第19話 見知らぬ傷

日焼けが嫌い。

それはきっと、善行に言った通り、本当の事だと思う。強い日差しは頭がくらくらしてしまうし、肌が焼けると真っ赤になってしまうというのも、年頃の女性なら、嫌になるのは至極当然だ。以前、悪魔の命令によって真っ赤になるまで日光に当たり続けろという地味に嫌な命令が下ったこともある。

でも、千秋は夏に長袖を着るほど日焼けを恐れる子ではなかった。だから、つい最近長袖を着るようになった理由は、もちろん他にある。

善行が受験勉強の参考書を買いに本屋へ出かけている時、千秋は自室にて長袖の下に隠れた腕を見つめていた。

ベッドに深く腰掛け、傍らにはいつもの本。冷房がよく効いた部屋で、ただ一人、静かに腕に走る傷を見つめた。

「……もしかしなくても、そう、だよね」

つい最近、千秋の腕には見覚えのない深い傷が現れ始めた。それは、血の滲んだ大きなものから、小さなものまで、切り傷のように無数に広がり、今や見るも無残な肌になってしまっている。

最初は放っておけば治ると思って、放置していたのだが、日に日に傷は増えていき、薬を塗りこんでも逆に増えていくこの現状に千秋は戸惑うばかりだ。

おかげで、善行や両親に誤魔化しつつ、暑いというのに長袖を着る羽目になっている。

考えられる原因はただ一つ。

悪魔の、仕業だろう。

「ねえ、そこに居るんでしょう?この傷は、一体何なの?」

虚空を睨んで問いかけると、四方八方から耳障りな笑い声が響き始め、やがて部屋全体が、黒い靄に包まれる。だが、千秋はそれを無表情で見つめて、一切動じないように努めた。ここで反応してしまっては、相手の思うつぼだ。冷静になって、情報を引き出せ。

心の中で、何度となく暗示をかけて唇を噛み締めた。

『今更だな。もっと前に気付いていただろう』

「いいから答えて。どうして、日に日に傷は増えていくの!」

最早手遅れとでもいうように、視界は全てが暗闇で、ただ一人、ぽつんと座り込む千秋は、妙な孤独感に囚われかけていた。こんな時、善行がいてくれたらいいのにな。そしたら、寂しさも恐怖も、全てが消し飛んで、安心していられるのに。

その安心のもたらす感情の意味に気付けないまま、千秋はどこで見ているか分からない悪魔に、気丈に言葉を続ける。

「教えて。今度は何をしたの!」

『ハハ、ハハハハハッッ!何をしただって?』

脳内に直接響き渡る、地を這うような声。じゃりじゃりとした不愉快なその声は、ただただ、千秋の気分を悪くさせるだけだった。

やがて、後ろで気配がして、何かが重くのしかかってくる。それが何なのか、千秋には当然分かっていて、だけれど反応してはいけない。怯えるな、奴は遊んでるだけだ。

『むしろ“何か”をしているのはお前たちじゃないか。契約を無視して、この本を汚しているのは、どっちだ?』

命令が下るたびにページを破いていることを言っているのだろうか。そうなのだとしたら、千秋も言い返したい。そもそも、こんな無茶な内容ばかりを押し付けてくるお前が悪いのだと。

しかし、千秋が言い返す前に、悪魔の声は暗闇の中で木霊して、四方八方から、囁きだす。背中、右、上、左、果ては足もと。どこにいるのか、全くつかませることなく、千秋を徐々に追いやっていく。

『でも、いいのさ。むしろそれは、俺にとって好都合』

『最後のページに近づくのが早まれば』

『お前の魂は、俺のものになる』

「どういう、事……?ページを破れば、命令は消える。だから、最後のページも破れば、私は救われるんじゃ」

ふと、目の前にあの忌々しい本が姿を現した。自らの意思を持っているかのように、ぱらぱらと勝手に開き、やがて最後のページに行きつくと、本はそれを見せつけるかのように、千秋の眼前まで迫った。

――米倉千秋の魂を捧げろ。

そこには、幾度となく見た、あの言葉が並んでいる。それが、千秋に近づく。

得体の知れないものに、後ずさった。混乱と恐怖で、まともな思考回路は、崩されつつあった。

『そんなわけ、ないだろう。俺がそんなヘマをするとでも思っているのか。最後のページは、破ったって意味がない。お前の死ぬ未来は、変わらない』

「じゃあ、どうしてページを破ったら命令が消えるの?そこは、見逃すの?」

千秋は顔を引きつらせながら、本に問いかける。本は、笑っているかのように、小刻みに揺れて、答えを文字で出してくれた。

そして、追い打ちをかけるように、悪魔の声が、その文字を読み上げる。

『その行為と引き換えに、代償を貰っているからに決まっている』

「だい、しょう……?」

千秋は咄嗟に、見えるはずもないのに両腕を広げて、傷だらけの肌を探す。親切心を働かせたかのように、ぼうっと腕の周りだけ、光が灯り、千秋は歯噛みする。つまり、代償がこれというわけだ。

『その傷は、いずれお前の身体すべてを蝕むだろうなァ。そして、死ぬときには傷だらけで墓に入るわけだ。アーア、死ぬときすら綺麗に終われないなんて、難儀なことだなァ』

クククッと喉を鳴らす音まで響かせて、悪魔は姿を現すと、千秋の顔を下から覗き込んだ。陶器のような滑らかな白い肌は、海の底にでも行ったかのように感じられるほど青白い。瞳孔がこれでもかというほどに開かれて、唇はわなわなと震え、明らかにその表情は。

絶望していた。

そうだ、その表情を待っていた。

人形のように、無機質なものでもない。

悪魔に立ち向かう、野生のようなものでもない。

ただ、悪魔は。

この少女の、絶望しきった顔が見たかったのだ。

彼女の両親を別居へと導いたときにも、似たようなものを見たけれど、今のものとは比にならない。だからこそ、甘美で食欲をそそる。早く、この魂を喰ってしまいたい。しかし、最後のページまでは我慢だ。悪魔はのちに訪れる、最高の瞬間を期待して、ぐっとこらえると、高笑いを続け、やがて闇を自身に収束させる。

後に残るのは、茫然としている千秋と、愛らしい小物で埋め尽くされた、小さな部屋だけだった。

「……荒井、先輩」

泣きたいのに泣けない千秋は。

そっと両腕の傷を見つめると、首を振って、それでも彼に心配をかけまいと、心に決めた。

「このことは、絶対に黙っていよう。それが、いい」

残された千秋は、ただただ、どうすることもなく、虚空を見つめるばかりだった。

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