019

 灰色のコルブッチが殺されていた事実に気を取られたせいで、ジャンゴは〈知恵の鮭〉のコトをスッカリ失念していた。

 思い返してみれば、あの場に鮭は残っていなかった。コルブッチが食べていなかったとすれば、いったい誰が食べたのか。答えはジャンゴの目の前にあった。

「魚というのは初めて食したが、なかなか気に入ったぞ。鮭は色がニンジンに似ているしな。――ああ、私の好物がニンジンだというコトは知っていたか? というより主食だが。しかし、これからは偏食をやめて、何でも試してみるコトにしようじゃアないか。とはいえ、人肉は遠慮しておこう。ゲテモノは美味いと相場が決まっているというが、いくら何でも気色悪すぎるからな」

「……昔と違って、ずいぶんオシャベリになったじゃねえかボーレガード。見違えたぜ。自我が芽生えるとこうも変わるのか」

「感情をおもてに出さないものに自我を認めないのは、貴様らひとの悪癖だ。かつての私に自我がなかったと? ただ外側を眺めていただけのくせに、よくもまァそんな厚顔無恥なカンチガイを」

「違うとでも? あのころのてめえは、命あるものを滅ぼす災害だった。そこにおれは何の意思も感情も感じなかった」

「確かに〈知恵の鮭〉を食らうまでの私は、感情というものを理解していなかった。しかしだからと言って、意思なき災害とまで言われる筋合いはない。この世には、見えないものが存在するのだということを知れ」

「だったら魔王、なぜ殺す。てめえに昔から意思があったというなら、数えきれない殺戮の理由はなんだ? 答えろ」

「それは、価値観の相違というヤツだよ勇者。私はおのれの行為を、殺戮などと考えたコトは一度もない。言うなれば掃除だ」

「掃除、だとっ?」

「掃除という言い方が気に食わなければ、仕事と言い換えてもいい。むろん、何がしかの報酬があるワケではない。単に私の自己満足だ。貴様にもわかりやすく例えると、そうだな……貴様がカキの殻むきだとしよう。目の前にカキがあると落ち着かず、殻をむかずにはいられない。そして出来上がった殻の山が、貴様に達成感を与えてくれる。私にとって命を奪うとは、そういうコトだ。私はさっさとこの仕事を終わらせたくて、しかたがないのだよ」

 ジャンゴはボーレガードの行っているコトが理解できなかった。小難しい屁理屈を並べ立てているが、結局それは殺戮が好きで殺戮するコトと何が違うのか。いや、違いなど関係ない。殺される者たちにとっては、殺す者の考えなど意味はないのだ。納得しようがしなかろうが、死にたくないコトに変わりはない。

「どうやらバカな質問をしちまったみたいだ。けど、おかげでおれは間違っていないと確信できたぜ。魔王ボーレガード、てめえは滅ぼされるべきだ。勇者ジャンゴの名において、おれが始末する」

「滅ぼす? 貴様が? この私を? できないコトを口にするのはやめておけ。知恵を持たないかつての私相手ですら、〈聖なる機関銃〉がなければ手も足も出なかったくせに。女神の加護を失った勇者など、私にとってはただのカカシだ。その他大勢の有象無象どもと同じく」

 ボーレガードの容赦ない指摘に、ジャンゴはまったく反論できなかった。〈聖なる機関銃〉が使えなければ、ジャンゴに勝ち目はない。いや、たとえ使えたところで、知恵を手に入れたボーレガードに通じるかどうかは怪しいところだ。ボーレガードがオシャベリに興じていなければ、とっくに殺されていただろう。事実、先ほどは危ないところだった。

「この町での作業をひと区切りに、少々やりかたを変えてみようかと思っている。知恵がないころの私は、すばやく獲物の急所を攻撃するのがもっとも効率的な殺しだと考えていた。しかしあらためて試してみて、それは間違っていると気づいたよ。いかに私の手際がよくても、ひとりで出来るコトにはどうしても限界がある。もっと効率よく命を刈り取るには、たくさんの軍勢が必要だ。オークかゴブリンあたりを使うのがイイだろう。上手くいけば臆病風に吹かれた人間グリンゴも味方にできるかもしれない。おたがいに殺し合わせる。まずはとにかく数を減らすコトだ」

「だったら、頼めばおれも手下にしてくれるのか?」

「いいや、貴様は今ここで殺す。どこの何者を配下に加えようと、貴様だけは許さない。この私がじきじきに殺してやる。貴様を放置しておくと、またぞろ女神にオモチャをもらう可能性もあるしな」

「知恵を得たおかげで臆病も身に着けたか。ハッキリ言ったらどうだ? おれがこわいってな」

「それで貴様が満足して死ねるというなら、好きに受け取るがいい」

 ジャンゴは再度引き金を引いてみたが、〈聖なる機関銃〉は求めに応えてくれなかった。ジャンゴはもはや女神の加護を完全に失ってしまったのかもしれない。ボーレガードはああ言ったが、女神の助けをアテにはできない。

 むろん、ただで殺されるつもりはない。ジャンゴはイチかバチか、賭けに出るコトにした。ふところに〈聖なるダイナマイト〉がひとつだけある。しかしただ投げつけるだけだと、ボーレガードのすばやさでは逃げられてしまうかもしれない。なのでボーレガードが首筋に噛みつこうとしてきたところを狙い、口のなかへ突っ込んでやるのだ。竜と同じように脳天を吹っ飛ばしてやる。

 ただしこの作戦の難点は、どうやって〈聖なるダイナマイト〉に点火するかという点だ。コルブッチがいれば魔法でカンタンだったのだが。火打石で上手くいくだろうか――。だがほかに手はない。やるしかないのだ。

「なァボーレガード、以前てめえを倒したときは、単に勇者としての使命だった。だが、こうして今のてめえと話してみて、考えが変わったぜ。てめえはいけすかねえ。おれが勇者であろうとなかろうと、てめえはおれがぶっ殺す」

「すぐにそんなへらず口はたたけなくなる。永遠にな」

「来いよウサ公。そのムダに長い耳を引きちぎってやる」

 ボーレガードはなかなか仕掛けて来ない。なまじ知恵がついたばかりに、ジャンゴがまだ何か切り札を隠し持っているのではないかと勘ぐっているのだろう。その危惧は的を射ているが、だからと言って慎重になるのが正しいとはかぎらない。時間が経てばそのぶん、不確定要素が増えていくものだ。そしてそれらが、かならずしもボーレガードにとって有利に働くワケではない。

 ――ふと、どこからともなく聞こえてくる轟音に、ボーレガードは不審そうに周囲を見まわす。「なんだこの音は?」

 初めて聞けばおどろくのもムリはない。けれどもジャンゴは、コレが何の音か知っている――〈聖なるデロリアン〉のエンジン音いななきだ。

 車が路地を駆け抜けて、両者のあいだに割り込んできた。ジャンゴ側の扉がはね上げられて、なかからサクラが手を差しのべながら叫ぶ。「早く乗って!」

 ジャンゴはたった今まで抱いていた玉砕覚悟をかなぐり捨て、車に飛び乗った。「出せ!」

 アクセルを踏み込んで急発進。土煙を巻き上げながら、地獄と化した町から脱出する。

「――助かったぜサクラ。正直、あのままだったらヤバかった」

「あたし、マスコットは言葉を話さないほうがいいと思うのよね。話した瞬間、魅力が半減するわ」

「なに言ってんだおまえ」

「恋は熱しやすく冷めやすいものなのね……」

 イマイチ会話がかみ合わないので、ジャンゴはしばらくだまっているコトにした。それより今後について考えよう。何とか撤退できたはいいが、ボーレガードとはいずれまた戦わざるをえない。でなければ、この地に暮らす命が根絶やしにされる。どうにか倒す方法を見つけなければ――

「ねえチョット!」サクラが大声を上げる。

「なんだよ。いま大事な考えゴトの最中で」

「うしろ! うしろ見て!」

「あァン?」言われたとおり振り返って、ジャンゴは絶句した。

 ボーレガードが、すさまじい速度で追いかけて来ていた。

「逃がさないぞ勇者ァ! 貴様は今日ここでおっ死ね」

 速い速いと思っていたが、まさか長距離でも同様だとは。徐々に距離が縮まっていく。

「ウソでしょ――。時速140キロ以上出てるっていうのにっ」サクラはアクセルをベタ踏みしているが、これ以上速度が伸びない。性能の限界だろう。

 このままではいずれ追いつかれる。丈夫な車体で守られているとはいえ、ボーレガード相手にどこまで持ちこたえられるかは未知数だ。

 サクラは前方を見たまま、「あんたの前にあるグローブボックスを開けて――そう、それ。で、なかに入ってるヤツを出して」

 言われたとおりジャンゴは取り出す。ずっしりと重い鉄のカタマリだ。これはいったい何なのだろうか。カナヅチにしては使いにくそうだが。

「何かのときに使えるかもしれないと思って、ノガレスのガンショップで買ったスミス&ウェッソンよ。リボルバーピストル。あんたにもわかるように言えば、〈聖なる機関銃〉のミニチュア版ってトコ。使い方もまァだいだい同じ。引き金を引けば弾が出る」

「そいつはすげえ。〈聖なるスミス&ウェッソン〉か」

「何でもかんでも〈聖なる〉付けなくていいから。装弾数は6発。予備の弾はナシ。それで倒すのは難しいだろうけど、牽制くらいにはなるハズ」

 ジャンゴは開いた窓から銃口を突き出して撃った。車体がとても揺れるのでまともに狙いをつけられず、1発も当たらなかったが、ボーレガードをおどろかせることには成功したらしい。警戒して車から距離を取った。

 もっとも、もうこちらに弾丸がないとわかれば、すぐにまた近づいてくるだろう。わずかな時間稼ぎにしかならない。

「充分よ。準備は済んだ」

「何の準備だ?」

「あたしの心の準備」

「……おれの心の準備は?」「ナイトラスオキサイドシステムNOS、起動ォ!」

 サクラがハンドルの赤いスイッチを押した瞬間、車体が爆発的に加速した。さっきまでとは倍以上の速さだ。

 ただしその代償は、これまで以上の激しい揺れと、味わったコトのない未知の速度への恐怖と、カラダをつぶされるような重圧だった。

 だが、それでもボーレガードを振り切れない。一瞬突き放したかと思ったが、なおも追随してくる。

「クソッタレ! これでもダメなのかっ」

 するとサクラはほくそ笑み、「いいえ、アキレスは追いつけない」

 サクラの視線は速度を示す計器に注がれていた。297、298、299、300を超えたとたん、窓の外がまばゆい光に包まれた。さらにジャンゴの身に、えも言われぬ浮遊感が訪れ――

 燃え盛るわだちを残して、〈聖なるデロリアン〉は消失した。


 燃えるわだちとともに、荒野に〈聖なるデロリアン〉が出現した。

 ジャンゴは目を白黒させて背後を振り返る。そこにボーレガードの姿はなかった。

 だがそんなコトよりも、驚愕の変化が起きていた。ほんのつい数時間前に朝陽が昇ったハズなのに、いつの間にか夜の帳が降りている。夜空に満月が煌々と照り輝く。

「イチかバチかだったけど、何とか上手くいったみたいね」サクラは額の冷や汗をぬぐった。

「いったいどんな魔法を使ったんだ?」

「あたしたちは半日前の過去へ逃げて来たの。まだこの時間のあたしたちは、魔王と遭遇してもいない」

 サクラの言葉に理解が追いつくにしたがい、ジャンゴの顔がしだいに蒼ざめていく。「チョット待て。おまえ確か、この世界に来ちまった原因がハッキリするまでは、うかつにタイムマシンは使えねえとか言ってなかったかっ」

「うん。だから内心ヒヤヒヤだったわ」

「もし失敗してたら?」

「成功したんだから気にしない気にしなァい」

 つぎに同じコトをするときは、事前に教えてほしいとジャンゴは切実に思った。自分にも心の準備は必要だ。

「……まァおまえの言うとおり、確かに成功は成功だぜ。これで問題なくタイムマシンを動かせることがわかったってワケだ。ヨッ! 天才美少女ォ!」

「そうでしょう、そうでしょう。しかもあのピンチをチャンスに変えて、まだ試せてなかった過去移動まで成功させちゃうなんて。自分で自分の才能がおそろしいわ……」

「ところで天才美少女サマに折り入って頼みがあるんだが、おれを過去へ連れてってくれねえか」

「エッ?」

「ボーレガードが〈知恵の鮭〉を食う前に阻止する。もちろん灰色のコルブッチも死なせねえ。コルブッチの魔法と〈聖なるダイナマイト〉を合わせれば、知恵をつける前なら難なく倒せるハズだ」

 あいにく〈聖なる機関銃〉は使い物にならなくなってしまったが、まだ望みは絶たれていない。今度こそ魔王を完璧に葬り去るのだ。

 サクラは逡巡した様子で、「あー……あのウサ公から逃げるのにけっこう燃料使っちゃったのよね。そろそろ本格的に残量が心配になってきたわ。どっかで手に入れないと」

「燃料がねえと時間を超えられねえのか?」

「まァそれ以前に走れなくなるわね」

「おいおい、いきなり問題発生じゃねえか。燃料ってのはこっちの世界で手に入るもんなのか?」

「たぶん大丈夫。プルトニウムじゃないとダメなんて言わないから安心して。さすがに生ゴミじゃムリだけど。あたしの開発した疑似カルノー・ディーゼルエンジンは、精製した油なら何でも動くわ」

「油か。具体的にはどのくらい必要なんだ?」

「うーん……できれば満タンにしておきたいから、だいたい50リッターくらいかな」

「いや、そっちの世界の単位で言われてもわからん」

「えっと、例えるならそうね――10人分の血液と同じくらい?」

 何ともブッソウな例えだが、それが相当な量だということはジャンゴにもわかった。「それだけの油となると、集めるのはひと筋縄じゃアいかねえぜ」

 油は生活必需品だ。食品の加工に使ったり、灯りにしたり、皮をなめしたり、日常のあらゆる場面で必要になる。それでいて豊富にありあまっているワケではない。

「おまえのいた世界じゃアどうだったのか知らねえが、この世界で油を手に入れるのは命懸けなんだぜ。ヘタすりゃア竜退治以上に。それもけっこうな人手がいる」

「い、命懸けェ? いったい何の油なの?」

「――鯨油だ」

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