022

 天気晴朗なれども波高し。出港した直後からペンギン号の揺れはひどかった。〈聖なるデロリアン〉のときとは逆に、今度はサクラが盛大に胃の中身をぶちまけるハメに。しかも海へ吐き出せばよいものを、うっかり甲板を汚してしまったものだから、船員たちに白い目で見られる始末。

 もっとも、一概にサクラばかりを責めるのはかわいそうだろう。本来なら男しかいない船内で、若い女の存在は――胸が平たいとはいえ――目に毒だ。そのため船長の頼みで、なるべく船室にこもっているように頼まれた。しかし、船長自身厄介なことに慣れてしまって自覚がなかったようだが、船の内部はひどい悪臭だった。というのも、船内ではダークエルフの囚人奴隷たちが太鼓の音に合わせ、汗だくになりながら船をこいでいるからだ。ましてや洋上では真水が貴重なので、航海のあいだ一度も身体を洗わないなんてコトは珍しくもない。奴隷ならばなおさらだ。さらに言えば〈西つ国〉自体けっして水が豊富なワケではないので、そもそもめったに風呂には入らないのだが。

 サクラは船べりから海面と大きな櫂を見つめながら、「ていうか、なんだってガレー船なんて時代遅れなものを……帆船だろうとは思ってたけどさァ……」

「言われてみりゃア、船の形は大昔からほとんど変わってねえ気がするぜ。人間グリンゴが〈西つ国〉に入植して以来、捕鯨以外で海へ出なかったからな」

 捕鯨は標的の鯨を見つけたら、小回りの利く小舟を数艘出して追いかける。ゆえに、小舟の速度や強度を上げる改良はいくらかなされてきたが、母船に関しては完全に失念されていたと言っていい。今後ダークエルフを漕ぎ手として確保できなくなったら、また事情は変わってくるのだろうが。あるいは外洋から攻めてきた敵と海戦を何度も経験すれば、おのずと戦艦の改良は進むだろう。そういう意味では、〈西つ国〉は平和だったと言えなくもない。

「ほかの大陸のひとたちはどうしているのかしら」

「ひょっとしたら、海の向こうの世界はとっくに滅びてて、〈西つ国〉まで命からがら逃げ延びた種族だけが、何とか生き延びてるのかもしれねえ。移住以前の話がひとつも残ってねえのは、向こうであったおそろしいコトを、全部忘れてちまいたかったのかもだ」

 サクラは何やらつぶやく。「ここがアメリカなのは間違いない……先にアメリカが滅びたってこと……でも太平洋側からエルフが来たならアジアは……どうして太平洋と大西洋から別々に渡って……ヨーロッパとアジアで分断されてる……?」

「何か気になるコトが?」

「別に。なんでもないわ」

「ごまかすなよ。おれが気づいてねえとでも思ってるのか。女神像を見たときから様子がヘンだぜ。いったい何を隠してる?」

「…………」

「なァ、おれたちは一蓮托生だろ。おれたちの行動に〈西つ国〉の命運がかかってるんだ。おたがいカクシゴトはナシにしようぜ」

 サクラはしばらくだまって海を眺めていたが、やがてポツリとつぶやいた。「……あんたの〈聖なる機関銃〉が使えなくなったのって、もしかしたらあたしのせいかもしれない」

 その突拍子もない告白に、ジャンゴは戸惑わざるをえない。「どういうコトだ?」

 ディドロ効果、とサクラは口にした。

「タイムトラベルのリスクとして事前に検討してはいたのよ。だけどタイムパラドックスが常に起こりうる過去の時代と違って、直近の未来へ行くぶんには問題ないだろうって。でもここまでかけ離れた未――異世界なら、ディドロ効果が起こる可能性は充分にあるわ。ディドロ効果をわかりやすく言い換えると、世界観の統一性を維持する力ってトコかしら」

「世界観の、統一?」

「通常の状態では、ディドロ効果はその時代に本来存在しない外部からの異物――つまり、統一性を乱すようなものが入り込むのを防ぐ、追歯装置ラチェットとして働くわ。けれどいったん異物の侵入を許しちゃうと、今度は正反対と言っていい方向にディドロ効果が傾く。その異物を規準にして、世界観を統一しようとしちゃうの。今回の場合、タイムマシンでこの世界にまぎれこんだあたしが異物ね。あたしの時代の機関銃は、無限に弾丸が出続けるなんて神秘的なシロモノじゃアなかった。弾丸は消耗品で、尽きれば当然撃てなくなる。ようするに神秘を否定するあたしという存在が、〈聖なる機関銃〉から神秘を剥ぎ取ったってわけ。あるいは、弾丸は尽きるものだという法則を補完したとも言えるわ。ディドロ効果は統一のために外から補完すると同時に、世界観にそぐわないものを排除もする。そうやって、あたしとタイムマシンがこの時代にあっても違和感がないように、世界観を統一していくの」

「――ってコトは、おまえとタイムマシンがもといた世界へ帰れば、また〈聖なる機関銃〉が使えるようになるってことか」

 ジャンゴはいちるの期待をこめて尋ねたが、サクラは首を横に振った。

「ううん。それはムリ、一度ディドロ効果が発生したら最後、補完されちゃったものは、けっしてもとには戻らない。別のディドロ効果で上書きされないかぎりね。それから〈聖なる機関銃〉はほんの序の口に過ぎないわ。ディドロ効果は世界観の統一がなされるまで、新たな異物を補完し続け、世界観にそぐわなくなった既存のものを排除し続けるの」

 そう言われてみると、ジャンゴにも心当たりがないでもない。白鯨の知識を引き出そうと思って、おのれのなかの叡智を探ったとき上手く見つけられなかった。それはもしかするとディドロ効果によって、竜の心臓から得た叡智の力が薄れつつあるのではないだろうか。充分考えられるコトだ。

「ディドロ効果がどこで終わるかは、ディドロ統一体の満足しだいよ。ディドロ統一体イコール、神とか世界そのもののと思ってくれていいわ。そいつは部屋の模様替えでもしている気分で、何もかもメチャクチャにする。統一性を出そうと躍起になった結果、調和が完全に破壊されて、一貫性もなく、肝心の統一性すら手に入らない。場合によっては、補完されるたびに統一の規準がリセットされて連鎖状態になることもあって、そうなったらもう完全にお手上げよ。ようするに、あたしたちがディドロ効果の影響を把握するコトは、まず不可能ってわけ」

「なんか話を聞いてたら、だんだん腹が立ってきたな」

「そうよね。あたしが安易にタイムトラベルしようとしたから、こんなコトになったのよね。ごめんなさい」

 サクラが泣きそうな顔で言うのへジャンゴはあわてて、「いや、そうじゃねえよ。おれがムカついてるのは、この世界に対してだ。昔からクソッタレだとは思ってたが、まさかここまでクソッタレだとは」

「女神に対してではなく?」

「女神はよくやってくれてるさ。ただ、この世界にはどうしようもなく理不尽が多すぎる」

「……さんざんおどかしておいて何だけど、そこまで悲観する必要もないと思うわ。ディドロ効果の影響が、かならずしも悪い方向へいくとはかぎらない」

「そりゃアどういうコトだ?」

「この〈西つ国〉から神秘が失われて困るのは、勇者だけじゃないってコトよ。魔王ボーレガードだって、ディドロ効果の影響をまぬがれるコトはできないハズ。凶暴でしゃべるウサギなんて非現実的な存在が許されるワケないし。せっかく手に入れた知恵を失うどころか、もしかしたら存在自体がこの時代から放逐されるかもしれないわ」

「おお! それはホントかっ」

「まァそうなった場合、十中八九新たな魔王が補完されるコトになるだろうけど。もちろんボーレガードなんかより、はるかに現実に則したヤツになるとは思う」

 ボーレガード以外の魔王と言われても、ジャンゴはイマイチ想像がつかない。〈東の森〉の竜は実に強大だったが、あれが魔王かというと違う気がする。伝説に聞く、七人の黒騎士に討伐されたオークの首領カルベラが一番それらしいだろうか。

 ジャンゴはサクラからもう少し話を聞いていたかったが、すぐにそれどころではなくなった。

「潮だ! 鯨が出たぞォーッ!」見張り台の船員が大声で叫んだ。

 船長室からロコが大慌てで飛び出してきて、「その鯨の色は雪のように白いか! その背中は大地のように広いか! そして大量の銛が墓標のように突き立っているか!」

「いいえ! 黒くて比較的小さいです! おそらくまだガキでしょう! 背中は絹みたいに綺麗なもんでさァ!」

 ロコはあからさまに意気消沈していたが、ジャンゴと目が合うと気を取り直して、「小舟を降ろせ! 狩りの始まりだ!」

 船長の号令に従って3艘の小舟が降ろされ、それぞれに漕ぎ手と銛打ち、1等から3等の航海士が乗り込んだ。

 たくみな連携で鯨を追いつめると、その背中めがけていっせいに銛を打ち込む。

 だが、この程度で鯨は死なない。大変なのはむしろここからだ。鯨は何とか逃げようとあがく。突き立てた銛には長い縄が結ばれていて、それを頼りに小舟は鯨のあとをついていく。鯨が潜水と浮上をくり返しながら、出血で弱って息絶えるまで。

 鯨にもよるが、長いときは一昼夜にも及ぶコトがある。縄はすごい勢いで引かれる――鯨が潜行するさい海中へ引きずり込まれないよう送るままにする――ので、放っておくと縄を引っかけている部分が摩擦で発火してしまう。それを防ぐため、海水をかけ続けなければならない。死にもの狂いになった鯨が小舟に体当たりしてくるコトもあるので、転覆しないよう注意する必要もある。とはいえ、鯨に引かれる小舟は〈聖なるデロリアン〉並みの速度、つまりこの世界の者なら普通は体験できない速度を味わえるのも、捕鯨の醍醐味だ。

 一方、そのあいだ母船も呑気してはいられない。鯨に引かれてあまりに距離が開いてしまうと、小舟がはぐれて戻って来れなくなるおそれがある。なので母船も鯨を追って移動する。小舟と違って自力で追わなければならないので、漕ぎ手である奴隷たちは地獄を見るハメになる。疲労のあまり死んでしまう者も少なくない。

 出港まもなくの狩りは順調に終えるコトができた。手に入れた鯨の死骸を母船まで運ぶと、船体に結びつけて固定する。それから休まず鯨油の回収作業だ。樽に詰めて船倉に運び入れ、コトが済んだら死骸を海に捨てる。

 この程度の小さい鯨からでも、相当量の鯨油を採取できる。樽ひとつ分でさえ、〈聖なるデロリアン〉の燃料分を確保してもありあまる量だ。同じ大きさの鯨をあと1、2頭も捕まえればこの船の積載量限界に達するだろう。大きな鯨なら1頭だけで済む。とはいえ危険性を考えれば、小さい鯨を狙うのが定石だ。それを恥じ入るようでは、船員たちの命を預かる者として失格と言わざるをえない。

 もっとたくさん樽を積めれば今より儲けられるが、たとえその空間を用意できても、船体がよけいに重くなればますます漕ぎ手が必要になり、さらに新たな空間が不可欠になる。そしてセルジオ王国の現技術では、これ以上に大きな船は造れない。

「もう充分だ。作業が済みしだい帰港してくれ」ジャンゴがみなに聞こえるよう告げた。1日目で目的をはたせるとは運がいい。

 船員たちのなかには物足りなそうにしている者もいたが、おおむねラクな仕事によろこんでいるようだ。もっとも、一番よろこんでいるのは船酔いで死にそうなサクラだったが。「ああ、揺れない大地が恋しい。ガイアの偉大さを実感したわ」

 したがって明らか不満そうなのはただひとり、船長のロコだけだ。

 ジャンゴは念を押すように、「船長。おれがこうしているあいだにも、魔王が多くの人々の命を奪ってるんだ。こんなところで道草を食ってるワケにはいかねえ」

「――聞こえる」

「あァン?」

 ロコはジャンゴの問いかけを無視して、「聞こえる。聞こえるぞ。ヤツだ。白鯨がすぐ近くにいるっ」

 豹変したロコは目を血走らせて、マストをかけ昇り、見張り台から海を眺めた。時計の音などほかの誰にも聞こえていなかったが、ロコの耳にはハッキリ届いているらしかった。

 サクラは首をかしげて、「よくよく考えてみたら、時計なんて高度なものがこのファンタジー世界にあるの?」

「おまえが言う時計がどんなものか知らねえが、ロコが言ってるのはたぶん、砂が落ちる量で時間を計るヤツだ」

「あー、そりゃアだいぶヤバイわァ……」

「――いたぞ。あそこだ。あの堂々たる潮吹きは、あの広い背中は、あの突き立てられた大量の銛は、白鯨に間違いない。――小舟を降ろせェ! 今こそ復讐のとき!〈大いなる静寂〉よ、貴様に悲鳴を上げさせてやる!」

 船長の号令に、まだ鯨油採取の作業中だった船員たちはあわてた。見張り台から降りてきた船長のもとへ、1等航海士が血相を変えて駆け寄る。

「待ってください船長! これから白鯨を追うつもりですか。さっき捕らえた鯨はどうするんです?」

「そんな小物など捨ておけい! それより白鯨だ! ヤツを仕留めるコトのほうがはるかに重要だ!」

「バカ言わんでください。気が狂ったんですかっ」

「気が狂ったのか、だと? 貴様はこの私が正気だとでも思っていたのか? 正気は右手とともに食われた。今の私は狂気そのものなのだ。正気を取り戻すには、あの白鯨を殺す以外にない」

「そんな勝手が許されるとでも?」

「貴様に許してもらう必要がどこにある? 船長は貴様ではない、この私だ。だまって従え」

 ロコは1等航海士を突き飛ばして、捕まえた鯨を留めていた縄を切ってしまうと、みずから小舟に乗り込んだ。

「聞けェ! 白鯨退治に参加した者には、私が特別手当を支払う! 全員に金貨100ダリオ! 一番銛を突いた者にはさらに100ダリオ!」

 これを聞いた船員たちは、目の色を変えてロコに付き従った。降って湧いた大金を手に入れるチャンスに、誰も彼も正気を失ってしまったようだ。あるいはロコの狂気に伝染したか。

「どうするの? どうするのよこれェ」

「おれに訊くな。クソッタレ」

 こうなってしまった以上、もはやジャンゴにも止めるすべはわからなかった。まさか殺すワケにもいかない。

 船長みずからの手によって、一番銛はあっというまに突き立てられた。しかし普通の鯨と違って出血しない。表皮が分厚すぎるのだ。

 そして普通の鯨ならば、逃げようとまっしぐらに急速潜航するはずだが、白鯨は逆にその巨体を海面上に現した。跳んだ、と表現すればよいのだろうか。あるいは天へと飛び立つように、垂直にその全身を突き出した。

「船長ォーッ! 手を、手を離してください!」

「誰が離すものかァ! 逃がさん、逃がさんぞォ!」

 その光景にサクラは呆然とし、「シンジュクのコクーンタワー?」

 屹立した状態で数瞬静止した白鯨は、倒れ込むようにして海面をたたいた。直後、発生した大波はいともたやすく小舟をひっくり返す。母船も例外ではなかった。転覆こそしなかったものの、甲板にいた者たちはみな海へ投げ出されてしまう。もちろん、ジャンゴとサクラのふたりも。

「――いいかげん、ゴミを抱えてる場合じゃねえか」

 未練がましく持ち歩いていた、役立たずの〈聖なる機関銃〉を捨てると、棺桶は難なく水面に浮いた。チョットしたイカダ代わりだ。そこへサクラもしがみつく。「死ぬかと思ったわ」

 ジャンゴは引き上げてもらおうと母船へ大声で呼びかけるが、応答がない。甲板に誰も残っていないからだ。船内の奴隷が気づいてくれればいいのだが。

「――ジャンゴ、うしろうしろ」サクラがアホみたいに口をポカンと開けて、背後を指さす。

 そのマヌケヅラにジャンゴは失笑するも、振り返って見て絶句した。白鯨が大口を開けて迫ってきていたからだ。

 ジャンゴたちは逃げる間もなく、海水ごと呑み込まれてしまった。

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