第36話「地獄絵」

 …正直、わたしは困っていた。

 ホテルのオーナーである以上、お客様の好意からいただいたものや

 意向にはなるべく沿うようにするのが基本である。

 しかし、最近もらったこの絵に関しては、その例外として処分を見当

 せざるをえないとわたしは感じていた…。

 その絵は、おどろおどろしい赤と黒の混じった色で空が描かれ、稲光

 の白い線がいく筋も暗い切り立った崖へとのびている。

 そして黒い地面の下でうごめく人々は、ふくれた腹とがりがりにやせ

 細った体躯で叫び声を上げながら逃げ惑い、その背後にはおぞましい

 表情をした鬼やたちが金棒を振り上げ、へびや昆虫を思わせるような

 化け物らとともに彼らに危害を加えていた。

『…地獄絵図です。これは、わたしの生涯の最高傑作であると自負して

 おります。客間に飾れば良い話の種になるのではないでしょうか?』

 そう言うと、画壇の間で巨匠と呼ばれる彼は一つの部屋に絵をかけた。

 …だが、それが問題となった。

 確かに、絵の評判はホテルに人を呼び寄せた。

 もとより、有名画家の絵を飾る事で名を売ってきたホテルだ。

 有名人の、しかも故人の遺作ともなればその評判は口伝いに客を呼ぶ。

 しかし、それからしばらくして部屋に奇妙な噂がたつようになった。

 『この部屋で寝ると悪夢を見る。』

 『絵画の中で鬼に追いかけ回された。』

 『汗びっしょりで起きると、まだ後ろのほうで鬼の笑い声がした…。』

 そうして噂は噂を呼び、とうとう件の一室だけではなくホテルそのもの

 にまで噂がたつようになってしまうとこのホテルの評判はあっというま

 に落ちていった。いままで居着いてくれていた客も、ホテルの雰囲気が

 暗くなったと言う理由で出て行き、経営はますます苦しくなった。

 …そう、全てはあの絵が来てからのことだった。

「もし…あなたはもしかして、あのホテルのオーナーさんではないですか?

 お久しぶりですね。」

 そうして駅のホームで声をかけてくれたのは、かつてわたしのホテルに

 自身の作品を寄贈してくれた絵画制作を趣味とする名門寺の住職、幽庵

 先生であった。

「…いえいえ、絵の方は趣味ですから。それを購入してくださる方がいて

 その方々に先生と呼ばれているだけです。」

 そういって、照れたように笑う先生はわたしのに向き直り、こう尋ねた。

「どうやら何かお困りの様ですね。もし私でよければ相談に乗りますが…。」

 そう語る先生の顔は温和そのもので、わたしはその雰囲気にのまれてか、

 いつしかすべてを語っていた…。

「ふむふむ…故人の『地獄絵』ですか…。でしたら、ちょうど帰りですし

 こう見えて絵心もありますから、少しその絵を拝見させてもらいましょう。

 …何ぶん、見ない事には何もわかりませんからね。」

 そうして、わたしは先生にうながされるままに、件の一室を案内すること

 となった。部屋は噂のために手入れがあまり行き届かず、カビ臭くなって

 おり、壁中央にかかる絵画により陰惨な雰囲気を与えていた。

 しかし、先生はその雰囲気をものともせずに絵に近寄るとこう言った。

「ほほぉ…これですか。確かに、恐ろしい絵ですな…。」

 そうして、温和な顔を崩さない先生は、とっくりと絵を眺めてから

 わたしのほうに向きなおると、こう尋ねた。

「墨と硯…それに筆を貸していただけますか?」

 わたしは不思議に思いながらもフロントに電話すると先生の頼んで来た

 ものを用意する。すると、彼は風呂場にある水道から少し水をもらうと、

 わたしに説明をしながら硯に墨をすりはじめた…。

「絵心のあるものが絵画を描くと、まれに絵に魂が宿ることがあります。

 それは人に訴えかけ、ときには害を与える事もあります。…ですが、

 それをきちんと理解し、どこに問題があるのかを取り除く事で、絵は

 再び本来あるべき輝きを取り戻すのです。」

 そうして、先生はたっぷりと筆に墨を含ませると、ふいに絵に向き直り、

 そして止めるまもなく、あっというまに壁の絵に何かを加えた。

「…おそらく、こうすれば良かったのです。救いの無い絵だからこそ、

 絵の人々はこの部屋の人間に助けを求めていたのでしょう。」

 そうして、壁にかけられた絵をみた私はあっと声をあげた。

 亡者たちの集まる場所。そこに小さな一人の青年が描かれていた。

 彼は困ったようにあたりを見渡すような仕草をし、ここがどこだか

 わかっていないようにすら見える。

 …そのときだった。

 絵画の端から何か光る物がするすると画面の中央へと出て来る。

 その姿があらわになったとき、わたしも絵画の青年と同じく大きく

 口を開けていた。

 …そう、それは巨大な観音様であったのだ。

 その途端、亡者も、そして鬼までも観音様をあがめだした。

 すると観音様は彼らに柔和な笑みを返すと、青年をかかえて再び空へと

 戻って行く…。

 …気がつくと、絵画は動かぬ元の絵に戻っていた。

 しかし、そこにいる亡者や鬼の表情はどことなしか柔らかくなっており、

 絵全体もあの恐ろしい雰囲気がまるで嘘のように消えていた。

 それはまるで、あの観音様があらわれたために彼らの未練が断ち切られた

 ように…。それを感じ取ったとき、わたしは思わず先生に聞いた。

「あの…先生の描かれた絵の青年。あれはいったいどなたなのでしょう?」

 すると、先生はあの観音のように柔和な笑みをつくるとこう言った。

「なに、わたしの檀家さんの坊ちゃんですよ…。

 みなさんからは『タケシのお兄さん』の名前で通っております…。」

 そう言うと、明るくなった部屋の中で住職は楽しげに笑ったのであった…。

 

 

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