第24話
あのあと、私は足早に類の家を出て、自分の家に帰ろうとした。気持ちも身体もぐちゃぐちゃで、傷ついた部分が痛んで、早く安心できる場所で横になりたかった。家の前まで行って、ふと私は立ちすくんだ。
家は別に、安心できる場所じゃない。
母や姉に会わなくてはいけない。そのとき、不審に気づかれてはいけない。仮に気づかれたとしても、どうにか丸め込まないといけない。そのときの私には、ずいぶんな重荷だった。
私には味方なんて誰もいない。
指先がつめたくなった。その場で泣き崩れたかったけれど、見咎められたらと思うと、そんなことはできなかった。
深い息を吐いて、自分を鼓舞した。やり通さなくてはいけない。心の柔らかい部分をしっかりと隠して、誰にも見られないようにして、どうにかやり通さなくてはいけない。
戦いに行く気持ちで、家のドアをくぐった。「おかえり」という母の声に曖昧な返事をして、二階の自分の部屋へと急いだ。ベッドに飛び込んだとき、泣きたい、と思ったけれど、我慢した。急に下に呼ばれたら、ごまかすことは難しいと思ったのだ。そのときの私には泣く場所さえなかった。バッグの中で、携帯電話が震えていた。佐倉類、という表示。私は着信を拒否した。ほんの少しの罪悪感と、それを打ち消すほどの、ある種の清々しさ。
その日一日をどうにかやり過ごして、翌日の朝に家を出ようとすると、類が、立っていた。類の服は、前日と同じだった。もしかしたら一晩中そこに立っていたのかもしれない。
私の喉は、恐怖に凍りついた。後ずさり、ドアに背中をつけた。類は門の向こうから、じっと私を見つめていた。悲し気な、ヘイゼルグリーンの瞳。唇が、小さく開く。
「里香」
ほんの微かな声なのに、私の耳に、しっかりと届く。聞きなれた、あまりにも聞きなれたその声。それなのに、それが怖かった。そこに籠められたものを、私は本当は何もわかっていなかった。私と類はただ一緒にいて、ただ身体を重ねて、ただお互い全然違うものを夢見ていただけで、本当に相手のことを理解しようとしたことなど一度もなかったのだ。類は私をあれほど、あれほど大切だと、愛していると言っていたのに、本当のところ、自分の夢のためなら、現実にいる私のことなんかどうでもいいと思っている。そして私は、類の意思のもとではやすやすと蹂躙されてしまうのだ。
「ごめん。愛してる。許してほしい」
類は血を吐くように言う。多分、本心から言っているんだろう。それはわかっていた。許してやりたい、という習慣に基づく欲求が、胸のうちで騒ぐ。
でも許して、それでどうなる?
どのみち私にはもう耐えられないのだ。類のそばにいるのも、進路を制限されるのも、もう耐えられない。学校でも、女の子の友達がほしかった。高校だって、好きなところに行きたかった。セックスだって、もうしたくない。就職したら、東京に行きたい。この家にはもういたくない。私は私の場所がほしい。私だけの、誰にも気兼ねせずに、好きに泣ける場所が、ほしい。馬鹿げたわがままなのかもしれない。類という人、この美しく優れた男のそばにいるためなら、全部諦めるべきなのかもしれない。でも、私は馬鹿でわがままなのだ。違う人間になど、どうしたってなれはしない。どんなに頑張ったって、見ないふりをしたって、私は私なのだ。
類と一緒にいることで、私は少しずつ、少しずつ、自分をすり減らしていたのだ。もう類にあげられる優しさなんか、何も残ってない。優しさがなくなったら、もうおしまいだ。だって。
私は類を、愛してはいない。
「……かえって」
なんとか絞り出せた言葉は、それだけだった。
うつむいていたので、類の顔は見えなかった。ただ遠ざかる足音だけが聞こえた。
重苦しい気持ちで授業と説明会をこなして家に帰った。玄関で靴を脱いで、ただいま、と声をかけてリビングのドアを開ける。
「おかえりなさい」
という母の声が、ひどく遠くに聞こえた。類がいた。テーブルの父の席に座っていた。母が台所から出てくる。
「類君が来てくれたから、お茶飲んでてもらってたの。ごはんも食べていけばいいのに」
母の声は類が来たときの常で、妙に華やいでいた。類は感じよく微笑んで、首を振った。
「ありがとうございます。でも、少し里香と話をしにきただけですから」
「それならしょうがないけど……里香、あんたもお茶飲む?」
首を振った。混乱していた。頭だけじゃなく身体もこの状況に困惑しきっていて、内臓がぐるぐると納まり悪く騒いでいた。口の中は、前日に切った舌から滲む血の味。
「里香、部屋に行こうか」
類が私に言い、母にすみません、と小さく頭を下げる。母ははいはい、とものわかりよくうなずいて、台所に戻る。類は私の手首を静かに拘束し、私は混乱のまま、類と階段を上る。
部屋のドアは、類が開けた。ああ、と胸の内で言いながら、私は部屋に入ってしまう。ドアが閉まる音。私は類の手を振りほどいて、鞄をお腹の前で抱きしめた。
「里香」
母親の前で被っていた仮面が剥がれて、弱弱しい顔で、類が私を呼んだ。
「里香」
他の言葉を思いつかない様子で、類は繰り返す。私は一歩、類から離れた。
類はあからさまに傷ついた顔で、私が離れたのと同じだけ距離を詰めた。私はもう一歩離れる。
「里香。逃げないで」
類が腕を伸ばして、私の肩を掴んだ。私の手から鞄が落ちる。足に当たって、私はバランスを崩してよろめいた。類が、私の身体をなめらかに受け止める。そういうふうにできているかのような自然さで。
「……里香」
小さな小さな声で呼ぶと、感触を確かめるように、しっかりと抱きとめる。私の身体から、力が抜けていく。肌はつめたいのに、変に汗をかいている。口の中は血の味と、なんだかわからない苦味にあふれている。お腹が痛い。気持ちが悪い。
「里香。愛してる。離れないで。ずっとそばにいて。お願い。愛してる。どこにも行かないで。置いていかないで」
類が哀願しながら、私の背中を手のひらで辿る。逃げられない。怖い。
「愛してる。どこにも行かせない」
私の身体ももう限界だった。脚から力が抜け、へたり込みながら、私は嘔吐した。
口の中のひどい味と匂いに辟易して、惨めで死にたくなったけれど、結果としてそうしたことは良い方向に働いた、と思う。私の身体も、私を裏切るばかりではないのだ。
類は血相を変えて母を呼びに行った。母はうずくまる私にどうしたのかと尋ねたけれど、私は何も言わなかった。体調のせいで答えられなかったのではなく、何も言わなくても許されるだろう、という打算が働いたからだ。
母は類に謝って家に帰した。私は着替えさせられ、ベッドに入った。軽い熱が出ていた。
「具合がよくなったらでいいけど、類君に謝りに行きなさいね」
布団をかけてくれる母に頷きながら、具合がよくならなければいいのに、と思っていた。不調の理由も母親に説明できないことが、無性に情けなかった。
一日寝ていれば、熱は下がった。朝食に出してもらったおかゆを食べていると、母が言った。
「お母さん昨日類君に謝っておいたけど、あんたもちゃんと行きなさいね」
身体に収めたばかりのものが急に質量を増したような憂鬱に襲われたけれど、頷いた。
「はい」
大学に行く前に、類の家に行った。インターフォンを押すと、誰何さえされず、すぐに類が出てきた。食事を摂っていないのか頬がこけていて、目の下にくっきりと翳ができていた。私は門の外に立っていて、類は一歩ずつ、ゆっくりと、私に近づいた。怯えているように見えた。
「おとといはごめんなさい」
制するように、私は言った。類は気圧されたように立ち止まる。自分の声が、いつもよりも強かった。私にはもう、私の身体が人質になっているのだ、とわかった。類は、私が傷ついたと理解すれば、そこから踏み込むことなどできないのだ。私を、愛しているから。そう考えると、やっぱり可哀想な気もした。でも、可哀想なだけでは、一緒にはいられなかった。
「わかってると思うけど、もう私、類とは無理なの」
類は何も言わなかった。ただ、泣き出しそうに顔を歪めただけだった。見るに堪えなくて、私は目を逸らした。
「子供が、できてたら……」
その声は小さかったけれど、鮮明に耳に届いた。一瞬、強烈な怒りが私の脳を白く灼いた。指先が震える。息を細く吐いて、表に出さないように抑え込む。
「安全日だから、多分できてないし、もしできてても、類には関係ない」
「でも……」
顔を上げて、憔悴した顔を睨みつけた。
「じゃあ類は、自分がまともな親になれると思ってるの?」
言った瞬間、自分がここまで残酷になれるものかと、愕然とした。絶対に触れてはいけないと思っていたから、意識にさえ上らせることもしなかった、類の急所。もしかするとこれまで私が発したどんな言葉よりも、それは直接的に類を傷つけたのかもしれなかった。
類は何も言わなかった。私は顔を伏せた。類の顔を見る勇気が、もうなかった。
「じゃあ、さよなら。元気でね」
早口に言って、その場を離れた。
それで、おしまいだった。やがて、私の家族も私たちの破綻を知った。しばらくは遠回しにも直接的にもやり直せと言われたけれど、聞かなかった。類が私への一切の接触を絶ったので、じきにそれも納まった。私は東京の会社に就職を決め、家を離れた。妊娠も、していなかった。
東京に来てからは、実家には、なるべく連絡を取らず、なるべく帰らない。私は多分類を捨てることで、実家も一緒に捨てたのだ。誰に言ったわけでもないけれど、私はあの家を、帰る場所、自分の場所だと思うことを、やめた。それは私以外の誰のせいでもない。大学まで出してもらって、ぬくぬくと大切にされていたのに、恩知らずな話だとはわかっている。でもあそこは、私の居場所ではなかった。あの家で期待されている私に、すっぽりと納まっていることは、私にはできなかった。できなかったのだ。
そうやって今までの自分を作り上げてきたものから無理矢理自分を引き剥がすようにして、私は類と別れた。
涙を拭う。あの頃のことは、ずっと思い出さないようにしていた。知らない場所で、誰とも親しくならないようにして、それなりの忙しさから小さな愉しみを拾い上げる生活に浸って、昔を振り返る暇などないのだと自分をごまかして、ずっと目を逸らしていた。
それでもずっと、あの時の痛みは残っていた。忘れられなかった。自分のために忘れるべきだとわかっていても、目を逸らして、傷を癒そうともせず、痛みを痛みのまま保存しておいた。
後悔を、していたのだと思う。あんなふうに傷ついて、あんなふうに傷つけることなどなかったのだと。もっとちゃんとしたやり方があったはずなのだと。だから、やり直したかった。もう一度恋人同士になりたいと、思っていたわけではない。でももっと傷つかずに一緒に居る方法が、あるはずだと。でも間違っていた。間違っていることも、本当は再会したときにはわかっていたのに。私と類では、うまくいくわけがない。わかっていた。どんな形であれ、また苦しむことになる。それでも。
それでも。
目を瞑る。私という卑怯で独りよがりな人間の何層にもなった欺瞞の、奥の、奥にあるもの。自分の思惑さえ届かないほど場所に、ずっと大切にしていたもの。
私は今の類を、愛してはいない。愛せない。わかっていた。それでは一緒にいても、苦しむばかりだ。わかっていた。それでも。
それでも、取り戻したいものが、あった。取り戻せないとわかっていても、あきらめることのできないものが。孤独で空虚な一人ぼっちの私を、ずっとずっと温めてくれる、ちいさな、けれどいつまでも消えない、遠い、過去にしかない、光が。
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