第6話 火曜日
逃げられた。脱兎の如く、素早いスピードで。女性に逃げられるというのは、たとえどんな状況でもこたえるというのを学んだ善行は、次の日の火曜日、ため息だらけの生徒会室で昼を過ごしていた。
米倉千秋が気になって仕方ない。おかげで昨日、口走って本、つまるところ悪魔と彼女を切り離すと言ってしまった。しかも後々考えてみたら、それって結構ヤバい事なんじゃ?と気づいてしまう。悪魔と関われば、自分もどうなるか分からない。もしかしたら、呪われるかも……。危険である事に変わりはないのだけれど、それでもまあ、そこは持ち前のお節介力でカバーをした。彼女を助けたいという気持ちは本物なのだから。
だがしかし、その当の本人に避けられてはまったく意味がない。契約云々以前に、何も出来ないじゃないか。
そんなこんなで、昨日バッドで打ち付けられた善行は、千秋に逃げられた。どうやら彼女は窓ガラスを割った罰として、停学処分になったらしい。そろそろ夏休みも始まるこの時期、次に彼女が登校するのは九月で間違いない。そう思うと、彼女に昨日の事を聞こうにも聞けないこの状況はどうにも歯がゆかった。
「大丈夫かな、米倉さん」
母お手製の弁当をつつきながらそんな独り言を漏らす。ちなみにタコさんウィンナーは最初に食べてしまった。好きなものは最初に食べてしまうのは、兄妹が居るせいだろう。今はもっさりとした小さなロールキャベツを咀嚼した。
弁当を食べ終わったら、夏休み以降に行われる文化祭の書類をまとめなければならない。日程と、時間と、部活の出し物と……なんて色々考えて無理やり昨日の事を忘れようとして、善行は弁当を食べ終わった。さて、パソコンの電源を入れなければと手を動かした時だった。
普段自分以外は開けることのない生徒会室の扉が控えめに動いて、誰かが滑り込んできた。
驚いた善行はパソコンに伸ばした手をそのままに、目だけをその人物へと移す。
すると、そこには昨日見たばかりの少女の姿があった。
「……米倉さん?」
素早く扉を閉めて、室内に誰も居ない事を確認した米倉千秋は頷くと、つかつかと善行に歩み寄った。昨日は逃げたり、今日は近づいたり。この子は一体何がしたいんだ?と根本的な疑問が頭を埋め尽くすが、それどころではない。停学処分の彼女が学校に来ているのだ。これはかなりマズい。
「君、停学処分になったんじゃ……、大丈夫なの?」
「……たぶん。誰にも見つからないように来ましたから」
「見つかったら大丈夫じゃないよ……」
善行はため息をついて、扉越しの廊下に視線を移す。隣は職員室なのだから、見つからないとは言い切れない。たとえ、自分以外滅多に人が訪れない生徒会室だとしても。
「用件が済み次第、すぐに帰ります。だから大丈夫」
まあ、あの逃げの速さなら大丈夫だろうよ……。思わずそう言ってしまいそうになった善行は、彼女の言う用件が気になって首を傾げた。そう言えば、今日はいつも持っているあの本が見当たらない。一体どうしたのだろう。
「用件って?」
「はい。……荒井先輩、眼鏡を壊したこと、そして昨日バッドで打ってしまったこと、本当にすみませんでした」
深々と、千秋は頭を下げた。ショートボブの黒髪が揺れて、綺麗だな。……いやいや、そうではなくて。
善行は突然の事に固まり、頭を下げ続けたままの彼女を凝視した。そして、ハッとなると後ずさった。
「いや、いやいやいや、そんなに気にしないで。前にも言った通り、眼鏡はスペアがあるし、昨日打ったところはもう痛くないし」
痣にはなったけれど、それでも完治に時間はかからないだろう。本当に、軽い怪我だったのだ。
それよりも、彼女が素直に謝って来たのが意外で、そこばかり気になってしまう。彼女はもっと、すました人間かと思っていた。命令とはいえ、自分の意思じゃないから、謝る必要はないでしょ、とでも言うような、そんな人間に見えた。
「だからもう、頭上げて。ね?」
言われて千秋は頭を上げる。いつもと違って、その瞳は無機質には見えなかった。
「そうですか。では、失礼します」
だがドライな所は変わらないらしい。すぐに踵を返して帰ろうとする千秋の腕を、善行は慌てて掴んだ。昨日の言った言葉を覚えているうちは、このままおめおめと帰すわけにはいかない。
「待って、もう少し話をしよう」
「何を話すというんですか。何もないです」
「ある、絶対にある。昨日の事、忘れてないよね」
そう言うと、千秋はピタリと足を止めた。そして、強引に掴んだ手を振り払った。その目は警戒心に満ちていたが、それでもその瞳の奥に何やらいつもと違ったものが見えて、善行は意気込んだ。これなら、話を聞いてくれそうだ。
「僕は君を助けると言ったんだ。本と、君を切り離す方法を一緒に探そう。君もこのままじゃ嫌だろう?」
「……とんだお節介男ですね」
千秋は吐き捨てるようにそう言うと、善行を蔑んだ。お節介男。そんな言葉を、善行は何度聞いたか覚えていない。しかし、どうしてそれを彼女が知っているのか気になった。
「どうしてそれを?」
「校内で有名ですよ、私の次にね。お節介で、お人好しで、困っている人を見ると放っておけない、他人の領域にずかずかと入り込んでくる生徒会長が居ると」
「そうなんだ……それは知らなかった。直接言われたことはあったけど」
「言われて直そうとは、思わなかったんですか」
「え、別に……。だって、悪いことしてるわけじゃないし」
「偽善者……」
呆れた千秋は首を振ってため息をついた。大袈裟なその態度は、明らかに善行をバカにしていた。
だが、善行はそれでもめげずに千秋に近づいた。こんなことでへこたれていては、真実に近づけない。
「僕は君を助けると決めた。拒否権はないよ」
「それが自身に危険を及ぼすのに?」
「まあ、それはしょうがない。それより僕が一度決めたことを曲げるほうが耐えられない」
「ふうん……」
「そういえば、今日はあの本、持ってないんだね」
千秋の手にいつもあるものがない。それだけで妙に違和感を感じるのは、それがいつも彼女の傍にあったからだろう。ない方が良いのに、慣れとは恐ろしいものだ。
「火曜日は、悪魔が唯一、地獄に帰る日だから」
「え?」
善行は耳を疑った。悪魔が唯一地獄に帰る日?だから本を持っていない?それってつまり、悪魔は今、契約期間中に関わらず、彼女の傍に居ないということだろうか。
「それって、つまりは火曜日だけ自由に行動できる日?」
「そういうことになりますね。限度はありますけど、ある程度は自由です」
だから停学処分の身に関わらず、ここまでやって来て善行に謝ったのだろう。通常なら、こんな事すらしない。
なるほど、火曜日が自由の日なら、こちらとしても対策のしようがあるのではないか。手伝いを申し出た直後にこれまたいい情報が入って来たと、善行は考えを巡らせていると、千秋は今度こそ踵を返して生徒会室を出ていこうとする。
「あ、ちょっと」
「待ちません。用件は終わりましたから。それよりも、これ以上私に近づかないでくださいね。迷惑ですから」
音を立てて立ち去る千秋に善行は茫然としながら、しかし内心ではほくそ笑む。
近づくに決まっているじゃないか、折角希望が見えてきたのだから、と。
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