第27話

 昼過ぎに行くと、高木さんは部屋にいた。インターフォン越しに名乗ると、「ちょっと待っててください。四十秒ほど」と言い、実際には二分ほどでドアが開いた。いつもの、顔色の悪い、気楽な姿が見えて、なんだか心が安らいだ。

「傘、ありがとうございます」

「律儀ですね」

 高木さんはビニール傘を受け取ると、靴箱にいい加減に立てかけた。

 そこでふ、と、私たちの間に沈黙が落ちる。互いに言いたいことがあるけれど、どう切り出すべきかわからない。

 それを引き取るような形で、高木さんは微笑んだ。

「少し話しますか」

 頷くと、無言でドアが閉まり、またすぐ開いた。高木さんはダウンを身に着けていた。ドアに鍵をかけて、そのまま歩き出す。私はその後ろを、早足で追いかける。高木さんは小さな児童公園に解け残っている雪を踏みつけて入って行き、片隅に設置してある自販機の前で立ち止まった。ポケットから直接小銭を取り出し、コーヒーと、ミルクティーを買う。

「はい」

 唇の端だけに小さな笑みを浮かべて、私にミルクティーの缶を渡してくれる。こわごわと、手を伸ばしてそれを受け取る。缶はひどく熱かった。

「ありがとうございます」

 微笑みだけで返事をすると、高木さんは東屋のベンチに腰掛けた。私もその隣に座る。表面が溶けて濡れた雪が日差しを光の粒にしていて、眩しい。高木さんが缶コーヒーを開ける音がする。私はミルクティーを、両手でくるんだままでいた。

「聞いてもいいですか」

 コーヒーを、どうやら飲み干したらしい高木さんが尋ねる。

「昨日のことですか?」

「昨日のあのくそ野郎のことです」

 くそ野郎。一瞬、その言葉が類を差しているとはわからなかった。気づいて、噴き出してしまう。

「くそ野郎」

「くそ野郎ですよあいつ。むかつくなあ」

 言い方にどこかのんきなところがあって、申し訳なさと同時に面白くなってしまう。

「本当にすみません。昨日は」

 謝ると、高木さんは唇に微笑みを戻した。

「それ、違う人間の口から聞きたいですね」

「……すみません」

 そう言えば、類の口から高木さんへの謝罪は出なかった。そういうところが類だな、と、保護者めいた呆れを感じる。人当りはよくても、人を気遣うということが、そもそも類にはできないのだ。昔からそうだった。たとえば、そうだ、女の子に優しくしてあげても、それで相手が自分に恋をしていると知ると、そのたびに驚いていた。類の関心の外にある彼女たちにも感情があって、恋をする、というしごく当たり前のことが、類にはうまく実感できないのだ。類の世界は、今もきっと狭いままだ。そこに高木さんの感情など当然入っていない。だからどれだけの人に愛されていても、誰からも疎まれていても、類には同じことなのだ。誰からも親しまれず誰からも遠ざかろうとしていた私とは違う方法で、でも私よりも多分、ずっと、孤独なままでいる。

「あれ、西町さんの元彼ですか」

「恥ずかしながら」

「なんか、あれですね、想像してたのとだいぶ違いました」

 私は笑って、首を傾げた。手のひらの中のミルクティーと高木さんの効果で、私の気持ちはだいぶ柔らかくなっていた。高木さんの前で、深刻な気分で居続けるのは難しかった。この人と一緒にいると、すべて大した問題ではないのだと思えてくる。

「あれって、何か約束してたわけでもないのにいたんですか?」

「そうみたいです」

「それであれってなんか、だいぶあれですね」

「どれですか」

「いや、だいぶ頭おかしいなと思って。むかついたなあ。なんだあいつ。俺、昨日の夜から妄想で二百回ぐらいぼこぼこにしましたよあの男」

 そう言って高木さんは、ぽん、とごみ箱に空き缶を投げ捨てる。でも縁で弾かれたので、立ち上がって捨てなおしに行った。少し照れくさそうに戻ってくる。

「俺、西町さんの元彼なら、もっとちゃんとした男だと思ってましたよ」

 答える言葉が浮かばなくて、ただ首を傾けた。そんなことを言われるなんて、初めてだった。

「むかつくなあ」

 飽きずに繰り返す。謝ろうかと思ったけれど、高木さんがほしいのは私からの謝罪ではないのだろう。それはそうだ。類があそこで待っていたのは、私の責任じゃない。

「あの男の何がよかったんですか? 顔はいいけど、別にたいした男じゃないでしょう」

 今日は訊かれたことがなかったことを、たくさん訊かれる日だと思った。類のいいところ。そんなもの、誰の目にも明らかだと思っていた。

「顔もいいし、頭もいいし、家もお金持ちですよ」

 改めて言うと、なんだかどれも馬鹿げて聞こえた。高木さんは顔を顰めた。

「じゃあ顔がよくて、頭がよくて、家が金持ちなだけのたいしたことない男でしょう」

 私は笑う。

「たいした男じゃないけど、ちいさいころは、可愛かったんです」

 口に出すと、すとん、と胸のどこかにその言葉がはまって、どうしてこんなことを、今まで誰にも言わなかったのか不思議になる。その通りで、それだけの話だったのだ。

「幼馴染って、大変ですね」

 高木さんの素朴ないたわりに、私は子供じみた仕草で頷いた。いろんなものがゆっくりと、自分の中に納まっていく気がする。ゆっくりと、類への気持ちが、きちんと扱いやすい形になっていく。目を背けているうちに、化け物じみた力を持ってしまった、私の中の類と、類にまつわる色々なこと。

「それで、どうするんですか」

 横を見ると、高木さんは膝のあいだで細い長い指を組み合わせて、それを覗き込むようにして微笑んでいた。

「どうするって」

「より戻すとか、完膚なきまでに叩きのめすとか、より戻すふりして後でもっとこっぴどく振るとか」

「……怒ってるんですね」

「怒ってますよ」

 目元は微笑んだまま、唇を子供っぽく尖らせる。

「できれば後ろ二つのうちのどちらかをお願いしたいぐらいです」

 私は微笑む。

「どのみち、もうだめですよ。あの後すぐに別れましたし、朝起きたら電話があって、あっちからもうやめるって言われました」

 高木さんの眉が跳ね上がる。

「へえ?」

「幸せになってくれとか、言われました」

 高木さんはまた目線を下げて、唇を尖らせた。

「それってちょっと、つまらないな」

「ひどいこと言いますね」

「だってむかついてるんですよ。あれでさっさと身を引くとか、俺への当て逃げみたいじゃないですか。やり返してぼこぼこにしましょうよ」

「ぼこぼこにですか」

「苦手なものとかないんですか? あの男」

 類の苦手なもの。首を傾げる。考えがまとまるよりも前に、口に出していた。

「……おかあさん」

「お母さん? マザコンなんですか?」

 首を振る。類はそういうのではないと思う。世間一般で言われるマザコンには、全然当てはまらない。ただ、そう、聞かれて浮かんだ言葉がそれだった。お母さん。その呼び名にどこかなじまなかった、マリーさん。懐かしく、慕わしい、美しい人。そばにいるのに、遠く感じる人。いつでもここではないどこかを見つめていた人。マリーさんのことを思い出すと、懐かしさの奥に、今は別のものが見える気がした。深い、暗い、底が見えない穴のようなもの。類も、私も、流禰も、マリーさん自身も、そこにあることがわかっているのに、どうしていいのかがわからないから、言葉もなく共謀して、ないように振る舞っていたもの。そんなふうにしたところで、なくなりはしないのに。

「なんかよくわかりませんけど、それならママに言いつけてみたらどうですか」

「……いい考えかもしれません」

 笑ってそう答えると、高木さんはにっ、と悪戯っぽく唇の端を持ち上げた。

「応援してますよ」

「ありがとうございます」

 手が熱くなってしまったので、缶をベンチに置いた。手のひらを冷気が撫でてくれて気持ちがいい。会話が途切れると、胸の中にも風が吹き込んで、涼しさに似た孤独を感じた。

「高木さんは」

「はい」

「優しいですね」

 何か伝えたいことがあったのに、ひどく拙い言葉しか出てこなかった。それでも高木さんは私にとても優しいまなざしをくれた。私はじっと、高木さんの目を見つめ返した。普段はそこに映るものすべてを揶揄しているようなその瞳が、今はひたすらに優しかった。

 この人にもらったもの、この人が多分たいした意識もなくくれたものが、私にとってどれだけ大切で代え難いものなのか、説明するのは不可能に思えた。口にした瞬間に、ちがうものに変わってしまいそうで。

「優しいついでに、一ついいこと教えてあげましょうか」

「いいこと?」

「どうかな。実は悪いことかもしれない」

 含みのある発言だ。なんなのか想像もつかなくて、少し怖いけれど、好奇心に負けた。

「教えてください」

 高木さんはどうしてだか、わずかに困ったように目を細めて、私から目線を外した。

「俺ね、話しかけるよりもずっと前から、西町さんのこと知ってましたよ。いつも泣いてる女の子だと思ってた」

「前に言ってましたね」

 高木さんは頷く。

「最初見た時には、びっくりしました」

 どういう意図でそんな話をしているのだろう。からかっているのかと疑ったけれど、高木さんの口ぶりにそんな気配はなかった。昔のことを懐かしむような、ひたすらに穏やかな声。

「本棚漁って、本抱えて、中身確認しようと思って閲覧席に行ったら、あなたがいた」

 あなた、と呼ばれているのが私だと、一瞬わからなかった。頭では理解した後も、自分のことのようには聞こえなかった。高木さんは、組み合わせた両手を覗き込んでいた。そこに過去が映っているかのように。

「あなたは泣いていて……本から目線は逸らさずに、ただぱらぱら涙が頬に落ちていて……俺はびっくりしました。本当にびっくりして、しばらくそこに突っ立って、ただその女の子を見てた。なんだか現実じゃないみたいで」

 高木さんは微笑んでいた。私に微笑みかけているのではなく、ひとりでに浮かんだ笑みに見えた。

「なんていうのかな、ぼーっと歩いてたら、虹が出てたとか、夕焼けがすごく綺麗だったとか、そういう不意打ちでした。日常の中に、突然現れた綺麗な風景。本を読んで泣いているあなたは、とても綺麗だった。それで、」

 言葉を切ると、照れたように笑った。

「それまで図書館って、用が済めばすぐに帰ってたんですけどね、またあなたが泣いてるかもしれないと思うと、つい長居して、探してました。気色悪いですかね」

 首を振った。いいとか悪いとかではなく、うまく実感できなかった。

「言い訳をさせてもらうけど、そんなストーカーみたいな真似をしてても、あなたが実際にどんな女の子なのかは、あんまり気になりませんでした。……いや、違うかな。あなた自身への好奇心はあったけど、知ってしまうことで、俺との間に関係ができてしまうのは、嫌でした。あなたは俺にとって、お気に入りの風景でした。図書館で泣いている女の子っていう一つの風景であって、一人の人間じゃなかった」

 高木さんはそこで、顔を持ち上げて、私に微笑みかけた。今まで見たことがない種類の笑みだった。とても個人的な微笑み。どうしてだろう。寂しかった。

「それでも結局、話しかけてしまいましたけどね。好奇心に負けた」

「後悔しました?」

 頷かれたら、きっと自分はひどく傷つくだろうと思いながらも、尋ねた。

 高木さんは、首を振ってくれた。

「声、かけて、よかったと思ってます。西町さんは……」

 そこで、高木さんの微笑みは、いつものものに戻った。飄々と、距離を取った笑みに。

「特別にいいところもないけど、しかし話してて楽しいですよ」

 笑ってしまう。それから、じわじわと内側から温まるように、嬉しくなった。ミルクティーの缶を、両手に包む。まだ十分にあたたくて、なんだか喉が熱くなった。高木さんを見つめる。ここ何か月かで、心のずっと欠落していた場所を、埋めてくれた人。体温は届かない場所から、声を届けてくれた人。

 そして、理解する。高木さんはもう、私とは会わないつもりなのだ。だから「いいこと」も教えてくれたのだ。

「高木さん」

「はい」

「私、高木さんのこと、好きです。話してて、楽しかった」

 それを言うのには、ほんの少しの勇気だけで十分だった。これは愛の告白ではないから。高木さんも、それを察して、いつもと同じ軽さで微笑んでくれた。

「俺も西町さんのことが好きですよ」

 私たちは微笑み合うことで、口には出さない一つの了解をした。高木さんは口元に微笑みを残したまま、さて、と立ち上がった。

「じゃあ、俺はそろそろ行きます。よいお年を」

 そのまま歩き出した高木さんの背中に、私も言った。

「はい。色々ありがとうございました。よいお年を」

 こちらに背を向けたまま、高木さんは手を肩のあたりで振ってくれた。色の悪い、骨ばった、指の長い、見慣れた手。あの手があたたかいのかつめたいのかも、知ることはなかった、と思った。この先も、知ることはないだろう。

 いつもと同じ早足で、高木さんは私の視界から消えた。手のひらの中のミルクティーのぬくもりも、ゆっくりと冬に溶けていく。私は缶を開けて、ミルクティーを飲んだ。

「あま」

 冷めかけている分、甘みが強い。寒さから体を守るように肩を縮めて、ゆっくりと、ゆっくりと、一口ずつ、飲む。何も食べていなかったから、おなかの中にじんわりと甘い液体が染み入ってくる。

「美味しかった」

 空っぽの缶に向かって、言ってみる。風がおでこや鼻や耳をひやして、少し痛い。立ち上って、缶をゴミ箱に捨てる。軽い音を立てて、高木さんからもらったものは、もう私の手の届かない場所に行ってしまった。

 なんだか、泣きたいな、泣けたらな、という気持ちになった。そんな自分を笑った。

 泣きたいな。泣けたらな。

 そういう気持ちになった。けど、そういう気持ちになった、だけだった。

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