最高神–3



 水が流れる。


 身体の中を水が流れる。


 ──違う


 

  


















「ぷはぁ…!」


 渦巻く水音とともに、リュシャは水面に顔を出した。


(ここは!?)


 慌てて辺りを見回す。


 清く澄んだ水だ。

 触れている水は無色透明なのに、水中をみるとまるで春先の草原のように淡い黄緑色をしている。水面はキラキラと光り輝いていて、少し向こうに水辺が見えた。


(この場所、精気に満ちている……。怖いぐらい)


 顔にまとわりつく髪を無造作にまとめる。

 あまりに強い精気のせいで肌がピリピリと痛んだ。


 生きとし生きるものすべてに宿っている精気。人にも、獣にも、タタリにも。

 子供ほど強く、大人になる程に失っていく。人の中には稀に精気を失わず成長していく者がいて、その中でも精気を操り感じられる者だけが呪い師になることができる。


 儀式は失敗したはずだ。リュシャは、突如水盆から湧き出た水に飲み込まれてしまった。

 最後に聞こえたのはサステナの詠唱の声。

 だとするなら、ここは


「おはよう。気分はどうだい?」


 すぐ近くで声がした。

 ギョッとして当たりを見回す。どこにも人影は見えない。


「そんなに焦って動くと沈んでしまうよ。もっと肩の力を抜いて楽にしてご覧」

「!」


 後ろだ!

 勢いよく振り返る。


「こらこら、体を硬くしてはいけないって」


 背後の声が呆れたように言う。

 と同時に、リュシャの身体が水へ沈んだ。

 水面が一気に遠くなる。

 思い切り水を飲み込んで、息ができない。


 ──苦しいっ


 焦って手足を動かすけれど、水面はどんどん遠くなっていく。


「言わんこっちゃない」


 笑いを含んだ声が聞こえる。


「身体の力を抜くんだ、リュシャ・ユグストリ。ここでの息の仕方を覚えるんだよ」


 水の中にいるというのに、不思議と声は良く聞こえた。


「水は流れるもの。誰にも縛られず、誰にもとらわれない。君も身体を軽くし、心を解き放ってご覧。そうしないと、いつまでも水に嫌われたままだよ」

(水に嫌われる?)

「さあ、君自身が水になるんだ」

(あっ)


 ふいに何かが切り替わる感覚がした。懐かしい感覚を、思い出すような。

 身体の感覚が曖昧になり、鼓膜に流れていく水音が蘇る。

 水だ。

 水が流れる。

 身体の中を水が流れる。

 そうだ。そうだった。身体は、奔る水とともに流れとなって、どこまでもどこまでも流れていく。リュシャが水になっていく。


 口の中から最後の空気が出ていった。それなのに不思議と苦しくない。目を開けると水面が見えた。と思ったら身体がふっと、浮かび上がった。

 手も足も動かしていない。

 それなのに身体はするするとリュシャの心のままに水面へと向かう。


 見る見るうちに水面が近くなり、そしてリュシャは水面から顔を出した。


「よく出来ました」


 笑うような声が聞こえる。

 ハッとしてリュシャは顔を上げた。目の前に人がいる。リュシャは息を飲んだ。


 恐ろしいぐらい、綺麗な人だ。


 雪原のような銀の瞳は、時折晴天のように青くなり、水に濡れた髪は柔らかな乳白色を基調に、まるで中に虹を閉じ込めたように光の加減によって色を変える。

 人である、はずがない。


「あな、たは、………最高神ですか?」


 声がかすれた。

 怖いぐらいに澄んだ空気、精気。不可思議な場所。

 リュシャの言葉に青年は、困ったような、申し訳ないような。けれど少し「ざまあみろ」とても思っているかのような顔をして笑った。


「残念ながら、最高神はもういないよ。僕はさしずめ、死にゆく神々の最後の生き残りってところかな?」

「死に、ゆく、神々……?」


 頭がうまく回らない。

 神が、死ぬ?


「ふふふ、人の子はとんでもない勘違いをしてるってことさ。今の僕はただの山神。君は、ただの山神のところに嫁ぎにきたんだよ」








「くっくっ、それにしても君がいなくなった後のあれらの顔と言ったら!笑っちゃったよ」

「ま、待ってください!」


 スタスタと先を歩く青年の後を追いかける。


「やっぱり貴方が最高神じゃないんですか?私の名前を知っていたし、儀式のことも知ってるみたいだし!」


 青年は振り返り、ふにゃっとした笑顔で笑う。


「そんなことないよ。ただの山神さ」

「嘘だ」

「ははっ!手厳しいね」


 2人は木立の中にいた。青年がリュシャをここまで連れてきたのだ。

 びしょ濡れだった服も、髪も、青年が触れると一瞬で乾いてしまった。


「そもそもここはどこなんですか?すごい、不思議な場所ですが……」


 木立には、淡い色彩の霞のようなものが立ち込めていた。桃色や若草色、金や銀に煌めきながら2人の間を漂っている。

 リュシャは青年の背中を見失わないよう駆け足で追う。

 青年は随分ゆったりとした衣を着ていた。村の長老が着ていそうな、裾の長い衣に腰留めをつけ、前は踝程度に、後ろは衣が地面につくぐらいの長さにしている。その上に袖の長い羽織をひっかけ、煌めく長髪はゆるく編み込まれていた。

 全体的に無造作だが、本人があまりに整っているので、粗野な印象はまったくしない。


「ここは神域。人の世でいうと東の山の頂上あたりに重なってるのかな」

「貴方は、儀式の様子を見ていたんですか?」

「そうだよ。だって呼ばれたからね」


 リュシャは確信した。

 彼が最高神だ。

 東の山とは聖山シャステナビア。そしてあの時サステナが呼び出していたのは全ての理に通じる東雲の君。つまりこの国の守護神である最高神のことだ。


「向こうはどうなっていますか?あと、あの時の詠唱は成立してるんでしょうか?」

「質問でいっぱいだね、リュシャ・ユグストリ。別に呼び出されたわけじゃないから詳しくは知らないけれど、大丈夫なんじゃないかな?」


 でもどうして彼はそれを否定するのか。


「今はどこに向かっているんですか?」

「どこって、僕らの新居だよ」

「新居?」

「そう。だって君は僕のところに嫁ぎにきたんだろう?」


 立ち止まった青年に花嫁衣装を指差されて、リュシャの頬が赤く染まる。


「こ、これは!あくまで形式的なもので………!」

「そうなの?」

「え、」

「嫁いできなよ」


 青年がぐっと近づいてきた。端正な顔が、すぐ目の前までやってくる。


「かならず幸せにするのに」


 リュシャは反射的に顔を背けた。

 そんなリュシャの反応など意に介せず、真っ白な柳のような手がリュシャの髪をさらう。


「君が来てくれてすごい嬉しいんだ。リュシャ」


 そのまま青年の指がリュシャの頬をなぞる。


「僕が君を見つけたときどれほど心躍ったか、君には分からないだろう」


 身じろぎも出来ずにリュシャは息を飲んでいた。こんな風に誰かに触れられたことなんて一度もない。


「あ、貴方は、本当に最高神ではないんですか?」


 話を逸らすためにそう言えば、青年の目がすっと細まる。


「最高神っていうのはさ、他の神々がいてこその名前だ。そんな名前意味があるか?もう他の神々は皆死の眠りについていて、神は僕しかないのに」


 ハッとした。

 リュシャの視線を受けて、青年が曖昧に笑う。


「神々は……いなくなってしまったんですか……?」

「眠っているのが多いけどねー。そのまま眠りこんでゆけば、やがて自我は無に還り、消えてなくなってしまうと思うよ。僕もこないだまで微睡んでいた訳だし」

「そんな……」

「悲しんでくれるの?」


 青年がふっと笑みをもらす。

 

「気にしなくていいよ。どんなものも滅ぶときはあるんだから。でもちょっとむかつくよね。今まで放っておいたくせに困った途端助けてーって僕のこと叩き起こしてさあ」


 もう少しのところで眠れそうだったのになーと青年が続ける。


「…………」


 リュシャは居た堪れなくて、青年から目を背けた。


「でも、ま!いいんだ」

「……え?」

「ん?」

「い、いいんですか?人の身勝手で、呼び出したり、忘れたりしているのに」

「いいよ。ムカついた分、仕返ししたから」

「仕返し?」


 リュシャが首を傾げると、ひどく楽しそうに青年が笑い声をあげる。そしてひたとリュシャを指差した。


「ん?」


 ん?


「君を貰った」


 ん?


「んんん?」



「君を僕の妻にしようとおもって」

「えっと……それは、代弁者として、ではなく?」

「いつもはね。人に力を貸すときは、僕の依代を準備してもらっていたんだけど、今の人は精気が弱すぎて僕が入ったら死んでしまう」

「はあ」

「ところが君は、神域に入っても生きていられる!」

「みたいですね」

「ああ、愛しいなあと思って」

「ちょ、ちょっと待ってください」

「リュシャ、僕に愛されてくれないか?」


 へにゃりとした笑みを浮かべて青年が言う。

 本当に、本気で心の底からそう言ってる様子に、リュシャは愕然とした。


 途中から会話がまったく成立していない。これが神というものなのか。これならまだ、恐ろしいミュンテ公と話していた方が会話が成り立つ。


(これは、どうすればいいんだ………!)


「君を愛したいんだ」


 青年は、困ったように眉を下げた。


「嫌かい?」

「い、嫌かと言われても」


 はいと答えられる人がいるなら教えて欲しい。


「でも丁度いいことに、契約は成立してるんだ」

「え!?」


 慌てて自分の右手の甲を見る。

 確かに。今まで気づかなかったことが不思議なぐらいはっきりと、神印らしきものが浮かんでいる。


「僕は君を愛し、タタリを祓う。その代わり、君は僕のところに嫁いでくる」


 歌うように青年が言う。


「僕が無理やり介入して君を神域連れこもうとしたから、詠唱をしていた彼は焦ったんだろうね。本当は色々付け足すつもりだったんだろうけど、とりあえず完結させることを選んだようだよ」


 リュシャは水に飲み込まれる寸前の兄弟子の詠唱を思い出した。確かに最後、そんな文言が詠唱の中に入っていたような気がする。


 顔を上げると、青年と思い切り目があった。


「そういうことだから、これから頼んだよ。リュシャ・ユグストリ」


 美しい青年がにっこりと笑った。

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