第10話 黒い部屋
高校三年生の夏休みというのは、正確に言えば夏休みではない。もちろん、個人差はあるのだけれど、善行にとってこの夏休みは、今後の人生を左右するほどには、重要だった。
何せ、彼は受験生なのだ。
日頃から勉強を続けているものの、それも普通の学生に毛が生えた程度。たいして頭もよくないため、今ここで本腰を入れなければ、自らの将来が切り開けない。
そんなこんなで、善行は時計の針が十二時を過ぎて、外が闇色に染まっても、机にかじりついて参考書片手にノートにペンを走らせていた。
目指すは一流大学……とまではいかないけれど、そこそこ偏差値の高い大学で、今の善行の学力では行けるかどうかは半々なのだ。
だから、生徒会長の仕事の傍ら、最近では暇さえあれば勉強をしている。
数式の計算、文章の読解、年表の暗記などなど。やることと言ったら山ほどある。
「ふう……」
ようやく一息ついてペンを置いたころには肩も凝り固まって、背伸びをした。ようやく走れメロスを読み終え、提示された問題を解き終えたところだ。やはり国語は苦手だと自覚して、善行は苦笑した。
もっと柔軟な思考を持てば、少しは読解力もつくのだろうけど、善行は頑固で一点に集中して見る癖がある。この癖さえ直せば、少しは多方面から読解も出来るのだろうけど、人の性格というのは変わりづらいものだ。きっとそれは何年も先になってしまうかもな、と善行はどうでもいいことを考えて、立ち上がる。
寝るか勉強を続けるか、さてどうしようと時計を見て悩むこと数秒。
気付かないうちに、部屋が真っ黒に染まっていた。
「……ッ」
声にならない悲鳴を漏らして、善行は周りを見渡す。見知った部屋が、いつの間にかおぞましいものに変わり果てている。
黒々と霧のようなものが渦巻くこの部屋で、ありとあらゆるものが虫のように這いずり回っていた。
それは思念だったり、見たことのない物体だったり。
善行は眼鏡をくい、とあげて努めて冷静に振舞った。
ここで取り乱しては、相手の思うつぼだ。
『……動揺を隠すとは、成長したものだ』
ほうら、来た。
この部屋を作り変えて、人々の人生を滅茶苦茶にした、最悪の悪魔が。
「僕だって変わるさ。もう、昔の僕じゃない」
そう、いつだって人は変わる。たとえ、どれだけ時間をかけようとも。
善行は目を凝らして、眼前に広がる黒い靄を見つめた。
すると、それに応えるように、怪物が顔を覗かせる。それは、千秋の人生を狂わせた張本人。
『お前の昨日の行動に驚いてな。様子を見に来てやった』
「契約者を変えるつもりではなくて?」
『それも考えたさ。だが、あの女を介してお前を傷つけると、更に面白いことに気付いた』
「……悪魔め」
善行は吐き捨てるように言うと、目の前の靄に浮かぶ顔を睨んだ。こいつさえいなければ、千秋の人生も、そしてあの子の人生だって。
少しは、変わっただろうに。
『なに、今日は危害を加えに来たわけじゃない。俺だってあの本を介してじゃないと行動できないように制限されているからな』
「じゃあ何をしに来たって言うんだ。わざわざ僕の所まで来て」
『挨拶だよ。久しぶりに見たその面、拝みにきてやった』
「それはどうも。僕は二度とお前の顔なんか、見たくなかった」
善行は低い声で言い放つと、キッと悪魔を睥睨した。こいつさえ居なければ。
『しかしあれだけ逃げておいて、今更自ら足を踏み入れるとは思わなかったんだぜ?』
本当は関わりたくなかった。千秋が契約者だと明かした時、頭の中では警笛が鳴って止まなかった。だが、善行の性格では土台無理な話だったのだ。
お節介男は、困っている人を放っておけない。それがたとえ、偽善だと罵られたとしても。
『どうだ、あいつは元気にしているか』
「元気なわけない」
『はっはっは。だから契約を断るなと言ったのに』
「だが契約したら、残りの人生をお前に捧げることになる。大切な妹を、お前に渡すわけにはいかない」
善行はそう言うと、数年前を思い出した。
丁度、妹の結花が重い病を抱えた時期だった。
この悪魔は、兄妹の前にやって来ると、さも当然のように、契約を持ち出した。たった一つの願いと引き換えに、その人生を捧げる気はないか、と。
たった一つの願いと言えば、治る見込みのない妹の病を治すことだが、善行は断った。契約は妹に持ち掛けられたのに、だ。
妹は応じようとしていたが、善行は頑なにそれを許さず、結果的に今も入院生活を続けさせることになった。
しかし、今ではそれで良かったと思っている。
もちろん、妹の病は治したい。何より、彼女自身に早く元気な姿を見せてほしい。
だが、契約して、千秋のように苦しめられて、生きる喜びを奪われるのなら、そんな代償を受けてまでやらなければならないのかと疑問に思ってしまう。
それならば、今を精一杯生きて、病と向き合った方が、良いのではないか。
そう思えて仕方ないのだ。
だから千秋の契約の話を聞いたとき、たいして驚きもしなかったし、すぐに信じ込んだ。過去に妹に持ち掛けられた話を思い出して、千秋を妹と重ねてしまった。
その結果、自分まで巻き込まれる形となってしまったが、それも仕方ない。
「結花の次に、米倉を狙ったんだろう」
『ああ。お前があまりにも頑固なものでな』
悪魔は笑うと、話はそれだけだと言うように、黒い靄を霧散させて、部屋を元に戻した。後に残るのは、茫然と立ち尽くした善行ただ一人。
本当に、ただ挨拶に来ただけだったのだろう。
善行は唇を噛み締めると、思い出したかのようにベッドに飛び込んだ。
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