第8話 涙の訳
火曜日。それは、悪魔が唯一この現世から姿を消して、契約者が自由に行動できる日らしい。果たして彼女は、こんな日くらい、好きなことが出来ているのだろうか。善行はそんなことを考えながら、学校へと向かっていた。
日差しの強い朝、出かけ間際に見た天気予報によると、最高気温が三五度を超えるとのことだ。こんな猛暑日だが、明後日から夏休みに入るため、生徒たちはもはや意地で登校していた。
生徒会長である善行は、義務感で登校しているが、さていつ心が折れるやら。早く冷房が効いた部屋に入りたい一心で、見慣れた道を早足で進んだ。
さあて、いつもより早めに登校したし、溜まった仕事をしなければと社会人よろしく思考回路を満たしていると、校門が見えたあたりで違和感を覚えて立ち止まった。
部活で朝練がある生徒以外はまだいない早朝七時半に、見えてはいけない人影が見える。見つかってしまっては、何やらまずいことになってしまいそうな、人物だ。
華奢な身体と、陽の光に反射して輝く黒髪はまるで人形のようだ。米倉千秋はうつむき加減に佇み、その手にはいつもの本を持っていなかった。
やはり、言っていた通り火曜日は自由なのか。
そんな事を他所で考えながら、しかし善行は首を捻る。
自由が利く日に、どうしていつものように学校に来ているのだろう。だって、彼女は停学処分の身なのだ。見つかったら今度はどんな処分が下されるか、きっと分かっているはずなのに。
そうは思いつつも、善行はさも当たり前のように彼女の前に現れると、声をかけた。
「おはよう、米倉さん」
「……おはようございます」
おお、いつもは無視されるのに今日は返してくれた。やっぱり、悪魔の目があるのとないとのでは随分違う。
米倉千秋という女性について、ここ二週間ほどで関わった記憶と、生徒たちの噂や評価で掛け合わせて見ると、何処までも無機質なものになってしまう。人形とは言い得て妙で、何処からどう見ても個性がない人間だった。
そんな彼女は、唯一個性を押し出せる火曜日はどう過ごすのだろう。如何せん悪魔との契約を切ると豪語してしつこく付きまとったら、塩対応、振られっぱなしと散々な扱いを受けたので、善行は少しの事でも気になるようになってしまった。
「今日は自由の日なんだろう?どうして学校に?」
「自由の日だからこそ、学校に来たんです」
「授業を受けるために?君は一年生だから知らないかもだけど、夏休み直前は短縮授業であんまり勉強できないよ」
「そんなことは知っています、余計なお節介です」
米倉千秋メモ、いち。彼女は毒舌。
「じゃあどうして?」
「………………………その」
「やけにタメるね、もしかして僕に用事?」
「そうです。どうして分かったんですか」
「いつもあれだけアピールして逃げられてるのに、突然会話できるようになったら分かるんじゃないかな……」
正直お節介男の名を捨てて心をぽっきり折ってしまいたいくらい、ぞんざいに扱われていたのである。人は無視をされ続けると、弱くなってしまうらしい。
どうやら彼女にも思うところはあるらしく、わざとらしく視線を逸らされた。まあ、細かい事は気にしないので、善行はいいよと頷くと、不意に千秋の腕を掴む。
驚いた千秋は目を見開いて、掴まれた腕を凝視した。この暑い中、千秋の腕は病的なほどに白く、汗の一つもかいていない。女子とはみんなこういうものなのだろうか。
善行はそのままこっそりと言うには堂々とした足取りで、しかし千秋を庇うように歩き始めた。つられて彼女もされるがままに歩く。
「先輩?……もしかして、誘拐ですか?」
「どうしてそうなる。いくら毎日来ていたからって、君は停学処分の身だぞ?見つかりにくい所に移動しようと思って」
そう言って二人がやって来たのは校舎裏だった。ここなら滅多に人も通らないし、日陰だから暑さもしのげる。
「それで、話って?僕に手伝わせる気になった?」
「まさか。むしろ、それで……」
千秋は口ごもって、俯いてしまう。離した腕は宙ぶらりんのまま、酷く申し訳なさそうに揺れる。
善行は彼女が話してくれるまで待とうと、立ち尽くす。地面ばかりを見つめる千秋を観察すること数分。ようやく口を開いてくれた時、あの虚ろな目に力が漲っていた。
「聞いてください。先輩のここ一週間の行動で、悪魔が目をつけました」
「……うん?つまり?」
「今後、貴方を巻き込むと言っているんです。だからあれだけ言ったのに」
「へえ、そうなんだ。まあそうなるよね」
善行は涼しい顔をしてうんうん頷いた。あれだけ命令の邪魔をしていたら、極悪非道な悪魔に目をつけられたって可笑しくない。まあ、これで自分も対象に入ったということで、何か進展があるかもしれないと能天気に考えていたら、目の前で音が鳴った。
何事かと確認するより、右頬がじんじんと痛み出す。ようやく千秋に叩かれたことを理解したとき、目の前の彼女は泣きそうだった。ああ、こんな顔をするんだなと初めて見る表情に人間らしさを覚えた。だけど、彼女はいたって真剣だった。
「どうしてそう、軽く捉えるんですか。これは一大事なんですよ。貴方は、これから悪魔、もしくは私の手を介して命の危険に晒される可能性が出てきたんです」
「そうだね」
「命だけじゃない。社会的な立場や、家族、自分の大切なもの。それらが、何らかの手によって悪魔の思い通りに壊されるかもしれないんです。私だって、学校という集団生活で、立場を壊されて、滅茶苦茶で……」
「うん。……うん」
善行は、頬が痛むのも気にせずに、目の前の少女の言葉に必死に頷いた。そして、頭を撫でる。もう、大丈夫だと。これからは、一人で戦わなくていいんだと。そんな意味を込めて、優しく頭を撫でて、心を落ち着かせようとした。
すると千秋は堰を切ったように泣き始めた。ほろほろと流れ続けるその雫が、どんな思いで流されているのか分からない。自分の身を案じての涙だったら嬉しい。今までの辛さを思い出すのなら、代わりに僕に気を逸らしてほしい。だって、それだけ頑張って彼女に近づいたんだもの。
「どう、して……そんなに、危機感ないんですか……」
「そんなことはないよ、結構やばいなとは感じてる」
「全然そんなふうには見えない……」
「ごめん、その危機感よりも、ずっと上回る感情が僕を支配しているんだ」
善行は撫で続ける手を止めて、今度は両手で千秋の右手を包んだ。その右手が、善行よりもずっと熱いことに気付いたとき、嬉しくなった。
ほら、君はもっと感情的になっていいんだ。
「君をようやく助けられる。そう思うと、自分なんてどうでもいいかなと思うんだよね」
「悪魔に狙われて喜ぶなんて、とんだドМですね」
そんなことを言いつつ善行の手を振り払わない千秋は、少しだけ心を開いてくれたということでいいのだろうか。
「契約して、三年です」
「そんなに経ってるんだ」
「その間、ずっと誰にも言えずに、ただひたすら悪魔の言いなりになっていました」
「されるがまま、か」
「はい。……本当は、友達を作りたかった。遊びたかった。もっと勉強したかった。恋人も欲しかった。イベントに参加したかった。やりたいこと、全部我慢してきたんです。耐えて耐えて、死ぬまでだと言い聞かせてきました。そんな私に、解放をくれるのですか」
「当たり前だろ。僕が、必ず君を助けてやるよ」
たいして進んでいないこの道。悪魔に自らも対象にされたという、良くない知らせ。だけど、そのおかげで彼女に近づけたのなら、それも進んだことになるだろう。
善行は、こっそりと笑うと、この少女の未来に、自分を重ね合わせて思い描いた。
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