第3話 水曜日、午後四時

蒸し暑い。とにかく、蒸し暑かった。

七月に入ったとはいえ、まだ梅雨も終わったばかりのこの時期、日本はとてつもない蒸し暑さに見舞われる。湿気の多い国ならではの気候に、善行はうんざりした。

それに加えて、今いる場所は冷房どころか風通しの良い窓すらない体育館。入り口だけが唯一の外と繋がる場所と言っていいほどで、しかし外に繋がったところで風など皆無なのだから、この暑さはどうにもならない。きっと海外ではからりと晴れた心地いい暑さがあるはずなのに、国によってこうも違うのだから理不尽だと思う。

そんなことを悶々と考えながら、善行はバレーボールのコートを作るため、支柱を立て、ネットを張り、固定する、という作業を黙々とやっていた。額から一筋の汗が流れて、首にかけたタオルで拭う。

「みんな、あともう少しだ。頑張れ」

ふと一息ついたときに、周りの生徒がしんどそうにやっているのを見かけた善行は、そうやって声をかけた。後から気だるげな返事が聞こえてきて、苦笑する。さすがに、こんな暑さの中、元気が出せるわけもない。

球技大会の前日、水曜日の放課後。運動部と生徒会は総出で明日の大会に備え、準備をしていた。この暑さの中、一人一人が面倒臭そうに文句を言いつつ、黙々と作業を続けること三十分。

バレーボール、バドミントン、卓球、バスケットボール。体育館でやるこの種目は、この四つ。あと少しで終わりそうなものの、皆のやる気は急降下する一方で、終わりそうな気配は何処にもない。

善行もバレーボールの何本目か分からない支柱を立てていると、だんだんイライラしてきた。暑いと感情が昂りやすい。

ネットを両サイドにひっかけ、ピン、と張る。紐をしっかり結んで、たるみがないか確認すると、ようやくバレーボールのコートは完成した。

「ふう」

額の汗を腕でがさつに振り払って、眼鏡を直す。

そんな時だった。

何処からか視線を感じて、善行は振り返る。

しかし、体育館内では生徒たちが嫌々準備をしている。こちらに気を向ける生徒など誰も居なかった。

きっと気のせいだろうとひとりでに納得した彼は、生徒の顔を見て、ため息をついた。これ以上続けさせるとまずいな。

「みんな、一回休憩しよう」

でないと、君らどんどん作業が遅くなっていくもの。

心の中でそう呟くと、各々がホッとしたようにこちらを見て、喜んでいた。

「さすが生徒会長!話が分かるぅ~」

「そりゃどうも。みんな、ちゃんと水分補給して、十分後に再開しようか」

手をパンっと叩いて休憩開始の合図を送ると、生徒たちは先ほどまでのやる気のなさは何処へ行ったのやら、各々が体育館内の隅へと急いで移動し始めた。

善行も皆に倣って、入口の脇へと移動する。あらかじめ置いておいた水筒を手に取ると、どこぞのオヤジのようにぐびぐびとお茶を腰に手を当てて飲んだ。

このうだるような暑さの中では、魔法瓶といえどすぐにぬるくなってしまうのか、喉を通るお茶はやけにねっとりとしている。

それでもないよりはマシ、とでもいうようにひとたび飲み干すと、善行は目の前に現れた少女に気が付いた。

――あれ、この子って。

先週、階段から転げ落ちてきた子だった気がする。相変わらず虚ろな目で、美しい顔を汗ひとつすらかいていない様子でさらけ出していた。体操着だらけのこの空間で、きっちりと制服を着こなす彼女は何処か目立って見える。

脇に抱えた本を見て、善行はハッとする。慌てて腕時計を見ると、四時を指していた。そういえば、先週四時にどうのこうのと言っていた気がする。

「えっと……どうしたの?」

兎にも角にも、目の前で立ち尽くされては居心地が悪い。善行は優しい口調で問いかけると、少女は無言のまま歩み寄って来た。

首を傾げて、善行は少女の行動を見守る。距離が縮んで、少女の顔をまじまじと見る。見れば見るほど、整った顔立ちをしていた。陶器のような白い肌、薄い唇、艶のある髪。きっと彼女に無表情を取っ払ったら、そして噂になっている奇行をなくせば、さぞかしモテる事だろう。

「荒井善行」

「は、はいっ!?」

突然フルネームで呼ばれてびくりと肩を震わせる。この暑さの中、彼女に呼ばれることは、酷く寒気が立つものだった。

冷徹で、無感情で。今にも恐ろしい事を言い出すのではないかとビクビクしていた善行は、少女の言葉で拍子抜けしてしまう。

「眼鏡」

単語。たった、それだけ。

眼鏡、とは。

視力を補ったり、有害なものから目を保護するもの。

いやいや、そうではなくて。

頭の辞書の眼鏡を読んでいる場合じゃない。

少女は真剣な顔をして、左手を善行に差し出していた。

たった一言の、ただそれだけの言葉だというのに。善行は何となく、少女の言わんとしていることが分かった気がして、自分の眼鏡を外した。

そして、少女の掌に乗せる。

――こういうことだよな、たぶん。

有無を言わせぬ少女に負けて、易々と眼鏡を渡してしまったわけだけれど、一体どうするのだろう。

ぼやける視界の中で、少女をじっと見つめていると。

彼女は受け取った眼鏡を地面に落とし。

それだけならまだしも、その華奢な足で、踏みつぶした。

「ちょっと!?」

大声をあげて少女の腕を掴む。しかし、それでも少女の足は止まらない。まるで憎い相手を踏みつけるかのように、ガシャン、ガシャン、と音を立てて眼鏡を踏みつぶす。

きっとそれは、一分にも満たない時間だった。

だけど、地面に転がった眼鏡の残骸は、見るも無残になっていて、善行はぽかんと口を開け、この状況にどうしていいか分からなくなる。

遠くで生徒たちがひそひそと話をしているのが聞こえて、少しだけ意識を取り戻す。

「うわ、生徒会長が犠牲になってる」

「今度は眼鏡踏みつぶしたわけ?こないだ花壇ぐちゃぐちゃにして、まだ気が済まないんだ」

ああ、そうか。花壇を荒らしたのはこの子だったのか……、とどうでもいいことを考えていると、少女は何も言わずに踵を返した。

善行は呼び止めようとして、少女に近寄るが、何か違和感を覚えて立ち止まる。

ぼやける視界の中、少女の頭元から、黒い影が見えたのだ。

その黒い影は、大きな顔をニヤリと歪ませると、瞬時に消える。

「何だ、あれ……」

そうこうしているうちに少女は瞬く間に消えて、後に残ったのは粉々の眼鏡と、うだるような暑さだけだった。

しゃがんで愛用していた眼鏡を見つめ、善行はため息をついた。

水曜日、午後四時。

それは、最悪の時間だった。

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