第15話 負けないで
荒井善行には妹がいる。そんな話を聞いたのは、花火が打ちあがる中、ひたすら見惚れていた時だった。花火に釘付けだった千秋は、そう言われて、視線を善行に向けた。
すると、彼は酷く罰が悪そうな顔をして、それでもこう言ったのだ。
「明日、妹の見舞いに行くんだ。……一緒にどうかな」
もちろん、千秋は迷うことなく頷いた。いつもお世話になっているのだから、家族に挨拶をしたい。幸い、途中で悪魔の邪魔が入っても打開策が見つかったので、阻止されることもそうそうないだろう。
しかし千秋はそこで疑問に思うべきだった。
どうしてわざわざ妹に会わせるのだろう、と。
次の日の午後二時を回った頃、善行と千秋は図書館で待ち合わせをして、彼の妹が入院する近くの大型病院に足を運んだ。本はいつも通り持ち歩いているものの、命令を聞かなくていいんだと思うと、晴れやかな気分だった。いつも見ていた景色が妙に鮮やかに見えるのもそのせいだろうか。
田んぼに伸びきったぼうぼうの草、少し煩い蝉の鳴き声。道路を走る車の音や、太陽の光に反射してきらきらと光る川。今まで見ていたはずなのに、どうしてこうも違うんだろう。千秋は一つ一つを、子供のように目を輝かせて見ていた。
やがて病院にたどり着き、彼の妹が入院している病室へと案内された時、久々の緊張感を味わった。
どうやって挨拶をすればいいのだろう。自己紹介は?荒井先輩の、ああ、でも妹さんも荒井だ。じゃあ善行先輩の後輩の、米倉千秋です?でもどうやって出会ったかなんて話せない。ただの後輩と先輩だと伝えればいいんだけど、それを言うにはどうにも、もやもやする。
結局うんうん悩んでいたら、善行が苦笑して頭をぽん、と撫でてくれた。
「そんなに気負わなくていいよ」
「でも、緊張して」
「妹はそんなに気にしないから」
善行はそう言うなり、慣れた手つきで個室のドアを開ける。先導して入っていく善行の後を、千秋も慌ててついていき、中に入る。
すると、そこには真っ白ながらも、女性らしい空間が広がっていた。
ところどころに置かれた花瓶、窓に飾り付けられた天使の置物。小さな本棚と、その上に真っ白なパソコンが置いてあり、想像していたよりもずっと生活感が漂う部屋だった。
そして、その脇の大きなベッドに座っていたのは、華奢な女の子だった。
触れれば簡単に折れてしまいそうな腕で、長い黒髪を耳にかけるその仕草はどこかのお姫様のようだ。ぱっちりとした大きな目は親しみやすく、可愛らしい。
あまりにも細すぎるその身体を除けば、美人な子だ。確か善行に聞いた話では中学二年生らしいが、年下でこんなに綺麗な子がいるなんて知らなかった。世間とは狭いんだなと思わずにはいられない。
「お兄ちゃん。来てくれたんだ」
「うん。調子はどう、結花」
「いつも通り。悪くもなく良くもなく」
「そっか」
「そっちの人は?」
言われて、びくりと肩を揺らした千秋は、それでもおずおずと、前に進んだ。こんなきれいな女の子の前で話すなんて、緊張しすぎて頭が爆発しそうだ。何とかして、言葉を発しなければ。目がぐるぐると回りそうな状況の中、千秋は必死だった。
「米倉千秋です。その、荒井先輩の後輩です……」
と、そんな無難な言葉しか出てこなかった。千秋は心の内で、しまった、と悔やんだ。もっと他に何か言うことはないのか。いくら何でも素っ気なさすぎだろう。
そう思っていたものの、結花は気にした様子もなく笑顔で返してくれた。まさしく天使だった。
「米倉さん、ですね。私は荒井結花。ベッドに座ったままで申し訳ないのですが、よろしくお願いします」
「いえいえいえいえ、そんな」
思いっきり首をぶんぶん振る。結花はそれを見て可笑しそうに笑うと、千秋をすっと見つめて、何やら意味深な視線を向ける。なんだろう。どうしてそんなに悲しそうな目で見てくるのだろう。
千秋は少しだけ寒気を感じて、持っていた小さな箱を結花に差し出す。
「あの、これ、どうぞ」
「わあ、駅前のケーキ屋じゃないですか!私、ここのケーキ大好きなんです」
「はい。先輩にそう聞いて買ってきました。喜んでいただけで何よりです」
「ふふ、ありがとうございます。兄は少し変わっているでしょう?米倉先輩も困っていませんか?」
「まさか。いつも助けてもらってばかりで」
本当に年下とは思えない雰囲気に押されつつも、千秋は必死に答える。一つ一つ言葉を拾って笑顔を漏らしてくれる彼女は、とてもいい人のように思えた。それに、どことなく笑った顔が善行に似ている。やっぱり、兄妹なんだな。そう感じる瞬間だった。
「こら、僕を変だなんて言わない」
「だって、実際にそうじゃない。お節介、治ってないんでしょう?」
「病気みたいに言わないでくれるかな」
善行は苦笑すると、花瓶の水を取り替えるために部屋を出て行こうとする。待って、ここで二人きりにされたら何を話せばいいというんだ。千秋は善行に視線で必死に訴えるが、彼は素知らぬ顔で二つの花瓶を手に持つと、部屋のドアに手をかけた。
「お兄ちゃん。この人が、本の?」
「ああ、そうだよ」
……本?どういうことだろう。
善行が立ち去った後のドアをしばし見つめた千秋は、再び結花を見る。すると、彼女は無言で千秋の持つ、本に目を向けていた。その目は無感情で、どことなく人形染みている。
自分もこんな目をしていたのかと思うと、ゾッとした。だがしかし、今はそれよりも結花がだんまりなのが気になる。
しかし、そんな時に限って本は光を放ち、命令文が下るのだ。千秋はこっそり、結花に見えないように本を開いて、ページを破った。中身なんて、見る事すらせずに。
「あの、結花さん?」
「……あ、ごめんなさい。ボーっとしてました。……その本は?」
「これ、ですか。ええと、その……」
やはり先ほどの光が見えてしまったのだろうか。となると、説明をするしかないのだろうけど、説明しようにも信じてくれるか分からない。そう思うと、怖くて何も言えなかった。だけど、それを見透かしたように結花は陰鬱な表情で口を開く。
「悪魔の本。そうですね?」
「知っているんですか……!?」
まさか善行が話したのだろうか。妹なら聞いていても可笑しくない。勘ぐった千秋は、しかし背後から聞こえてくる声に、答えが違うことを知らされる。
「結花も契約を持ちかけられたんだよ」
花瓶を手に帰って来た善行は、そう言うと、千秋に腰かけるように指示を出す。
言われるがままに座った彼女は、どういうことか分からず、戸惑いの表情を浮かべる。そんな千秋を見て、だんだんと人間らしくなってきたと善行はこっそり笑う。いい兆候だ。
「今まで黙っててごめん。実は、結花も以前契約を持ちかけられたんだ」
千秋は固まる。今、善行はなんといった?結花も、契約を持ちかけられたと言わなかったか?
それはつまり、千秋と同じように、悪魔に出会ったと。そう言うことなのか?
戸惑いの表情を浮かべて結花に視線を移すと、彼女は苦笑して、シーツをたくしあげた。
そして、その細すぎる身体を隠すように身をうずめると、千秋の視線など感じていないとでも言うような様子で、ぽつぽつと語り始める。
「私、不治の病に罹っているんです。小学生の頃に発覚して、それからずっと入院生活を続けています。こんなふうに話していられるけれど、本当はここから一歩も出れなくて、毎日検査と薬漬けで大変なんです」
「そんな。じゃあ、結花さんはもうここから出られない……?」
「そうです。辛くて辛くて、何で私だけ、って色んなものを恨んだ時もありました。そんな時です。あの悪魔が、私に契約を持ちかけたのは」
段々と小さくなっていくその声に、千秋は眉を潜めた。時折ごほっと咳をするのが、妙に痛々しい。善行がいたわるように背中をさすり、代わろうか?と呼びかける。しかし、結花はそれを徹底的に拒否した。首を振って、善行の腕を掴む。説明させてほしい、と目が語っていた。
「米倉先輩もそうだったように、私も契約を持ちかけられる時、ただ一つの願いと引き換えに、悪魔に命を預け、言いなりになることを言い渡されました。私は、契約をするつもりでした。なんたって、この病が治って、また元気に外を駆けまわれるのなら、それ以上の事はないと思っていたんです。だけど、それを、兄が止めました」
再び、ゴホッゴホッと大きな音を立てて結花は震える。口元を押さえる手は、この病室のように真っ白だった。
「結花。無理はしないで。代わるよ」
「……うん」
結局善行が千秋に苦笑を漏らして、続きを話す。そうして千秋は、ようやく納得がいった。悪魔と契約した話を彼にしたとき、さほど驚いていなかったこと。妙に千秋に突っかかって来るところ。
それはもちろん、お節介という彼の本質もあるのだろうけれど、それでもこの話を聞けば、ああそういうことかと納得が出来た。
「僕は必死に結花を止めた。悪魔と契約して、言いなりになる。勿論死ぬまでだ。それは、結局のところ、自分の意思を奪われた人形として、何一つ自分のために生きないことだ。僕には、それがあまりにも不憫に思えた。それなら僕は、不治の病といえど自分の意思で行動して、戦える今を現状維持した方がいいと思ったんだよ。それに、悪魔の言葉は信用できなかった。後々、結花を苦しめるような事をするんじゃないかって、気が気じゃなかった。だから、僕は契約を受けないよう、断らせたんだ。しばらく結花に恨まれたけれど、でも。これでよかったと思わざるを得ない」
何故なら、結果は目の前に広がっているから。
契約して、自由を奪われ、願いを叶えられたのに全くいい方向に行かなかった千秋。
契約を断って、自分の意思で不治の病と闘いながら、病室にこもりきりな結花。
どちらがいいかなんて、人それぞれ違うだろう。
だけど、契約した千秋には、結花がとても羨ましく見えた。
必死になって止めてくれる人が居る。不治の病と闘おうという、強い意思を持ち続けている。何より、自分よりよほど幸せそうな彼女に、嫉妬すら覚えた。
「だから、先輩は私が悪魔と契約していると言ってもあまり驚かなかったんですね」
「もしかして、と思ったんだ。そしたら案の定だ。丁度、結花が契約を断った時期と米倉さんが契約した時期が一致する。次の標的が……君だったんだ。そう思うと、どうしても見放せなくて」
それはそうだろう。校内で有名なお節介男が、更に妹と同じ境遇の人物を見つけたら。絶対に助けたいと思ってしまう。
契約してしまった千秋は、複雑な心境になりながらも、結花に頭を下げる。
「貴重なお話を、ありがとうございました」
きっと、善行が見舞いに誘ってくれたのもこのことからだ。仲間が既に、居たということを伝えたかったに違いない。
「米倉千秋さん。……負けないで」
その言葉は、千秋の心に、妙に染み込んだ。
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