第9話 必死の抵抗

停学処分を受けて早一週間。だというのに、あまりそんな気はしない。もちろん見つかったらまずいとか、家で大人しくしていないといけない、なんて考えは常に付きまとっている。しかし、ただそれだけ。考えと行動が、必ずしも伴うとは限らない。

そう、米倉千秋のように、誰かの人形であるのならば。

悪魔に行動の権利を握られた彼女はほぼ毎日のように学校に赴き、何かをしている。何か、とはあまり良くないこととしか言いようがないのだけれど、停学処分前の時に比べればマシではある。そんな彼女に、周りの生徒はおろか先生も存在に気付いてはいる。

しかし、彼女も彼女なりに隠れてやっているし、周りは校内一の問題児に関わりたくないと見て見ぬふりをしていた。

しかし、それが仇となってしまうとは誰も想像がつかないだろう。

――誰かが、私を咎めてもっと酷い処罰を与えてしまえばいいのに。

全校生徒が集まる体育館の隅で、身を潜めつつそんな事を思う。

決して口には出せないその願いは、誰にも届かない。それに、こんな願いが叶ったって悪魔の力は揺るぎない。自分はされるがままだ。

「それでは、終業式を開始します。――礼」

教頭の気怠い声に呼応して、生徒はみな頭を下げる。千秋はその姿を横目に脇に抱えた本を開いた。今日の最初の命令は終業式に向かえ。これだけを見ると、随分平和的なものに見えるが、この先に待ち受けるものを予想すると、どうにも不安は消せない。

右向け、左向け、下向け、――飛び降りて死ね!

そんな命令が、普通なのだ。

壇上に控えた生徒会長の姿を見て、千秋はこっそりため息をついた。どうかあのお節介男に気付かれませんように。そして、彼を巻き込みませんように。

そうは願うものの、それが難しいことも知っている。千秋は本に命令が下されるのを待って、滞りなく進んでいく終業式を見つめた。

校長のあいさつ、校歌、教師それぞれの注意。短いようで長い終業式は、嫌気がさしてしまう暑さとともに流れていき、やがて、その時がやって来る。

「生徒会長の挨拶」

司会を務める教頭が、汗だくで声を張り上げる。すると、予想外の声の大きさに荒井は肩をびくりと震わせて、しかしそれを引きずらないよう、努めて冷静にマイクの前に立った。

そして、それを見計らったかのように小脇の本が輝きだす。淡い光が誰かに見られやしないかと警戒しつつも、千秋は本を開いて命令を読む。

そして、予想通りの結果が待っていた。

『生徒会長の挨拶を含め、この終業式を滅茶苦茶にしろ』

背後で悪魔が文章を読み上げる。そんなことをしなくたって、分かるのに。分かる、のに。

唇を噛み締めて、ぐっと拳を握る。終業式を、壊さなきゃ。

でも。

そこで、千秋は普段と違う行動を取った。

いつもは恐怖で振り返れない背後に視線を移し、悪魔と目を合わせた。操られた自分よりもずっと虚ろで、楽しそうなその瞳。幾度も見てきた、地獄の使い。

『――どうした。珍しいじゃないか、俺と顔を合わせるなど。……そうだ、やり方を書いていなかったな。いいだろう、今日は俺自ら指示を出してやる』

ざりざりとした不愉快な声が、そう告げる。咄嗟に彼女は壇上で嬉しそうに挨拶をする荒井を見た。狙ったように、背後で悪魔が囁く。

『そうだな……まずはあの男の上にある照明を壊してしまおう。前に使ったバッド、まだ持っていただろう。あれを使え。それから生徒全員を巻き込むよう、油を撒いて、火をつけて、燃やしてやろう。そうだ、火種はあいつがいい。ああ――考えただけで、ゾクゾクするな』

くつくつと濁った声で笑う悪魔を他所に、千秋は真っ青に顔を染めた。何だそれは。今までの命令より、ずっと酷い。それを、私にやれ、と。そう言っているのか。下手したら、命を奪ってしまうかもしれないのに。

いつか来るだろうと予想はしていた。覚悟もしていたはずだった。しかし、そんなものは何処かに捨ててきてしまったのかもしれない。下った命令に冷や汗をかいた千秋は、この先に自分が起こす未来を予想して、全身を凍りつかせる。出来るのか。本当に。自分に、そんなことが出来るのか。

あそこで必死に挨拶をしている、あの人を巻き込めるというのか。生徒たちを、殺すなんて、出来るのか。

『ほら、早くしろ』

悪魔のささやきが、強くなる。じわじわと、千秋を蝕んで、心を侵す。

やらなければ。何たって、私は人形。悪魔の娯楽。全ては、悪魔のために。

だが、そこで何かが過る。

――僕が、必ず君を助けてやるよ

誰かの言葉。上辺だけかもしれないのに、それでもその言葉には、光が見えて、千秋の心の中で弾けた。

「……たくない」

『あ?』

「そんなこと、したくない。私はやらない」

千秋は固い決意とともに、顔をあげた。悪魔を睨んで、本を捨てる。もう、言いなりなんて嫌だ。人形なんて、嫌だ。

私は、私だから。

「もう、貴方の言いなりなんて嫌なの。だから、これで終わり」

『ほう、それでいいんだな?お前は、俺に逆らって、どうなるのかわかってて言っているんだもんな?』

「…………」

唇を噛み締める。もちろん、分かっている。だけど、心は決めた。

『ふん、まあいいだろう。嫌がっているやつを操るっていうのも面白い。お前は従順すぎて退屈してたんだ』

悪魔は言うなり、霧となって消える。その瞬間だった。千秋の身体は何かに引きずられるように後ろに後退して、尻餅をつく。ずるずると引きずられ、バッドが隠してある倉庫に連れていかれる。以前使っていたバッドに千秋は手を伸ばした。

「あ、ああ……あああああああ」

必死に抵抗をするが、身体は言うことを聞かない。手が勝手に動く。心の一つが、割れたように何かが入り込んでいる。ねえ、待って。今動かしているのは私じゃない。私じゃないよ。

だけど、身体は自ら意思を持ったように、動き続ける。バッドを持って、ずるずると引きずって、体育館に戻る。

ふと窓ガラスに映った自分の顔を横目に見た。

ぎらぎらと目を光らせ、口元を最大に引き上げて、不気味に笑う、見たことのない自分。

その顔は――悪魔のようだった。

乗っ取られたのだと気づいたときにはもう遅かった。

千秋はゆったりとした足取りで、壇上で一礼する荒井に近づいた。

階段を上って、生徒全体を見渡せる位置に立つと、体育館に集まる全ての人々が彼女の存在に気付く。その顔は、戸惑いや疑問に染まる。

善行は呆然と立ち尽くして、状況を理解するのに時間を要しているようだった。お願いだから、逃げて。

そんな言葉さえ、放つことは許されない。嫌だ。嫌だ、いやだいやだいやだ!

そうして、千秋はバッドを真上に目がけて振り上げる。読み上げるためにつけられた照明が割れて、耳障りな音が体育館全体に響き渡る。

「米倉!どうしたんだ!」

事情を知っている善行でさえ、気が動転するほどの出来事。咄嗟に彼は照明から逃げたものの、その目には怯えが混ざっていた。背後で生徒の悲鳴が聞こえる。慌てて逃げ出す生徒が続出して、教師もどうしていいか分からずあたふたしている。

そんな中、千秋は制服のポケットからライターを取り出す。このために、朝ライターを持ち出したのかと思うと、絶望が襲い掛かって来る。全てが、仕組まれていた。

――まずはあいつを燃やし尽くしてやろう

心の中で、汚い声が木霊した。ゾッとして、だけど何も出来ない自分がどうにも歯がゆくて、泣きそうだった。泣きたくても泣けない。そんな状況が、こんなに辛いなんて思わなかった。

スイッチを押して火を灯すと、善行は何をしようとしているのか察したようで、走り出した。

そして、ライターを取り上げようと千秋の手を掴む。しかし、今は悪魔の身体であるため、尋常ではない力が作用していた。

一瞬でねじ伏せられた善行は床に倒れ、千秋が馬乗りになる。その手に持つのは、ライターではなくバッドだった。

殴られると悟った善行は咄嗟に足で千秋を蹴り飛ばし、起き上がった。バッドを取りあげ、そして。

自分を、殴った。

「――ッ!?」

常軌を逸した行動に、千秋は目を見張り、そして駆け寄る。随分と勢いよく殴ったため、頬が腫れている。これでは、きっと痣になってしまうだろう。

千秋は泣きそうな顔を浮かべてその頬を見つめた。善行の手からカランコロンとバッドが落ちて、地面を転がる。

善行が微笑んで痛いはずの頬を撫でた。

それと同時の事だった。千秋は自らの意思で善行に駆け寄り、涙を浮かべた。

そして、気づく。千秋の身体が、ちゃんと動くのだ。千秋の意思によって。もう、何処にも悪魔の気配がない。

どうして。

『ははっ……俺とこの女の心に隙を作って乖離させたか……なかなか面白いことをするものだ』

何処からかそんな声が聞こえて、千秋は目を見張った。あの咄嗟の判断で、行き当たりの行動で、この結果を招いたなんて。

目の前で自信満々に笑う善行を見て、千秋はぐっと涙を堪えた。胸が温かい。こんな、身を挺してまで、なんて。

「……ほら、早くいかないと先生たちに捕まるよ。逃げて」

小声でそんなことを言われて、千秋は結局泣いてしまった。拭うこともせずに、駆け出す。

心が、ぐちゃぐちゃだった。

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