第29話

 四年ぶりに会った流禰は、私を見るなり

「里香ちゃん、変わったね」

 と言った。そういう流禰は変わらない。清冽な美しさも、誰にも阿らないと宣言しているかのような瞳の強さも、佐倉流禰という個人の印象は全てそのまま、少女から女性になっていた。

「そう?」

 私は首を傾げた。唐突に、流禰は私の首に抱き付き、頬に頬をつけて、つめたい、と呟いた。気が強く、集団ではいつも先頭に立つのに、私やマリーさんに対しては甘えん坊でくっつきたがりなのも、昔のままだ。ただ抱擁の感触が以前とは違い、時間が確かに流れているのを感じた。

「変わってないけど、変わった。痩せちゃったし」

 玄関先で、コートのままの私の身体に手のひらを滑らせて確認して、不満げに言う。

「前が太りすぎだっただけでしょ」

「そんなことないよ。なんかふくふくしてて、甘やかされた家猫って感じで、可愛かったのに」

 褒められているのか貶されているのか判断に迷うところだけれど、ただ苦笑で答えた。言わずとも、当然のように家の中に通される。広々としていて洗練された、懐かしい佐倉家だ。殺風景にならない程度に飾られた小物や観葉植物は、調和が取れすぎていてそこに住む人の趣味が読み取れない。室温は快適に保たれているけれど、家庭のぬくみはない。何も変わらない。家具の配置も、記憶にある通りだった。ダイニングの、勧められた椅子に座る。

 流禰はキッチンに入り、カウンター越しに話しかけてくる。

「紅茶でいい? お菓子クッキーでいい?」

「うん」

「父親の関係でお菓子とか届くんだけどね、里香ちゃんいないと全然片付かないんだよね」

 うちの母と同じことを言う。実家にいた頃は太っただの痩せろだのうるさかったのに、久しぶりに帰った私がいくぶん痩せていると、今度はあれもこれも食べるように勧めてくるのだから、おかしい。おかしくて、鬱陶しくて、でもそんな母を、少し可愛いとも、思う。

「じゃあ、たくさん食べていこうかな」

 流禰はぱちぱちと長い睫を瞬く。

「ああ、別に里香ちゃんがいっぱいお菓子食べるとかじゃないよ。でも里香ちゃん来ないと、誰もうちに来ないし、みんなでお茶飲んだりもしないしね」

 そして、皮肉げに片頬を歪めて笑う。そんな顔は、記憶の中の流禰とは一致しない。

「うち、家庭としてまったく機能してないから」

 そういえば、流禰はさっき、自分の父のことを「父親」と言っていた。あれほどこの家に入り浸っていた私でさえ、その人とはほとんど顔を合わせることもなかった。いくら会社を経営しているとはいえ、それほど忙しいというのも、考えてみれば不自然な話だったのだ。

 流禰は紅茶とクッキーを運んでくれた。小皿からこぼれそうなほどのクッキーの山に、笑ってしまう。椅子をもとの場所から動かして、私の隣に座る。ほんの少し身じろぎすれば、腕が当たってしまう距離だ。

「甘えん坊」

 とからかうと

「久しぶりだもん」

 と花の蕾のような唇を尖らせた。可愛い流禰。手を伸ばして、長く伸ばした栗色の髪を撫でる。流禰は心地よさそうにまつ毛を伏せて、表情だけでもっと撫でるように催促してくる。どちらが家猫だというのか。

 乾いた花のような香りがするなめらかな髪を撫でていると、流禰は不意に私をじっと見つめて、尋ねた。

「里香ちゃん、類とより戻すの?」

「どうかな」

 はぐらかすと、流禰は顔をさらに近づけて、私とがっしりと視線を結び合わせた。ヘイゼルグリーンの、類と同じ色合いの瞳。

 あのね、と流禰は言う。

「里香ちゃんが類と別れた時、私、ちょっと怒ってたよ」

「そうだったの」

「うん」

 流禰は、微かに心細い顔をした。

「里香ちゃんは類と結婚して、うちにずっといてくれると思ってた。類もそうだったと思う。それから、確証はないけど、ママも、父親も、うちの人間はみんな」

 私は曖昧な微笑みしか返せなかった。

「そう思って、期待して、裏切られて、悲しんでた。私は、ちょっと……本当は、ちょっとじゃないけど、ちょっと怒ってた。里香ちゃんが来なくなったら、類は半分死んでるみたいになっちゃうし。ママと類と私も、なんかうまくいかないしね。ママ、里香ちゃんが本当にお気に入りだったから。あ。あとで会いに行ってあげて。今は離れにいるし」

 私は頷く。流禰も小さく頷き返す。

「うちって、もともと変な家だけど、里香ちゃんが類と別れてから、本当にばらばらになっちゃって。それで私、里香ちゃんに怒ってたの。なんで勝手にいなくなるのって。でも」

 流禰は言葉を切って、小さく首を振る。

「でも、本当は違うんだよ。里香ちゃんがいなくなったからばらばらになったんじゃなくて、もともとばらばらだっただけなんだよ。うちって、ほんと、どうしようもないんだよ」

 流禰の瞳はひどく暗かった。私に、この家について言えることはなかった。結局のところ、私はこの家の人間ではないのだから。

「だから、里香ちゃんがうちに付き合うことないよ」

「流禰」

 私は流禰の手の甲に指先でそっと触れた。流禰は問いかけるように首を傾げた。私は彼女に微笑む。佐倉の家について、私に言えることは何もない。でも、流禰には、妹のように可愛いこの幼馴染には、かける言葉はいくらでもある。

「類とどうなっても、私は流禰も、マリーさんも大好きだから、この先もずっと、仲良くしたいと思ってるよ。私は、そう思ってる」

 流禰の瞳が、大きく見開かれる。

「流禰がよければ、の話だけどね。もちろん」

 流禰は何も言わずに、ほとんどのしかかるようにして、長い細い腕で私を抱きしめた。そして耳元で、この距離でさえほとんど聞こえないほどの微かな声で、

「私も里香ちゃん大好き」

 と、言ってくれた。そっと、私はその背中をたたく。私はここにいるよ、という気持ちを込めて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る