第17話 家族の再興

例えば、契約を交わさずに、今を生きていたら、自分は、両親はどうなっていたのだろう。本当に、離婚をしてしまっていただろうか。それとも、仲を取り戻すことが出来ていたのだろうか。

ふとした瞬間、彼女はいつもそんなことを考えている。今もそうだ。

過去に囚われ、現実を見られなくて、もしもの話を思い浮かべる。目の前にある悪魔の書を見て、これさえなければと何度悔やんだだろう。

いいや、そんなもしもの話は、もうやめよう。

千秋には、千秋の今がある。だから、現実を見つめて、悪魔の書を放り出して、やることがあるはずだ。

夏休みも半分が過ぎた頃、米倉千秋は近頃善行にべったりだったにも関わらず、今日は珍しく家に居た。

それもこれも、今日は家族が家に揃うからだ。別居中の両親が、1ヵ月ぶりに揃うこの日は、千秋にとって待ちに待った特別な日。会社の近くにアパートを借りている父親が、必要なものを取りに戻ってくる、というだけだが、それでも良かった。

人形生活から脱した千秋は、ある一つの決意をした。

両親の仲を取り戻す。

それは決して難しいことではないはずだ。簡単でもないだろうけれど、千秋の幼い頃がわりかし円満だったということは、希望は無きにしも非ず。事実上の離婚に追い込まれたこの家は、数年間、薄暗い空気の中で存在していた。千秋が悪魔と契約して可笑しくなってしまったのも、それを増長しているとみていい。しかし、今は違うのだ。

悪魔の書に対抗策を持っていて、最早人形という肩書も捨てた。私は自由だ。両親の仲を取り戻させることだって、出来るはずだ。

千秋はそんな自信に満ち溢れて、部屋の中で意気込んでいた。

大丈夫、行ける。

傍らの本が淡く光るたびに素早く破いて、ゴミ箱に投げ捨てる。もはや何も怖いものなどない。困ったら、善行に頼ればいい。

必ず、両親を取り戻す。悪魔に奪われた過去を、奪い返してやる。

千秋は意を決して、部屋を出た。

下の階では、両親の言い争う声が聞こえていた。


「どうしていつも私が居る時に帰って来るのよ」

「専業主婦のお前がここに居ない時のほうが限られているだろう。嫌なら働けばいいじゃないか」

「この家をほったらかしにしておいて、よくそんな口が利けるわね。家事なんて一切やらずに会社に引きこもって」

「それなら金を入れているのは誰だというんだ。千秋が居なければ、お前とはとっくに離婚していたさ」

「ええそうね、千秋が可哀想だからこのままでいるけど、貴方の顔なんてもう見たくないわ」

「もうやめて!!!」

いつまでも絶えない口論に、千秋は耳を塞いでいた。そして、怒鳴る。

すると、リビングに置かれたテーブルを挟んで口論していた二人は、ぽかん、と口を開けて千秋を見つめていた。

それもそうだろう。

ここ数日前までは、幼い頃が嘘のように無感情で、何も話さず、気でも狂ったのかと疑いたくなるような様子だったのだ。

千秋の大きな声なんて、久しぶりに聞いたとでもいうように、両親は顔を見合わせた。

「千秋……?その、大丈夫なの?」

「あ、ああ……。いきなり大声をあげてどうしたんだ。らしくないじゃないか」

父の言葉に、ぴくりと肩を震わせた千秋は、両親を見つめ、唇をキュッと結ぶ。見慣れたこの部屋で、父が居るのが嬉しいというのに、それでもその父親の言葉に、怒りを覚えないわけにはいかなかった。

だって、らしくない、なんて。

人形のように数年間生きてきた千秋を、真実と見ているということじゃないか。

違う。千秋は、違う。

米倉千秋は、そんな人間なんかじゃない。

無口で陰鬱で、奇妙な行動ばかりして、学校からしょっちゅう呼び出しを食らってしまう、そんな少女は、偽りだ。飾りだ。

本当の千秋は、可愛いものが大好きで、少し食欲旺盛で、よく笑って、よく泣く、普通の女子高生なのだ。

それを、隠して生きてきたのは間違いない。けれど、両親にでさえ、本当の自分を見てもらえないのは、辛い。

だから、千秋は拳をギュッと握りしめて、よく通る声で、話し始める。

「らしくないなんて、今は放っておいて。ねえ、それよりもだよ。もうやめよう。何年も、こんなことを続けて、私は辛いよ。私、お母さんもお父さんも大好き。だから二人が喧嘩していると悲しいの。泣きたくなる。私が居るから、悲しむから離婚しないっていうなら、もっと欲を言ってもいい?私のために、仲良くして」

一口に言いきった千秋は、ふう、と一息つくと、両親を見据える。二人は、いきなりの事に頭がついていかなくて、困りきっているようだった。

「千秋が、話してる……」

「あれほど様子が可笑しかったのに、一体どうしたんだ」

いや、それよりも今の変わりように驚きを隠せないようだ。それだけ以前までの行動が酷かったことを思い知らされた千秋は、微かに絶望すると、同時に未来を見た気がした。

ここまで変われた自分が居るのだから、両親も変われないはずがない。

「私の事は良いの。ねえ、本当に、前みたいに家族仲良く、出来ないの?」

いつからだったろうか。千秋の変わりように、一緒に居たはずの母が、お前のせいだと責められるようになったのは。いつからだったろうか。千秋の奇妙な行動に、学校から呼び出しをされて、苦労している母親が父に八つ当たりを始めたのは。

別居の理由も、喧嘩の理由も、千秋が関わっている。なら、千秋が変われば、現状を変えられる。

そんな気がしてならない。

「前みたいに……って言っても」

「私は変わったよ。もう大丈夫だよ。普通の子に、戻ったんだよ。だから、私のためを思うなら、仲良くして。前みたいに、一緒に笑える生活をして」

言っていることは無茶苦茶かもしれないが、千秋は本気だ。娘の頼みなら、少しは耳を傾けてくれるだろう。それがきっかけで元に戻るなら越したことはない。

両親は何やら気まずい表情で見つめ合うと、苦笑した。先ほどの喧嘩が嘘のように、陰鬱な空気は過ぎ去って、千秋はホッとする。

ここからは、二人の問題で、後は見守るだけだ。

背後に忍び寄る黒い影は、そっと耳元で囁くけれど、千秋は惑わされない。

『どうせ仲は戻らないさ。そのうち離婚さえしてしまうかもなあ』

「させない。私が絶対に止める。本当は仲がいいもの」

昔見ていた、二人の笑いあう姿に、愛というものがあるのかはわからない。お見合い婚だけに、どうしてもそこは不安な要素だ。

だけど、今まで千秋に見せてきた二人の笑顔と愛は本物だ。それだけは絶対に言える。

だから、千秋は小声で背後の悪魔に牽制した。恐怖心さえ見せずに、威風堂々と。

「あなたの言いなりになんかならない。私は、自由だ」

悪魔は鼻で笑うと、その場を去る。新しいページは、まだ光を放っていなかった。

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