なんです。だから、当時契約した時の俺は、あまりにも浅はかでした」

「今契約している子も、そうやって悪魔に裏切られていました。……それが、やり口なんですね」

千秋は両親と離婚を取りやめてもらったが、その後別居をしてしまうという事実上の離婚に追い込まれた。悪魔は甘美な言葉を囁き、そして絶望の淵に落とすのが鉄則だと梶も頷く。だからこそ、油断できない。一筋の希望が見えても、それに期待してはいけない。その先には、罠がある。悪魔に絡めとられた時が、最後だ。

梶はそう語ると、一息ついて、またホットチョコレートを口に運んだ。善行もつられてコーヒーに手を伸ばし、そして、はた、と気づく。

「でも、聞いてください。悪魔の書に書かれたことを無視すると、強制的に行動させられますが、ページを破ると無効になることが分かったんです。今、それで凌いでいるんですが知ってましたか」

そう言うと、梶はカップをガンッ、と割れんばかりに置き、善行を睨んだ。突然怒り出した彼に内心で怯えつつも、善行は平静を装い、どうしたんですかと問いかける。

すると彼は、どすの効いた声で、善行を非難した。

「希望が見えても、期待してはいけない。その先には罠がある。今言ったばかりですよね。忘れたんですか。それとも、馬鹿なんですか」

「いや、でも。何事もなく、彼女は暮らせてますよ」

「そんなわけあるかッ!」

彼の大人しそうな雰囲気からは予想できない大声に、善行はおろか、店員や周りの客も驚いて、一斉に視線を向けた。そこには非難や好奇といった意味が込められており、ただでさえ視線を集めるような身なりをしている梶は、ごほん、と咳払いをすると、何かに堪えるように言い放つ。

「ページを破ると命令は確かに消える。しかし、代償も払われている」

「だい、しょう?」

「代償と言えるものか分かりませんがね。ページを破るたびに、契約者は身体に傷を負わされる。それも深い。最初は腕だけだが、最後は全身に行き渡り、動くのすら辛くなるほどです。そんな中、悪魔に魂を捧げて最悪の死を迎えるというシナリオになっています」

「傷。腕」

善行は、単語を呟いて、眼鏡をくい、とあげる。最初は腕。破るたびに、傷を負う。そういえば、最近の千秋はずっと長袖を着ていた。出会った当初は半袖だったというのに、日焼けが嫌だからと着始めた。しかし、それも嘘だった?

「思い当たる節があるのでは。腕に傷を負っていませんか」

「最近、米倉さんは長袖を着ています」

それでは、千秋は増えていく傷を隠すために長袖を着るようになったというのか。言われてみれば、彼女の服が変わったのは梶と出会った日、つまり夏祭り以降の話だ。

善行は全身が冷えていく感覚に襲われて、身震いする。気休めにコーヒーをごくりと飲み干すが、寒気は収まらない。今まで信じていたものがすべてひっくり返った。そんな気がしてならない。

「僕は、今までとんでもないことをしてしまっていた……?」

「契約者の子も、貴方に気を遣っていたのですね」

きっとそうだ。米倉千秋というのは、本当はとても優しい。だからこそ、善行が気づいてあげるべきだったのに。いつものお節介は、一体どこへ行ってしまったというのだろう。

「じゃあ、最後のページを破っても、変わらないんですか」

「俺は試してないからわかりませんが、結局死ぬ運命は変わりません」

善行はこれ以上ないほどに、深く息を吐きだした。少しだけ落ち着きを取り戻した頃、梶を見据えて、思い直す。諦めるな。何か、道を切り開く方法は絶対にある。

だって、こんな話を聞いているが、目の前にいる人は、悪魔と契約していたにも関わらず、生きている。

何か、方法があるはずなのだ。

「梶さん。一番聞きたいことを、聞いてもいいですか」

「来ると思っていました。きっと、あてにならない答えですよ。それでも、いいのなら」

ごくりと唾を呑み込む。もちろん、聞く。あてになるかならないかなんて、聞いてから決めればいい。

「どうして梶さんは、悪魔と契約が切れたんですか。……どうして、生きているんですか」

それは、核心。梶の辛い過去と、千秋の辛い今を解き放つ、キーワード。

「最後のページに行きつく前に、本を燃やしました。ページを破って傷を負うことから、契約者と本が繋がっていることは分かっていましたから、死を覚悟していました。俺の身体は、本と同じく、燃えました。焼けただれ、動くこともままならない状態で、倒れ、通りがかった人にすぐに病院に連れて行ってもらえなければ、死んでいたことでしょう」

「ということは」

「契約を切りたいのなら、本をこの世から消してしまえばいい。だけど、それと同じ報いを契約者も受けます。俺がたまたま助かったのは、本当に奇跡としか言いようがない。生き延びったって、この姿です。気味悪がられて、今のバイトだっていつまで続くことやら」

目元以外を隠した容姿は、全身焼けただれた名残ということか。契約したが最後、人生は滅茶苦茶になる。

悪魔と契約が切れても、影はずっと心に潜み、蝕んでいく。梶は、悲痛な声で、最後にこう言う。

「死を選ぶか、残りの人生を暗く過ごすか。それは、よく考えてくださいね」

どっちにしろ、希望は何一つない。そんな続きの言葉が聞こえたような気がして、善行は去っていく彼の背中を見送った。

「米倉さんに伝えなければ。でないと」

死んでしまう。

嫌な事を思い浮かべ、むしゃくしゃした善行は彼が残していったホットチョコレートを飲み干すと、顔をしかめる。それは、こんな時には似合わないほど、甘ったるかった。

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