第7話 道連れ

契約してしまったものは仕方ない。それを承知のうえで、自分は願いを聞いてもらったのだから。

米倉千秋は、心の中で、そう言い聞かせた。何度も、何度も。悪魔の書に命令が下された時、悪魔と会話をする時、周りの悲痛な顔を見る時。

どんな事があっても、抗わない、抗えない。何故なら、契約した時点で自分は悪魔の人形となり得たのだから。だから、感情を押し殺せ。全ては悪魔のために。悪魔の、ちっぽけな余興のために。

そう思っていたのに。

だのに、これは一体何なのだろう。

千秋は普段押し殺した感情を見事に現し、顔を歪ませた。目の前にあるのは、自分の机。もっと詳しく言うのなら、停学処分の身に関わらず、学校へとやって来て、教室に入ったときに目に入った自分の机。そこには、大きな紙が貼られていた。中央にでかでかと、達筆で書かれた文字はこうだ。

「君を助けたい。連絡先を教えて」

読み上げた千秋は眉間にしわを寄せて、背後に居るであろう悪魔に意識を集中させた。これを悪魔が見たらどう思うだろう。本に、命令が下ってしまうのではないか。脇に抱えた本を少しだけ持ち直して、千秋はその紙を捨てた。これを書いた犯人は分かっている。もちろん、あのお節介男として有名な生徒会長、荒井善行だ。

実のところ、こういったことは最近頻繁に起きていた。

停学処分の身であるのに、命令に従って登校した千秋を見かね、教師に叱られているところを彼が庇って来たり。

部活の邪魔をしてやろうと倉庫内の道具をぐちゃぐちゃにしてやると、後から彼が直しに来て何でもないことのようにしていたり。

その日の帰り際、命令通りに道路に飛び出して怪我を負おうとすると、彼も飛び出してきて助けてきたり。

火曜日、しっかりと迷惑だから関わらないでと言ったはずなのに、むしろそれで火をつけたかのように彼はことあるごとに千秋の目の前にやってきた。まるでストーカーのようだ。うわさに聞くお節介男の執着心を侮っていたとしか言いようがない。

千秋はゴミ箱に投げ入れた紙を少しだけ見やると、すぐに窓に視線を移した。

関わってしまったら、最後、彼にも危険は及ぶ。生半可なもので済むはずがない。きっと、命に関わる事だろう。

だからこそ、避けているのに。

まるで今日も分かっているかのように待ち伏せて、あんな紙を張り出して。

勘弁してほしい。迷惑なのだ、何もかも。たかだか少し話をしただけなのに、知ったかぶって、人の領域にずかずかと入り込んでくる。

千秋はそんな人間が大嫌いだった。

「部長、生徒会長が居ないようですが」

ふと、開け放たれた窓から風を感じていると、下の方からそんな声がした。興味本位で様子を伺うと、校庭で三人の男子生徒が集まっていた。生徒会長、とは荒井善行の事に違いないが、彼は部活に入っている様子はない。では一体どうして彼らは唸っているのだろう。

「いや、すぐに来ると言っていたから大丈夫だ。もう少し待っていてほしい」

部長と呼ばれた掴みどころのない雰囲気の男子生徒はそう言うと、二人に棒アイスを差し出した。無言で食べ始める三人に、千秋は少しだけアイスが食べたいと思ってしまった。だって、いくら感情を殺した人形だとしても、暑いものは暑いんだもの。

そんな時、ナイスタイミングで校門の方から声がする。

「おーい、聡!連れてきた!」

その声は、最近よく聞く、というか聞き慣れてしまったものだった。善行は早足でアイスを貪る三人の下へとやって来ると、羨ましげに地団太を踏んでいた。

「アイスッ!僕も食べたい!」

「お前の分はないよ、買って来たら?」

「せっかく協力してやったのにどうしてそういう扱いなんだ!」

キィキィ怒る善行は、いつもの落ち着いた雰囲気は何処にもない。部長と友人なのだろうか。なんだか素の善行は、親しみやすくて、少しだけ可愛い。

そんなことを思って千秋はハッとなる。自分は今、何を考えているのだろう。まさか、そんな。顔が青ざめていくのが分かって、首を振る。すると、校門の方からとぼとぼと遅れてやってくる女生徒を見つけた。

長い黒髪と、俯いたその視線はいかにも根暗といった雰囲気だが、彼女を見てアイスを食べていた男子生徒たちは途端に嬉しそうな顔をした。

「よく戻ってきてくれた!」

「さすが生徒会長!」

「これで部活は廃部になりませんね。言っても聞かないでしょうが、二度と登校を拒否しないように」

「……はい。すみません」

善行の言葉に、女生徒はしょんぼりと更に俯かせた。だが、そんなのは無視して男子生徒は女生徒を取り囲み、歓迎していた。

少しだけ距離を取った部長と善行は、その様子を見て満足気だ。

「お前に頼んでよかったよ、やっぱり」

「そりゃどうも」

「お人好しっていうのも、たまには役に立つものだな」

「微妙な褒め方どうもありがとう」

あまり状況はよくわからないけれど、見ている限りでは、善行があの弱小部を救ったということでいいのだろうか。

お節介、お人好し。校内の彼の評価はこれに尽きるが、しかしそれは確実に誰かの役に立っている。迷惑であるかもしれないけれど、それでも感謝されている。

それって、実は凄い事なんだ。千秋はぼんやりと、無機質に考え込んで、やがて背後の気配に慄いた。

振り返ることは許されない。しゅるしゅると、黒い靄が自分を包んでいく。しかし、抵抗してはいけない。抵抗すれば、人形よりも恐ろしい未来が待ち受けている。

されるがまま、黒い靄を身にまとわせた千秋は、首元で吐息を感じて背筋を凍らせた。

居る。

今、背後に。

「……どう、したんですか」

恐れをなしていると気取られてはいけない。努めて無感情に問うと、首元にまとわりついたそれは、答える。

『面白いものを見つけたと思ってな』

「……どんなものですか?」

『ククッ……恍けなくても、お前なら分かるだろう』

ざらざらとした声が脳内に木霊する。窓の外の、彼を見て、千秋はサッと顔色に赤から青へとグラデーションを描いた。

無意識に背後を振り返る。怪物と、目が合う。教室全体を呑み込むように、それは佇んで、千秋と向かい合っていた。

このままキスでも出来そうな距離を取って、悪魔は囁く。

『荒井善行。本当に面白い奴だ。お前もそう思うだろう。だから、俺は決めたよ。あいつを道連れにする』

だから、迷惑だと言ったのに。

ぐるぐると様々な思いが渦巻く中で、千秋はただただ、そんな言葉ばかりが思い浮かんでいた。

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