第28話

 家に戻って、電話を取り出す。最近電話はかかってくるばかりだったな、と思いながら、発信ボタンを押した。

 ニコールほどで、相手は出た。

「はい。西町です」

「私」

「里香? どうしたの。あ、今日クリスマスだから?」

 小さくため息をつく。

「違うよ。話があったから」

「ああそうなの? もうすぐお姉ちゃんが狭山さんとちかちゃん連れてくるけどちょっと話す?」

 私は姉の夫と娘の姿を思い浮かべようとするけれど、どちらにも片手で数えられるほどしか会っていないので、あまりうまくいかなかった。姪は今何歳なのかも、咄嗟にわからない。二歳にはまだなっていなかったと思うのだが。

「いい。あっちも私にかわられても困るでしょ」

「ああそう? あ、あんた結局お正月にはこっちに帰ってこないの?」

 唇を舐めて、小さく息を吐く。

「お母さん、類にそのこと話したの?」

「ああ、類君に会ったの? 流禰ちゃんが類君は帰ってくるって言ってたから、ついでにあんたも連れてきてくれないかなって話したんだけど、流禰ちゃんちゃんと伝えてくれたのね」

 そういうことだったのか。

「お母さんが直接類に言ったのかと思った」

「お母さんが? 馬鹿ねえあんた。そんなことするわけないじゃない」

 確かにその通りだ。そんな判断もできないほど興奮していたのだと思うと、恥ずかしい。

「昨日は類君と一緒だったの? うまくいってるならお正月も一緒に帰ってこればいいじゃない。ついでにいい話も聞かせてもらえたらお母さんたちも安心なんだけど」

 安心。母はきっと不安なのだろう。私のような出来の悪い娘が自分の手の届かないところで、自分の意図とはまるで違う暮らしをしていると考えるのは。そしてそれは、母のごく単純な愛情から来ている不安なのだ。ごく単純な、幼児に向けるような愛情。

「お母さん」

「なあに?」

「本当は私、類とはうまくいってないの。付き合ったりしてないの」

「え?」

 母の戸惑いは、内容よりも、私の口調に向けられたものに聞こえた。もう決めてしまったことをただ告げるだけの、きっぱりとした言い方。こんな話し方を、母に向かってしたことは、なかったかもしれない。いつだって、幼児のふりをしていた。そうするほかはないと感じていた。

「嘘ついたの。うまくいってないって言ったら、色々心配されそうだったから。だからお正月に、類と一緒に帰ったりしないよ」

「……なんでそんな嘘」

「ごめんなさい。そっちのほうが、お母さんたち安心すると思って」

 口に出してしまえば、簡単なことだった。私だってもう小さな子供ではなく、そして母だって、勿論そんなことわかっているのだ。

「馬鹿ね、あんた」

 母の声はなんだか弱弱しかった。お互い知らない場所で時が流れて、私が大きくなった分だけ、母も小さくなったのかもしれない。

「ごめんなさい」

「類君は、あんなにいい子なのに」

 いつもの言葉は、しかしいつものように私の呼吸を遮りはしなかった。微笑んで、言う。

「お母さんは、類が好きだね」

「そりゃそうでしょ。あんなにいい子なんだから」

「そうだね、でも、」

 ほんの一瞬だけ、躊躇して、でも言うことにした。ずっと言えなかったことを。

「私はお母さんが、私よりも類が好きなんだって思ってて、昔はつらかった」

 これを言うのは、今まで怯えて近寄らなかった場所に一歩踏み出すということで、同時に今まで自分が気づかずに抱えていた夢を、諦めるということだった。何も言わずにわかってほしい。自分から求めることなく、すべてを受け入れてほしい。そういう夢。こんな年になるまで、うまく卒業できずにいた、ひどく幼い夢。

 でも私にはもう、そんな夢は必要ない。ほしいものは、自分で取りに行かなくてはいけないのだ。相手が誰であっても、ただくれるのを待つことはできないのだ。黙っていてももらえるものは、もう、私は全部もらってしまっている。これ以上必要ないぐらい。

 母の答えは、短かった。

「あんた、馬鹿ねえ」

 その通りだった。

「お母さん」

「なによ」

「今日何食べるの」

「え? ええとね、ビーフシチューよ。お姉ちゃんが食べたいって言ったから。あとはかぼちゃのサラダと、チーズとか生ハムとかサーモンとか。ケーキはお姉ちゃんが買ってくるって」

「パスタとガーリックトーストとご飯?」

 ビーフシチューのときは、それぞれ好みが違うので、母は主食をそれだけ準備していた。

「お母さんもビーフシチュー好きなんだけど、それがめんどくさいのよね。まあ、クリスマスだからね」

「お母さんのごはん、食べたいな」

 母が笑う気配がした。

「あんた本当に意地汚いんだから」

 私も笑った。母のそういうたぐいの冗談は、今でも決して愉快ではないにしろ、これまでのような大きさを持っていなかった。ひどく軽い、笑えばその息に飛ばされて消えてしまうほどの些細なものだった。

「お母さんのごはん、好きだもん」

「そう思うんだったら、もっと帰ってらっしゃい。なんでも食べたいもの、作ってあげるから」

 うん。と私は頷いた。もう何年も、ほとんど記憶にないぐらい前に戻ったような、素直な気持ちで、母を、お母さんを、とても好きだ、と思った。何をしてくれるからでもなく、どういう人間だからでもなく、ただそこに生きている、という素朴な理由で、好きだった。

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