第26話
眠っているとも起きているともわからない曖昧な妄想や思索や回想に溺れた私を現実に引き戻したのは、携帯電話のバイブレーションだった。布団から顔と腕だけを出し、くぐもった音を発する鞄を探り、携帯電話を取り出す。
「類」
呟いて、通話ボタンを押した。押した瞬間、本当にそれでいいのかという迷いがやってきたけれど、もう遅い。
「ごめん。寝てたかな」
類の声は、今までとは違ったふうに響いた。その違いが、どこから来るのかは、私にはわからない。ただ小さな戸惑いを覚える。
「寝てた」
どうしたの、と聞くのは、やめて、質問にだけ答える。
そう、と類は、微かな笑みを含んだ声で言った。
「僕は、ずっと考えてた。車の中で」
車の中?
私は反射的に布団から抜け出して、強い朝日に温められているカーテンの端を掴んだ。
「出てこなくていいよ」
その言葉に、手が止まる。では類は、そこに、私の部屋のカーテンの動きが見えるほどの距離に、いるのだ。
「考えてた。ずっと。本当はもっと長い時間、考えるべきだったのかもしれないけど、一晩で限界だった」
類の声の違和感の正体に、気づいた。類の声からは、いつもあった熱と、甘さが消え失せていた。
「少し……少しじゃないかもしれないけど、話してもいいかな」
「……何を?」
「考えてたこととか、考えた結果のこととか。少しでは終わらないかもしれないけど、そんなに長くはかからないと思うから」
「……いいよ」
ありがとう。と、聞きなれた声で、聞きなれない静かな響きで、言う。
「何から話せばいいのか、でも、よくわからないな……本当に、色々考えたんだ……考えて……」
短い沈黙を合間合間に挟み、類は言葉を繋げていく。傷ついた脚で歩くように。
「それで、僕が本当に何かを考えたことって、これまで一回もなかったような気がして……ちょっと、驚いた」
聞きようによっては奇妙な発言だけれど、私にはわかる気がした。類はものを考えない。迷わないからだ。類の優先順位はいつだって明確でゆるぎないから、彼は状況に応じて、即座に判断するだけだ。
「僕は……多分、だからだめなんだ。だめだっていうのはわかるのに……どうしたらいいのかは、わからない……わからないんだ……」
私は何も言えないで、ただ類の言葉を、彼が苦しむのを、聞いていた。
「里香が最初に離れていったときも……僕にはどうしてなのか、わからなかった。どうして里香があんなに苦しそうだったのかも……どうして僕から離れたかったのかも……わからなかった。あのとき、僕はただ、幸せで……里香がそばにいてくれるだけで、他にほしいものなんかなかったから、君もそうだと思いこんでた……」
私は首を傾けて、ぴったりと耳に電話をつける。細く吐いた自分の息が白くて、そこで初めて暖房もつけていない窓辺がひどく寒いことに気づいたけれど、肌では寒さを感じなかった。
「また里香に会って……里香がまた笑ってくれたから、勝手に許されたような気になって……里香といると、やっぱり幸せで……どうしようもなくて……君が、ほしくて……ほしくて……いつもそばにいてほしくて……そうしてもらわないと、僕は、どうしようもないんだ……どうしようもない……」
類の声はひどく暗い場所から流れ出しているかのようだった。類の美しい顔や柔らかく洗練された物腰からは想像もつかない、けれど本当はそういうものよりもずっと彼という存在の深部に存在している場所。私が漠然とそういう存在を予感しながらも、見たことも触れたこともなかった場所。
「子供のときからずっと、そうなんだ……。僕はどうしようもない人間で……普通の人が当たり前に持っているものを、何も持っていなくて……人を戸惑わせてばかりで……一人で……辛かった。里香に会うまで、楽しいとか、うれしいとか……そんなことも知らなかった。今でも、君がいないとわからない……僕には何もないんだ。君がいなければ、何も、ないんだ……」
それは私に訴えかけるのではなく、聞くものもない閉ざされた場所で、自分の内側に向かって話しているように響いた。
「里香は、僕がほしいものを、なんでも持ってて……なんでも全部、僕にくれて……これがほしかったんだって、僕が自分で知る前から、君が、いつだって、僕に教えてくれて……君がいると、いつも、自分がくだらない、何も持ってない人間だって、忘れられて……なんだか満たされた、普通の男になった、気がしてた……普通に幸せになって、普通に人を思いやって、普通に家族を作って、普通に愛されて……」
そこで、類は短く笑った。
「でも、それは、嘘だ……」
類から流れ出した黒く冷たいものが、私の耳を濡らして、凍えさせる。冷たくて、身体が動かない。
類。
「里香を愛してるって……大切にしてるって、ずっと自分で思い込んでた。君にいろんなものをあげて、いろんなことをしてあげて、いろんなところに連れて行って……君にありがとうって言われて……それでいいんだって、思い込んでた。里香は……」
類は言葉を切る。そう長い時間ではないのに、ひどく重い沈黙だった。
「……里香は、本当はそんなもの、いらなかったんだろう?」
そうだね、と、考えるより前に、言葉が唇を滑り落ちた。ひどく静かで、残酷な声だった。それを悲しむ心も、楽しむ心も、今は両方凍りついていた。ただ、心臓の奥の方が、類の声に共振して、細かく細かく震えていた。
「それは、考えて……色々考えて、それだけは、わかった……。でも、君が本当は何をほしがってて、何を必要としてるのかは、僕には全然、わからなかった……。それがもしわかったら……どんなものでも、君にあげるのに……どんなものでも……君が僕にくれたものに比べたら、なんだって全然、たいしたこと、ないのに……どんなものでも、あげたいのに……僕にはわからないんだ……わからない……どれだけまともになったつもりでも、幸せになったつもりでも、そんなの全部、嘘なんだ……。君がいたって、夢を見られるだけで……どれだけ忘れていたって、僕はずっと、僕のままなんだ……まともになんて、なれない。僕は、君を……」
類、と、声には出さずに、彼を呼んだ。
類。
そこにいる孤独な男に。そして、彼の成熟した肉体の奥に隠れて、でも今でも確かに消えずにいるはずの、私の男の子に。寂しがりで、甘えん坊で、臆病で、私がほんの少しでも他に興味を移しただけで心細そうに緑の瞳を潤ませていた、私の可愛い、可哀想な、大切な、ちいさな男の子。これだけ自分本位な私が生涯でたったひとり、愛した、そして今も愛している、私の男の子。類。
「君を、幸せには、できない人間なんだ……」
私は目を閉じる。ただ類の言葉が聞きたかった。一言も聞きもらしたくなかった。
「僕にはできない……そうしたいのに、できないんだ……。君を幸せにするつもりで、君がほしくないものをあげて、君を苦しめて……僕はずっとそんなふうにやってきて……他のやり方なんか、わからない……わからないんだ……」
だから、と類は何かを振り絞るように、言った。
「だから、僕は君を、諦めなくちゃいけない」
感情はひどく凪いでいた。
「里香」
吐き出せる苦しみは全て吐き出してしまったのだろう。類の声は優しかった。
「うん」
「今までごめん。昨日も。本当にごめん」
「うん」
うん、は変かな、と思ったけれど、他に言えることもなかった。
それと、と類は続ける。
「今まで、本当にありがとう。君がそばにいてくれた間、僕はずっと、ずっと、幸せだった……夢みたいに」
それならよかった。
何の皮肉でもなく、自分でも思いがけないほど素直に、そう感じた。
「これから君なしで、どうやっていいのかわからないけど……でも、どうにかやっていこうと思う。自分ひとりで、まともに生きていくなんて、考えたこともなかったけど……でも、そうしなくちゃいけないんだと思う。少しずつでも、うまくやっていけるように、努力する。だから」
類の言葉が途切れる。私は待ち望んでいた愛の言葉を受けようとするひとのように心も身体も震えて、電話に耳をつけていた。
「里香も、どうか、幸せに」
類。
彼に伝えたい言葉が、今はたくさんあった。語りつくせないほど、雪を溶かして流れ出す水のように、とめどなく私の中を満たし、溢れていた。
それでも私の口からこぼれたのは、たった一言だった。
「ありがとう」
類の微笑む気配がした。
「さよなら」
私の答えを待たずに、電話は切れた。目を開けると、カーテンをくぐってもなお強い朝日が視界を圧した。窓の向こうを覗きたい気持ちを、押さえて、私はただ座っていた。ひどく寂しくて、でもこの寂しさだけが、私が必死で求めていたものなのだとも思った。類が私にくれたもの。
「類」
届かないとわかっているから、名前を呼んだ。答える声はない。
そうやって、私が愛した男の子と、私が愛せなかった男は、私の人生から立ち去っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます