第13話 わずかな希望
夏といえば、海、スイカ割り、かき氷、キャンプ、エトセトラ。一年を通してここまでイベントに溢れる季節はないだろうと言い切れるほどに、アウトドアには欠かせない期間だ。しかし善行はたいして夏が好きでもなく、アウトドアでもない。どちらかと言うと、部屋にこもってテレビを見つつ、夏休みを終えるというのが毎年の通例だった。さあ今年は受験生だし、勉強漬けになりつつのんびり過ごそうと思っていた矢先の事だった。
「私、お祭りに行ったことがないんです」
曰く、物心ついたころには両親の不仲が酷く、連れて行ってもらえなかった。誘える友達もおらず、契約してからは見ての通り悪魔の言いなりだから、祭りは経験がしたことない、と。さすがの善行もそれはいかん、と焦った。日本人たるもの、祭りの一つや二つ、経験しておかなければならない。善行だって特別好きというわけでもないけれど、あの人ごみの中、香ばしい匂いに誘われてふらふらと立ち寄り、時には金魚をすくってみたり、射的をしてみたり、ちょっとお金を使いすぎてしまったかなと思う頃に鳴り始める花火を眺めたり。そんな経験は、しておいた方がいいと思うのだ。たまにどうしても行きたくなる祭りと言うのは一度行かなければそんな感情だって湧いてこない。
そんなわけで、近所で祭りが開かれる本日、善行は千秋の家に訪問して、一緒に祭りを楽しむことにした。もちろん、火曜日ではないので千秋もあの本を片手に外に出てきたが、それでも何もしないよりはマシだろう。
「火曜日だったら、浴衣も着たかったな……」
つい先日、千秋の契約の理由を聞いた図書館の隣に、大きな公園がある。今日はそこで開催されるので、二人そろって向かっていると、千秋が唐突にそんなことを言った。誘った身として、浴衣も用意してやるべきだったなと思うくらい、千秋は祭りを楽しみにしていたようだ。いつもの無感情な顔が、今は嬉しそうだったり、浴衣を着た女子高生を見て落ち込んだり、グラデーションを描いている。
「契約を解いたら、今度は浴衣を着ていこう。僕も着るよ」
実際、善行も浴衣を着ようとしたら新しいのを買ってこなくてはならない。家にあるのは小学生の頃のものだし、ここ最近は祭りなんて一切行っていないのだから。
千秋は少しだけ困ったように笑うと、静かに頷く。自信なさげなものの、それでも善行の言ったことに頷いてくれるのは、少しでも信用されている証だろう。以前ならあの毒舌で突っぱねられるところだ。どうか、来年の夏には普通の状態で来る事を祈り、善行は千秋に合わせて歩を進めた。
やがて公園にたどり着くと、千秋の目が変わった。
「わあ……!」
善行よりも先に駆け出して、祭りの入り口に立つと、彼女は精一杯背伸びをして、人ごみで溢れかえる公園内を目いっぱい見渡した。
頭上に張り巡らされる無数の提灯。軽快な太鼓の音。それに合わせて踊る、楽しそうな人々。そのどれもが千秋にとっては新鮮で、来ることはないだろうと思っていたものだ。
これが、今日だけは千秋も参加して、心行くまで味わえる。そう思うと、嬉しくて、片手に持った本なんて捨ててしまいそうだった。むろん、捨ててしまえたらどんなに楽だろうかとは思うけど、それは後々怖い目に遭うので、感情を抑えた。
「先輩、何から回るんですか!?」
「え、うーん。そうだな」
善行はしばし考えて立ち止まる。目の前でキラキラした二つの目が、善行を捉えて離さない。わくわく、ドキドキ。そんな言葉が似合う顔で何やら訴えてくるので、彼は半ば呆れて返す。
「米倉さんの好きな所でいいよ。僕はそれに付き合おうか」
「本当ですか!」
まさかこの言葉で善行本人が一番後悔することになるとは、まだ知らなかった。
結論から言おう。
女の買い物に付き合う男性諸君には、重々注意して聞いてもらいたい。
女の買い物に付き合うなかれ。散々振り回された挙句、戦利品を両手に持たされ、足はくたくたになるまで連れまわされる。
善行も両手は塞がっていないものの、正直女の好奇心を侮っていた。左手の怪我がなければもっとひどい目に遭っていたかもしれない。千秋がこれほどまでに祭りに興味を示しているだなんて。いや、これまで自由な行動を許されなかった身ならば、仕方ないのだろうか。それにしても、だ。
「はあ~あそこのたこ焼き、美味しかったですね。射的は全然でしたけど、面白かったし、綿あめってあんなにふわふわしてるなんて初めて知りました。……先輩?大丈夫ですか?」
「も、もちろん……」
女って怖い。
とにかくそれしか出てこない。
あれだけぐるぐると店を回り続け、これを見てはあちらを見て、そのうち遊んで買い物をして、かと思えばまた来た道を戻って先ほど入ったばかりの店に戻る。いやいや、どうして店に戻るんだ、と言ってしまいそうだったけれど、言えずに振り回されるがまま。戻った店で何も買わずに出てきたときにはさすがにため息が出てしまった。幸い、彼女には聞こえていなかったようなので安心はしたものの、これが世の男性の悩みだと思うと、自分には彼女を作るなんて無理な気がしてきた。偏見と言えば偏見かもしれないが、女性と言うのは買い物が好きらしいし。
「米倉さん、ちょっと休憩しよう……」
「あ、はい。じゃあそこのベンチに座りましょうか」
公園の隅にいくつか休憩スペースが設けられており、善行今日一番の脚力を駆使して、ドカッと座る。脇に抱えた景品のぬいぐるみが軽いはずなのに、重い。人ごみに酔ってしまったのだと気づいたときには、顔を上にあげて少しだけ夜風を感じていた。隣で千秋がちょこんと座るのを感じ取り、脇に抱えた本に視線を移す。こんな重たそうな本を抱えたままだというのに、彼女には疲れが全く見えていない。心の底から楽しんでいるため、疲れを感じさせないのか、それとも契約の恩恵で少し人間離れしているのか。いや、そんな悪いことを考えるのはよそう。きっと、疲れも吹っ飛ぶほどに楽しいのだ。だって、今も彼女の顔はキラキラしている。
「今日はまだ命令が下っていないの?」
「はい。まだ何も。……でも、そろそろ来る頃合いだと思います。精一杯楽しませたのち、突き落とすのが常ですから」
途端に瞼に影を落とした千秋は、本を開く。真っ黒な表紙が善行に向いて、それが悪魔の顔に見えた。あざ笑っているかのような、そんな顔だ。
ぱらぱらとめくった千秋は、半分進んだところで、手を止める。真っ白な紙に、罫線が走っただけの中身。しかし、そこから淡い光が放ち始め、ぼんやりと文字が浮かび始めた。
噂をすればなんとやら。
二人は息を呑んで命令文が現れるのを待つ。
しかし、そんな時だった。
「その本……悪魔のッ……!」
頭上から声が聞こえてきて、二人は顔を見上げた。目の前に立った異様な男が、千秋の持つ本に目を向け、怯えている。長袖のTシャツに、足を覆い隠すほどのズボン。無造作に伸ばした髪は頭を半分以上隠し、マスクをつけているため、僅かに見えるのは、その小さな目だけだった。肌を一切見せる事のないその姿は、およそ夏には不向きだろう。男は瞼を引きつらせて足早に立ち去る。
咄嗟に善行は立ち上がって、男を追いかけた。
知っている。彼は、この本について何か知っている?
頭の中で、ただ彼の反応について思考を巡らせる。そのうち、男は駆け足で人ごみの中に紛れていき、善行もついていこうとしたが、この人口密度の中で、見失ってしまった。
僅か数秒の出来事。だが、善行は冷や汗をかいて立ち尽くした。
あの男は、きっとこの本について何か知っている。何を知っている?怯えたあの目は、契約したからなのか?それならなぜ本を持っていない?
様々な憶測が飛んだが、それよりも千秋の命令が下ったばかりだと思い出して、急いでベンチに戻った。今度は一体どんな命令なのか。
ベンチに戻ると、千秋は本を放り出して頭を抱えていた。時折奇妙なうめき声が聞こえてきて、その姿は檻に入れられた百獣の王を彷彿とさせた。善行は急いで駆け寄り、千秋の肩を揺さぶる。彼女はされるがままに、しかし頭を振り乱して錯乱していた。
周囲の人々が遠ざかる中、善行だけが知っている現実に、歯ぎしりをした。今、彼女は命令を無視して悪魔に操られようとする自分の身体と戦っている。精一杯、抵抗している。それがどんなに弱い力だとしても。
「米倉さん!しっかり気を持って!僕の声に集中して!悪魔に乗っ取られるな!」
周りなんて気にせずに、大声で呼びかけた。千秋は奇声をあげながらもコクコクと頷いているから、少しは意識も保てているはずだ。言いなりになってはいけない。君は自由なんだ。もう、悪魔の人形なんかにならなくていい。頼むから、人生を自分のものにしてくれ。
そんな言葉を投げかけて、善行も必死だった。
しかし。
千秋は唐突に尋常ではない力で善行を突き飛ばし、立ち上がった。ピンクのスカートが揺れて、颯爽と立ち去っていく彼女の足取りは重い。そういえば、今日は彼女の私服を初めて見た。可愛いって、言ってあげるべきだったかなとどうでもいいことを考えながら、善行は放り出された真っ黒な本を手に取る。開かれたページには“梶美樹也を殺せ”とだけ書かれていた。梶美樹也が誰なのか全くわからないが、それでも一つ、分かることはある。
このまま千秋を放っておいてはいけない。彼女の道を、踏み外させてはいけない。止められるのは、善行だけなのだ。でも、あの人ならざる力の前で一体何をするというのだろう。こんな、ちっぽけな一個人が、何を出来るというのだろう。
簡単に弾き飛ばされた、荒井善行は、米倉千秋の心に入り込むことが出来るのだろうか。
そう思うと、どうにも立ち上がれない。尻もちをついたまま、ただただ、子供のように座り続ける。行ったところで、何もできやしない。そんなの。そんなの。
「くそッッッ!」
それは、無意識の行動だった。あまりの悔しさに、その命令文が書いてあるページを破り去ってしまったのだ。ビリッと音がした時にはもう遅く、紙と本は永久の別れを告げていた。
破ってしまった事に気付いた善行は、全身から血の気が引く思いだった。この悪魔の書に危害を加えたことになる。となると、どうなってしまうのだろう。何か、恐ろしいものが背筋を這い上がって来て、身震いした。
それと同時に、遠くの方で、ドサッと音がして、善行は音のした方へと顔を向けた。すると、突然の行動に驚いて周りが避けていく中心で、米倉千秋が膝をついていて、善行を見ている。その目は、何度も見た悪魔に操られたものではない。ちゃんと、生気に滾って、綺麗な瞳が善行を捉えていた。
「米倉、さん……?」
呼びかけたその声に、頷いて彼女は膝をついたまま、自分の両手を見つめた。
そして、こう言うのだ。
「突然、悪魔の力が、なくなった……」
ざわざわ、と煩いこの場所で、その言葉はなぜかクリアに聞こえた。
思わず、破り去ったページを見る。
そして、一つの可能性が、浮かび上がった。
もしかして。
「ページを破ると命令は削除される……?」
それは、僅かな希望の光だった。
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