第30話
大きな木のドアと、古びた加工がされたノブ。しばらく思い出すこともなかったのに、目に入った瞬間に、頭のどこかから速やかに記憶が引き出された。ノブに手をかけてドアを開く。微かな蝶番のきしみも、手のひらへの感触も、感覚のあとを記憶が追いかけてくる。
部屋に入り、ドアを閉めた。窓には厚めのカーテンがかかり、曇天の日差しは部屋の照明には足りない。手を慣れた高さに上げて、電灯をつける。その動作から電気がつくまでの間隔も、なじんだものだった。見慣れたベッド、ソファ、ローテーブル、机、本棚。掃除は行き届いているし、寝具も整えてある。ただ小物は片付けてあり、部屋の空気は沈んでいて、匂いも空疎だ。この部屋の主の、短くはない不在ははっきりと表れていた。
懐かしい。
でもその懐かしさは肉体的なもので、私は心の奥から、何かの感情が取り出せないかと思う。けれど心は思ったよりも頑なで、記憶は記憶として、ただそこにあった。私はソファの脇に立ち、眺めている。布の感触や、座った時の柔らかさまで、見ているだけで思い出せる。でもそこに座って何が起こり、私がどう感じたのかは、うまく思いだせなかった。身体の記憶と心とをうまく繋ぐためには、何か、欠かせない何かが、今はまだ足りなかった。
ここに戻ってきてしまった、とも思い、また、やっとここまで辿りついた、とも、思う。
寒気に似たものが、肩を震わせる。自分の身体をゆるく抱いて、ソファを見下ろす。そこに腰をかけることには、説明しがたい躊躇があった。この部屋のものに触れてしまえば、自分がこの部屋に属してしまうような気がした。まだこのままでいたくて、感情に結びつかない懐かしさの感覚に包まれて、ただ立っていた。この保留はほんの束の間のことだとはわかっていたからこそ、今はまだ不安定なままでいたかった。
どれだけの時間、そのまま突っ立っていたのだろう。足音が聞こえた。微かな、ごく微かな、音というよりは気配と言った方がいいかもしれないもの。目を細めて、首を傾げて、意識をそちらに向ける。軽い、穏やかな足取り。階下から、こちらへやってくる。何度もここで聞いた足音。そのとき初めて、懐かしさが心に届いて、泣き出しそうになった。この頃、気持ちが妙に脆い。これまでの日常の中で鍛えたり摩耗したりした部分と、違うところばかり使うせいかもしれない。それを思うと、この先のことが少し怖くなる。きっとこれからは、今までやったことがなかったこと、いつも向き合わずに逃げていたことを、しなくてはいけないから。
足音は近づいている。廊下を歩き、ドアの前で止まる。私は自分を抱いていた腕を解いて、ドアに向き直る。ノブが回り、ドアが開く。
見慣れた人物が、部屋に入ってくる。俯いた顔は白く褪めて、表情がない。電気が点いていることを不審に思ったのか、視線を持ち上げる。
「……里香?」
ヘイゼルグリーンの瞳が、丸く見開かれる。色の抜けた頬に、血が差していく。私は類に微笑みかける。
「……あけましておめでとう」
かける言葉に迷い、結局口をついて出たのはそんな馬鹿げた挨拶だった。類はこちらを見つめ、廊下と部屋の境に立ったまま、私の方に手を伸ばした。伸ばしたところで、届くはずもない距離なのに。どうやら反射的な行動だったようで、手を下して、尋ねる。
「……どうして」
類があまりに動揺しているので、反動のように私の気分は少し落ち着きを取り戻した。
「勝手に入ってごめんなさい。流禰に類に話があるって言ったらここで待っててって言ってくれたんだけど、聞いてなかったみたいだね」
わざと類の意図からずらして答えを返した。類は不安げに瞳を翳らせて、私の言葉を待っている。見上げるほどの身長。広い肩幅。この部屋で、私たちが最後に過ごした時間が、不意に頭をよぎった。けれどもう、あのときに感じた恐怖は、意識が触れた先から、砂のように崩れ、どこかへ吹き散らされていった。今の私は記憶の中の類も、目の前の現実の肉体も、怖くなかった。類の脆さも、そして私自身の強さも、今はわかっていた。あの頃の狭く暗い視界では、まるで見えなかった。
「話があったから、会いに来たの」
類の顔が、ほとんど泣きそうに歪んだ。
「聞きたくない」
「類」
類は首を振った。
「聞きたくない……。これ以上は、僕には耐えられない」
「類」
類は私の視線を遮るように、右手で顔を覆った。
「ごめん。聞きたくない……これ以上、君と話すのは、辛いんだ……君を見ると、つらい……」
声が震えている。こんなふうに弱さを剥き出しにする類を見ていると、私の口元にはちいさな笑みが浮かんだ。諦めと寛容と、多分優しさが混じった笑み。
「類」
今、この場所で、状況を握っているのは類ではなく、私だった。それを意識して呼びかけると、類の肩がびくりと痙攣した。
「このあいだは類だったでしょう。今度は私の番だよ」
ゆっくりと、類の手が顔から外れる。私は類にあと一歩の距離まで近づいて、その顔を覗き込んだ。零れ落ちそうなほどの涙の膜に覆われて揺らいでいる、ヘイゼルグリーンの瞳。それに向かって、微笑みかける。
「話を聞いて、類」
私の言葉は現実的な拘束力を持って、類を縛り、動かした。類の身体は彼の意志から切り離されたように、私が手で示したほうへと歩き出す。私は開いていたドアに手を伸ばし、閉じた。乾いた音とともに、私は自分と類を、この部屋に閉じ込めた。
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