番外編

おそれ

 佐倉類は、西町里香を抱いていた。

 腕の中の身体は柔らかく、隅々まで汗で湿っている。バターのような色をした肌は緻密でなめらかで、そこかしこの翳りに快楽の種子が植わっていて、彼の刺激を誘っている。指を滑らせると、甘い声が滴り、肌は蕩けて指を濡らす。類は指で、手のひらで、舌で、あらゆる手段で里香を追い詰め、さらなるものを与えようとする。里香の手が類の栗色の髪に伸び、強請るように、縋るように、彼の頭を引き寄せる。類の唇が、里香のちいさな唇にかぶさり、彼女の呼吸すべてを奪う。重ねた唇も、舌を差し込んだ口腔も、腕に抱き込んだ彼女の身体はどこもかしこもちいさく、とてもちいさく、ひどく脆くて、壊れてしまいそうだ。力を入れたら、簡単に壊れてしまう。そう思った途端、里香は苦しげに喘ぎ、震え、しゅるしゅると、萎れて、ちいさくなっていく。ちいさく。脆く。壊れそうに。喪失の恐怖に駆られて、ちいさくなった肩を掴む。その手ごたえは、不吉なほどに柔らかい。苦しげに、喉の奥に押し込んだ悲鳴。里香。

 壊れて、しまう。


 そこで、目を覚ました。

 夜はまだ明けきっておらず、寝室は灰色の薄暗がりにある。不快な夢の感触に身じろぎをすると、見慣れた顔が目に入った。薄闇の中でもぼうっと光るような、なめらかで緻密な肌。だが夢の中とは違い、そこに快楽の気配はまるでない。さらさらと夜の空気に包まれて、乾いている。丸い瞼をしっかりと閉じ、子供じみた清潔な鼻腔で、規則正しい寝息を立てている。

 里香。

 類はそっと、彼女を起こさないように寝返りを打ち、そのいとしい健やかな寝顔をじっと見つめた。あまりにも可愛らしく、ほとんど神聖と言っていいぐらい尊い、彼の恋人の寝顔だった。

 起きているときには感情を抑制された表情や眼差し、落ち着いた話し方に隠されているが、眠っていると子供のようなあどけなさが剥き出しになっている。痛々しいぐらいだ、と類は思う。そして、あの頃は一体どうやって、こんなにあどけない人に欲情することができたのだろう、とかつての自分を不思議に思った。彼女との情事の記憶は、今では彼の肉体的な部分には作用するものの、とても本当のこととも思えないのだった。

 彼女をまた恋人と呼べるようになって、二か月。こうして自分の部屋で夜を過ごし、同じベッドで眠るようになっても、セックスどころか、性的なものを暗示させる接触は、まったくない。

 泊まっていってほしい。もちろん、嫌じゃなければ、だけど。

 初めてそう言ったとき、里香はこの頃よくする面白がっているかのような微笑みで、

 いいけど、セックスはしないよ。

 と答えた。彼はもちろんそれに応じたけれど、条件など出されなくても、そんなことはとてもできないとも思った。もしも、そんなことはあり得ないとわかっていてももしも、彼女のほうから求められたとしても、そのちいさな身体に手を伸ばすことができる自信はなかった。

 ちいさい。本当に、ちいさい。

 不安と恐怖と畏敬の色を複雑に帯びた愛しさに胸が詰まって、類は泣き出しそうになる。寝息さえ聞き取れる距離にいて、何の憂いもないように眠り込むその人は、本当にちいさく、いたいけだった。おかしなことに、類はこんなに彼女がちいさいことを、最近までずっと知らなかったような気がするのだ。ほんの幼いころを除いて、彼女はずっと彼よりも小柄で、その細い肩や華奢な手に、幾度となく触れ、愛で、守らなくてはと思っていたのに。

 ただあの頃は、彼は彼女を小さい、と思いながらも、心の奥底で、彼女をとても大きなものだと感じていた。とても大きく、彼の卑小で空虚な心ではとても測れないほど大きく、肉体的にはともかく、彼女の存在を損なうことなど、出来るわけがないと思っていた。彼女は彼にとって絶対的な存在で、求める彼に喜びと安らぎを、いつだって与えてくれた。困ったような微笑みで。彼はただひな鳥のようにうるさく囀り、口を開けて、彼女から与えられる喜びを、何の屈託もなく食んでいた。彼女のあたたかな羽の下で幸福であることに、なんの疑問も持っていなかった。感謝はしていたが、当然のことだとも思っていた。そのあたたかさが失われるなんて、想像もしていなかった。

 四年前、最初に里香に拒絶されたときには、これは罰なのだと思った。彼女に甘えすぎ、求めすぎた自分に、彼女が与えた罰なのだ、と。そしていつか許してもらえる日を願って、里香の不在を耐えた。苦しかった。あの頃は、自分が受けた痛みしか見えなかった。彼女は不出来な自分を見限り、あの優しさと喜びの世界から追放したのだ、としか考えられなかった。いつかまた彼女がその世界に招き入れてくれることを信じて、空虚と不毛と孤独な日々を、送っていた。

 奇跡のようにもう一度出会い、もう一度あの黒く深い目で見つめられ、困ったような、でもあたたかい彼女独特の微笑みを向けられて、罪は許されたのだと信じた。今度は間違えない。彼女のために何でもしよう。そう、信じて、閉ざされた彼女の扉を必死で叩いた。扉はしかし、開かなかった。それでも、叩き続けた。そうすれば、きっと彼女はまた自分を受け入れてくれる。そう信じていた。彼女の扉は自分のためにあるのだと。彼女と自分は結びついた一対なのだと、疑ったこともなかった。彼女は自分を喜びで満たし、自分は彼女に物質的に満たす。そういうふうにできているのだと。

 とんだ思い違い。愚かな自分を笑おうとするが、胸の痛みに阻まれた。

 視線の先で、里香は何の憂いもない顔で眠っている。どれだけ見つめても、決して見飽きることはない、愛しいひと。ほんの幼いころに出会って、ずっと彼女だけを愛してきた。佐倉類という存在そのものから、決して切り離すことができない存在。どんなものとも引き換えにできない。類にとって彼女を諦めることは、人生そのものを諦めることだった。全ての喜びに、全てのぬくもりに、全ての愛情に、背を向けるということだった。そんなことは、あの日まで完全に思案の外だった。できるできない以前に、そんな発想自体が不可能だった。

 去年のクリスマス、仕事を早く切り上げると、彼はすぐに彼女の家に向かった。その前に拒まれてはいても、完全に駄目になったとは信じられなかった。彼女の母も自分の妹も、自分たちが結ばれることを望んでいるのを感じていた。住所は本人からは聞けなかったが、少し前に妹に教えてもらっていた。彼女の母に、年賀状を出すために教えてもらったのだという。

 変なことに使っちゃだめだよ。

 と何度も確認されたが、「変なこと」をするつもりは彼には勿論なかった。ただ会って、謝って、プレゼントを渡して、正月の帰省の有無をもう一度確認し、もしよかったら夕食ぐらいは一緒にしたかった。だがチャイムを押しても、返事はなかった。外から部屋を見ても、電気が点いている様子もない。

 誰と過ごしているのだろう。

 そう考えると、肚の奥がぐつぐつと煮立ったようになった。だが同性の友人かもしれないし、もしかしたら一人で外食でもしているのかもしれないと言い聞かせて、自分をなだめた。マンションの入り口付近に立って、彼女を待った。寒さは気にならなかった。やがて雪が降り出しても、車に戻って彼女の帰宅を見過ごすのが嫌で、肩や髪に積もる雪も、放っておいた。もともと、暑さにも寒さにも疎い性質なのだ。それだけではなく、空腹にも、痛みにも。雪の重みとつめたさも、身体が冷えているのも理解できていたが、それを心で寒い、と感じることはない。雪は彼の表面に触れるだけで、心の中には落ちてこない。彼の心はいつも暗く、何もない。彼の感覚と、心はいつも切り離されている。それが一致するのは、里香といるときだけだった。彼女がいなければ、彼はどこにいたって余所者だった。どこにいても、世界自体が彼と関係するのを拒んでいた。

 そろそろ日付も変わる、という時間に、里香は帰ってきた。見知らぬ男とともに。あまりの裏切りに、肚の中で沸いていた憎悪は噴きあがって彼の理性を溶かした。常につけている平静な仮面さえ取り払って、その男を叩き潰し、里香を無理にでも手に入れようとした。そうすることに、良心の呵責も何もなかった。普段は空虚なその心になにがしかの感情が浮かんだときはいつもそうするように、彼はそのときも自分の感情だけで行動した。

 そして、そんな類に里香は言った。

 大嫌い。もう顔も見たくない。

 その瞬間、身体に積もった雪が胸に流れ込んだかのように、彼の全ては凍りついた。凍りついた瞳で、ただ里香を見つめた。彼を断罪したその人を。

 雪の中で、その人は寒さに赤くなった手でビニールの傘を握りしめ、幼い丸みがいまだに残した頬に涙をこぼして、震えて、立っていた。追いつめられて、それでも決して屈しないと自分を奮い立たせているかのように、涙に濡れた瞳の奥に、怒りと決意を燃やして。

 ちいさい。

 そう、思った。目の前に立つ人は、とても、とてもちいさく、いたいけで、いたましくさえあった。彼がずっとその優しさの下で安らいでいたはずのその人は、こんなにもちいさく、弱弱しいのだと、彼は初めて気づいた。とても脆くて傷つきやすい、ちいさな人。

 怒りはもう去っていた。ただ、彼女が、可哀想だった。傷つけたくなかった。どんな痛みからも苦しみからも遠ざけてあげたかった。彼女を全てから守ってあげたかった。俯いているそのちいさな人に手を伸ばそうとしたが、何故だか身体が動かなかった。それをしてはいけない、と、理性よりも深い部分が肉体に訴えていた。今彼女に手を伸ばせば、取り返しのつかないことになる。

 どういうわけか見知らぬ男は去っていき、雪の中、二人で取り残された。そのちいさな人に、彼は尋ねた。

 僕のことが、嫌い?

 彼女は頷いた。それに傷つくよりも先に、自分のためにそんな問いに答えさせてしまったことに対する申し訳なさがあった。彼女は傷ついていて、そして、彼はその傷から彼女を守ることはできないのだ、ということが、ようやく彼にもわかった。それでもそんなとき、どうしていいのかまではわからなかった。彼女は彼の干渉すべてを拒んでいた。優しささえも。優しさ? 彼にはわからなくなっていた。何もわからなくなっていた。それでも一つだけ、決して揺るがないものもあった。彼の唇が、たった一つだけの真実を紡いだ。

 愛してる。

 それだけが確かなことだった。感情も世界も自己の実在も不確かな中で、彼にわかることはそれだけだった。彼女を愛していた。他の何がわからなくなっても、それだけは確かだった。それだけが彼の持ち物だった。

 彼女の答えはこうだった。

 ごめんなさい。

 彼の存在そのものでさえある愛が、彼女にとってどんな意味も持たないことが、彼にもわかりはじめていた。そのちいさな人と彼を結んでいたはずの、どれだけ離れても決して解けることなどないと信じていたはずの絆は、彼の幻想に過ぎなかったのだ。彼女は彼の理解の外にいた。他の全ての物事と同じように、彼女もまた、彼から遠い存在だった。どれだけ長い時間、どれだけ触れ合ったって、決して近づかない。それどころか、遠ざかっていくばかりなのだ。今までもそうだったし、これからもそうだった。

 彼女は身を守るように傘を固く握りしめ、彼に背を向けた。その姿を、彼はじっと見つめていた。彼を拒む背中。もし今手をその肩にかければ、簡単にその身体を、いいようにできるだろう。彼女の肉体の脆弱さは、彼の力を遮ることなどできない。だからこそ、彼は立ち竦んだ。

 里香は、僕を、拒めない。

 最初の別れのことを、彼は思い出した。別れると言った彼女に彼は縋りつき、抱きしめ、身体を繋ぐことで哀願した。彼の中では、そういうことになっていた。だがあのとき、彼女は拒むことができなかったのだ。全力で縋りつく彼を、あのちいさな身体ではどうすることもできなかったのだ。あれは、彼がそれまで思っていたような交接の失敗などではなかった。単純な暴力であり、凌辱だったのだ。彼女の性器から零れた血と精液。微笑みの奥にすべての感情を沈めているような、あの深く黒い瞳から、堪え切れずに溢れた涙。彼女の柔らかく脆く優しい身体の中で、何かが潰れて壊れた証拠としての嘔吐。

 その事実から逃げるように、彼はその場を去り、駐車場に停めた車に入った。雪こそ防げはするが、車内の空気は外気と変わらないほど凍りついていた。彼は空調もつけず、ハンドルに凭れて、呆然としていた。

 世界が、音も立てずに、融解し、変貌していった。彼はなすすべもなくそれを見ていた。すべてが終わった後、だが変わったのは世界ではなかった。彼自身、だった。彼は、それまでの自分ではなかった。彼女がかけてくれた魔法は、彼が縋りついていた幻想は、終わったのだ。

 彼の眼球からすべての欺瞞が剥がれたあと、佐倉類という男は、愛と幸福を願う無力な男ではなく、得体の知れない化物になっていた。化物。疎外された弱い被害者などではなく、触れたもの全てを傷つけずには生きられない、化物。

 彼が里香から与えられたと信じていたあたたかく優しい幸福はすべて、あの弱くちいさな人の持ち物を不当に奪い取ったものであり、愛の行為と信じていたものはすべて凌辱に過ぎなかったのだと、彼はようやく気付いた。彼女との愛の記憶は全て、彼に都合のいいように書き換えた加害の記録だったのだ。彼は自分よりも大きなもの、強いものに断罪されたのではなく、好き勝手に蹂躙した小さく弱いものから、逃げられたのだ。彼がその中で安住していた幸福には、踏みにじられた彼女の悲鳴と涙が染みついていた。彼は自分の手を見つめた。白く広い手のひら。長いなめらかな指。見慣れたはずのそれは、ひどく奇妙な、グロテスクなかたちをしていた。彼女を傷つけ続けた手だった。目に見えない、だからこそ決して拭うことのできない彼女の血で汚れた凶器。こんなものを抱えて、これからどうやって生きていけばいいのだろう?

 どろどろと自我が溶けていくような嫌悪感の中で、彼は里香に会いたかった。彼女に縋りついて、そのやさしさを分けてほしかった。だがそうできないことが、わかっていた。それはほんの一時、痛みから遠ざけてはくれるが、彼の痛みは、どこまでいっても彼自身の問題だった。彼という人間のあり方の問題。彼にとっての西町里香という人間がどれほど大きな存在でも、結局のところ、彼女もまた別の人生を持つ一人の人間に過ぎないのだ。自分の人生を、他人に背負わせることなど、できはしない。

 彼はずっと、そうしようとしてきたのだった。二つのまったく形の違う人生を無理矢理に繋ごうとした。彼女の人生を奪い、彼の人生を押し付けようとしていた。そんなことが、できるはずがないのに。

 だが、それを諦めるということは、孤独な化物のまま生きていく、ということだった。上っ面だけのやり取りの中で、心を暗く沈め、どんな優しさからも安らぎからも遠ざかり、世界から疎外されて生きるということ。

 彼の脳裏を、怒涛のようなスピードで、里香の記憶が走って行った。出会ったころの、星を煌めかせた夜空のような黒い瞳で笑っていた、幼い姿。ランドセルを重たげに背負った不安げな場面。中学の紺のセーラー服を着て、恥ずかしそうにしているところ。高校のブレザーの制服で、居心地悪そうに微笑む様子。そのちいさな人の姿は、どれだけの時間が経っても、どんな些細なものも、そのままに彼の中に焼き付いていた。彼女が、ただ恋しかった。彼女を愛していた。諦めることなどできるはずがなかった。だが、彼の鮮明な記憶自体が、そんな彼を嘲笑っていた。いつごろからか、彼女の柔らかな頬と黒い瞳に差した、諦めの影。どんなときでも彼女の微笑みから去らないその影の理由を、もう彼も、彼女が本来受け取るべき光を遮っている張本人も、知っていた。彼女への執着は、彼女から奪い去るその光への執着と同じことだった。そして彼は、それ以外の光を知らないのだった。あたたかく、優しく、居心地のよい、略奪品の光。

 知らないふりをしろ。

 彼の中の略奪者が、そう囁いた。自分がしていることから眼を逸らせ。何も知らないふりをして、愛を求める弱い男のふりをして、彼女に求め続けろ。一方的に拒絶され傷つけられた被害者のふりをして、彼女の弱みに付け込め。簡単なことだ。思い出と彼女の優しさを人質に取って、当然のように要求すればいい。罪悪感なんか持つ必要はない。今までずっとそうしてきただろう? それを幸せだと疑いもしなかっただろう? そんなふうにすればいい。また逃げ出されても、同じように何度でも捕まえて縋りつけばいい。それだけのことで、ずっとお前は幸せでいられる。里香を誰にも渡さないで、胸の中に捕えておける。彼女だって時折苦しむだろうが、大丈夫、彼女は完全な不幸になりはしない。お前がそうはさせないだろう? お前は彼女に、少なくとも物質的な快楽を与えることはできる。彼女を諦めたお前には、そんなものさえ手に入らないのに。それはまったく理不尽な話じゃないか? お前が世界に見放された化物だというのなら、彼女は世界がお前に与えた生贄だと思って何がいけない? 彼女はお前のための柔らかく美味しい肉だ。何故それを貪ってはいけないんだ?

 略奪者は饒舌で、その囁きはぬるい心地よさを伴って血液に乗り冷え切った身体に染み渡った。どうしてそうしてはいけない? 白い息を吐き、そう考えた。里香なしでは幸福になど、決してなれはしないのに、どうしてそうしてはいけないのだ? 化物は、まともな人生を歩けない人間は、この世にたった一つしかない幸福さえ、望んではいけないのか? 彼女さえそばにいれば、今の持ち物すべてを捨てたってかまわないのに。自分にはそれができるのに、どうしてそうしてはいけない?

 だが彼の目に映る自分の手は変わらず、いや、欺瞞の血が回ったことで、一層おぞましく、グロテスクなものになっていた。

 こんな手で、どうやって彼女を抱きしめられる?

 泣きながら彼を睨みつけている里香の姿が、その手に重なった。

 できない。

 そんなことが、できるはずがない。知らなかったふりなどできるはずもない。彼は自分がしてきたことも、自分がどんな存在なのかも、もう知ってしまった。そのうえで彼女を傷つけることなど、できるはずもなかった。佐倉類は、西町里香を、愛していた。出鱈目で身勝手でまともではない愛し方で、それでも確かに、彼女を愛していた。本当に、愛していた。自分自身の幸福よりも大切なほど。

 彼女に出会う前から、そして出会ってからもずっと、彼は孤独だった。それゆえに、彼女への愛は強まった。そして化物の愛は強く、大きくなればなるほど、ちいさな脆い優しい人を追いつめていくのだった。

 彼が彼女のためにできることは、もう一つしか残っていなかった。あのちいさな人に、自分の人生を返してやること。もう二度と彼女に手を伸ばさないこと。彼女を愛することをやめること。永遠に孤独な化物として、全ての愛情と救いと幸福を諦めること。一人きりの暗い世界に閉じこもって扉を閉ざし、その鍵を捨てること。

 他にできることなど一つもない。だが、恐ろしかった。できないと思った。どちらも選ぶことなどできなかった。迷いは黒い冷たい水のようになって彼の心を包み、奈落へと流れていった。心は悴み、苦痛に麻痺し、それでも迷いはどこからか溢れて彼を包んだ。苦しくて、里香に会いたかった。会いたいと願うことが、苦しかった。彼女を愛していた。愛してはいけなかった。苦しかった。彼はその夜を、塗り込められたような闇の中で過ごした。

 ふと顔を上げると、積もった雪の輪郭を朝日が青く煌めかせていた。朝が来たのだ。彼は悴んだ心でその光を見つめていた。陽はゆったりとのぼり、雪は光に暖められみずみずと輝いた。

 美しい、と、感じる心はしかし、彼にはなかった。虚ろな心に二つの窓を開いて、ただその光景を眺めていた。何も考えることもなく。心は雪の白さにゆったりと侵されていき、彼はただ無防備に、目という窓を開け放っていた。

 外も、彼の心も、雪に覆われ、白く、明るく、煌めいていた。彼はその白さの中に、動くものを見た。二人の、小さな子供。赤い毛糸の帽子から黒い髪を流した少女と、栗色の巻き毛を首を覆うぐらいに伸ばした少年。それは遠い、遠い昔の、里香と、類の姿だった。出会った年の冬のことだった。雪の日の朝、里香に連れられて、二人で雪遊びをした。

 里香は雪遊び用の赤い手袋をして、必死で雪玉を転がしていた。頬を赤くして転がすのだが、大きくすることにしか意識が向かず雪玉のかたちはいびつになり、雪だるまにしようとしても、バランスが取れず崩れてしまう。その度泣きそうになりながらも、何度も、何度も雪玉を作っている。類はその後ろを、ずっとくっついて回る。雪に触れるのよりもずっと、彼女を見ているほうが楽しいからだ。里香は雪に夢中で、類のことを顧みることはない。突然、その事実が類の胸を痛めつける。彼女にこちらを見てほしくて、我慢ができなくなる。彼は泣き出す。泣き出した彼を、里香は振り返る。泣いていることに驚き、黒い瞳を見開いて、彼の顔を覗き込む。

 だいじょうぶ? どうしたの?

 里香が自分を見てくれたことが嬉しくて、類は笑う。微笑みが伝染して、里香もその愛らしい顔に笑みを広げる。彼女の黒い深い瞳に、星のような光がちらちらと瞬く。その光が、類は好きだった。大好きだった。本当に、大好きだった。他の誰の目にもない、里香の瞳の中の、小さく瞬く光が。

 るい、さむい?

 里香は類が、自分よりもずいぶんと薄着であることに気づく。分厚いダウンコートも、雪用の防水手袋も、類の身体を覆ってはいない。

 てぶくろする?

 まだ涙の滴をまつ毛につけたまま、類は首を振った。寒さなど、どうでもよかった。里香は首を傾げ、手袋を脱ぎ、ポケットに入れる。

 つめたい。

 そして類の赤くなった両手を握って、驚いたようにつぶやいた。手袋の中であたたかく湿った手で、冷えた類の両手を挟みこむ。

 あったかくしてあげる。

 そう言って、里香は類に微笑む。黒い瞳に、何かを星のように煌めかせ、類の瞳に投げ込んでくれる。何か。多分、喜びや、優しさと呼ばれるものを。包まれた手のひらはあたたかく、本当にあたたかく、里香の微笑みは自分に向けられていて、嬉しくて、類は笑う。類が笑うと、里香も笑う。きらきらと、里香の瞳に喜びと優しさが瞬き、類の緑の瞳にもそれが映って、きらきらと瞬く。類は幸福だった。目の前の女の子が好きで、彼女に包まれた手があたたかくて、ただただ嬉しくて笑っていた。そして、彼女もまた幸福であることが、彼にわかることがまた、嬉しかった。二人の幼い子供は、幸福だった。きらきらと傷なく、純粋に幸福だった。

 車の中で、二十六歳の男である佐倉類は、瞬きをした。雪の中の幸福のまぼろしは、もうなかった。彼は自分の手を見た。冷え切った、大きな手。だが遠い遠い昔、大好きだった女の子に握ってもらった手だった。

 あったかくしてあげる。

 その声も、そのあたたかさも、ずっと覚えている。あのとき、自分は幸福だった。そして里香も、幸福だった。そのことを、覚えている。記憶が、彼の手を少しだけあたためた。彼は手を握りこんだ。

 あのとき、自分は化物ではなかった。幸福な、愛し愛されている、一人の少年だった。

 ゆるく握ったこぶしに、あたたかいものが落ちてきた。視界は白く滲んでいる。彼は、泣いていた。涙は、あたたかかった。

 もう、十分だ。

 そう思えた。彼の中には、もう十分すぎるぐらいのあたたかいものが、あった。いつでも引き出して眺めることのできる、きらきらと輝くものが、あるのだ。ほんの幼いころ、確かに互いに幸福だった。そのあとだって、彼女は自分を幸福にしてくれた。いつからかそこに影が差し、傲慢になった自分が不当に幸福を奪い取っていたとしても、それでもすべて、彼女がその優しさから、自分に与えてくれたものでもあったのだ。あの小さい人が、必死で自分を温めようと、差し出してくれたものでも、あったのだ。だから、受け取ったもの全てを汚れものとして打ち捨てもしない。

 だからもう、十分だ。

 彼は握ったこぶしを、胸に当て、自分に言い聞かせた。

 もう、十分だ。自分は一人で生きていかなくてはいけない。それができるとは思わない。だがそうしなくてはいけないのだ。そのために必要なものは、もうすべて受け取ったのだ。

 涙で滲んだ視界が、淡く白く、輝いていた。里香が好きな、雪景色だった。あたたかな記憶につながる、雪景色だった。

 美しい。

 そう、思うことができた。そう思える心は、化物のものでは、なかった。

 苦しみはまだ消えず、これからのことを考えるだけで目の前が暗くなるようだった。それでも、苦しみ以外のものに目を向けなくてはいけないのだと、わかっていた。

 少なくとも里香は、幸福になるだろう。あの黒い瞳には、また星のように光が瞬くだろう。類には関係ない場所で、彼女は幸福だろう。それでいい。そしてその光は、自分の中にも、ずっと輝いている。永遠に、消えることなく。それで、いい。

 涙を拭い、携帯電話を手に取った。この先の苦しみを選ぶために。

 愛した人に、これまでの喜びの礼を、伝えるために。

 自分の体温が移ったシーツの上で、彼は目を細める。あの日、彼は確かにそれを選んだのだった。彼女と自分の人生を切り離すことを。それでも、彼女は今ここで、彼の傍らで、眠っている。どういう理由で彼女がまた自分のもとにやってきてくれたのか、彼には本当のところ、よくわからない。わからないのだ。

 その愛しい人を動かす理屈を、彼は理解できない。出会ってから今まで、一度も理解したことがない。ただ、かつてとは違い、今の彼にはわかっている。そこにいる愛しくちいさな人は、彼の理解を超えたところにいるのだと。西町里香という人間は佐倉類という人間と無関係に生まれ、彼なしで生きていくことができる。

 その彼女がここにいる、ということ。それはあまりに尊い幸福で、そして、恐ろしいことだ。

 怖い。

 一度、類はそう里香に漏らしたことがある。

 怖い?

 里香は繰り返すと、黒い瞳で類の顔を覗き込み、唇に優しい微笑みを湛えたまま、

 怖いの、慣れて。

 と言った。彼女の言う通り、慣れるほかないのだろう。忘れることも、取り除くことも、してはいけない。そういう道を選べるほど、彼の心は上等ではない。

 この愛しい人のそばにいるということは、この恐怖を、抱え続けるということだった。投げ捨てたくなるほどの重さだが、この重さが自分と彼女を結び付けているのだ。捨てることなどできはしない。

 類の視線の先で、里香は眠っている。一度も傷つけられたことがないような無垢な頬。平和な丸い瞼。幸福そのもののような、安らかなその姿。だがその平穏は、たやすく壊れてしまうものだ。幸福とは、かつての彼が信じていたように、決して揺るがず、ただその中で安らいでいられるものではない。傷つきやすい脆いものを、怯えながら守っていくものなのだ。

 カーテンの外で、日がゆっくりと上り、部屋を白く明るませていく。枕の上の里香の黒い髪を、淡い光が滑る。彼女はまだ眠りの中にいる。新しい一日を彼女とともに始める幸福が、類の心臓をひたひたと満たす。彼は微笑み、考える。彼女のために朝食を作ろう。美味しくて、目が覚めるようないい匂いのするものを、たくさん。二人で幸福に過ごすために。

 冷蔵庫の中身を思い出しながら、音を立てないように起き上がり、ベッドを降りる。そして真新しい今日という日に、最初の足跡をつけた。

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緑の瞳 古池ねじ @satouneji

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