第23話
部屋に帰ると、私は服を着たまま、布団の中に潜り込んだ。そうしてまた、泣き始めた。何のために? わからない。失われてしまったもののために。それは何か? わからない。
吐き気と嗚咽と寒気の中で、私は思い出していた。類との一度目の別れのことを。あのときからずっと、箱の中にしまって、なかったことにしようとしていたものを。自分を苛むためにか、それとも類への罪悪感を薄めるためにか、わからなかった。そのどちらでもあって、多分、どちらでもなかった。どのみち、箱は開けなくてはいけないのだ。起こったことは、なかったことにはできない。目を逸らしていても、それはずっと存在しているのだ。
四年前の、あの日のこと。あれが本当に、私が類を捨てるに足りるほどの酷いことだったのか、今となってはよくわからない。あのときだってよくわからなかった。他の人にこんなことがあったと言っても、我慢しろと言われる気がした。誰かにわかってもらいたいという期待は、否定されるかもしれないという恐怖に負けて、だから私は口をつぐむことを選んだ。誤解による非難のほうが、現実を正しく理解した上での非難よりも、ずっとましだった。
就職活動は、四年生になるとますます忙しくなった。東京の会社も受けた。類や家族には、地元の支社に就職するにしても、東京本社に行かなくてはいけないのだと、嘘をついた。就職活動は楽しいことでもなかったけれど、遠いところに行くのは、私にとっては非常な贅沢だった。知っている人がいないと、息が楽で、自然と背筋が伸びた。私は、東京に就職したい、と考えるようになった。この人が多い、誰も私を知らず、誰も私に関心を向けない場所で、自分の能力だけで生活したかった。そして、それは決して実現不可能な夢などではなく、私の持つ選択肢の一つなのだと、そのころ気づいた。私はもう成人しているから、どこへだって行けるのだ。その気になれば、類と関係なく暮らすこともできるのだ。私は働きたかった。労働が好きなわけではなかったけれど、自分で自分の居場所を作るためにはそうするほかないのだとわかっていたから。私は他人が用意した私の場所から、逃げ出したかった。それはまだどうなるかもわからない漠然とした願望ではあったけれど、そういう可能性があるということは、私の気持ちを軽くした。
類が、いつから不審に思っていたのかはわからない。私は自分の計画に夢中で、類のことなどまるで気にしていなかった。就職活動という免罪符で、類をどこまでも自分から遠ざけていられると信じていた。類にはそうではなかった。類はいつだって、私のことを気にしていたのだ。彼は私が持っていた履歴書から、受けようとしていた会社が、東京本社の募集しかないことを簡単に探り出した。そしてすぐに、私を問いただした。類の部屋で。その日も、類の家には誰もいなかった。マリーさんは離れ。流禰は部活と塾。類の父は仕事。類と私はソファに並んでかけていた。いつもは必ず出してくれる飲み物も、その日はなかった。
「どういうことなの?」
類は苦しそうだった。裏切られた人間の顔をしていた。その顔に、なぜだか私は無性に腹が立った。抱えていた後ろめたさを振り払うように、乱暴に答えた。
「類には関係ない」
「関係なくないよ。東京でやりたい仕事があるの? ちゃんと話してくれないとわからない」
ちゃんと話してくれないと。
あの時も、そうだった。私を怒らせたのはその言葉だった。ちゃんと話したところで、絶対にわからないくせに。
「類と離れたいから、東京に行きたい」
そう言ったときも、私には怒りしかなかった。その先のことなんか考えていなかった。
でも、通じなかった。
「里香? どうしたの?」
類は心配そうに、私の顔を覗き込んだ。そして、私の肩をそっと叩いた。
「ちゃんと話して。落ち着いて」
私はひどい徒労感に駆られた。私は、ちゃんと話したのに。ほとんど初めて、類にちゃんと本当のことを話したのに。類は否定するどころか、聞きもしないのだ。
「類」
「何?」
「別れて」
それは実際には提案ではなく、ただの非現実的な暴言だった。そのときの私には、類と離れることは想像しても、類と別れるという発想は、とても現実のものではなかった。ただ類を傷つけてやりたかっただけだ。小学生が教師に悪態をつくように、無力なものとして反抗してみただけだ。
自分の判断が間違っていたことは、すぐにわかった。類の顔はみるみる蒼ざめ、見たこともないような苦しみが、くっきりと焼き付いていった。ぞっとした。
「嘘だよね?」
類が、私の肩を掴んだ。すごい力だった。赤ん坊が母親に縋りつくような、私の痛みなど念頭にない、必死な力だった。痛みに、顔が引きつった。類が、怖かった。この男がその気になれば、私などいくらでも好きにできるのだと、身体で理解した。指先がひどく冷たくなる。
「嘘だよね? 里香、嘘だよね?」
私はただ震えていた。類の発する声に、殴りつけられているような気がした。何も言わない私に少し落ち着きを取り戻したのか、類は肩を掴む手の力を緩めて、私をその広い胸に抱き込んだ。慣れたその胸が、檻のように私を包んでいた。私は全身を強張らせ、ただ感覚だけを鋭くさせていた。
「そんなこと言わないで。里香。ちゃんと話をしよう。ちゃんと、話をしよう」
言葉とは裏腹に、類の手は、くっきりと欲情をもって私の身体をなぞっていた。触れられた部分から、寒気がした。いつもなら私の皮膚を蕩かしていく指が、私を凍りつかせていた。恐ろしかった。
「里香。里香。里香。愛してる。愛してる。里香。どこにも行かないで。里香。愛してる」
どうにか類の胸を手で押したけれど、何の意味もなかった。類はそんな抵抗を黙殺して、私を抱き上げると、ベッドに降ろした。信じられなかった。こんな状況でそんなことをしようとする類が、信じられなかった。
「愛してる」
そして、類は私の唇を愛の囁きが残る唇でふさいだ。執拗に、何度も何度も口づけて、私の呼吸を奪った。答えを聞きたくなかったのかもしれない。
あれを、強姦と呼んでいいのかどうか。私にはよくわからない。類の指はいつもよりも性急に私の身体を滑ったとはいえ、乱暴だったわけではなかった、と思う。意図して痛みを与えようとはしていなかった。私が全力で抵抗しても、行為に及んだのかどうか。おそらく、類はしなかったと思う。今の私ならそう考える。今の私なら。
あのとき、私はほとんど抵抗はしなかった。できなかった。ずっと怯えていた。触れられる部分からは恐怖だけが沸き起こった。私の肌は粟立って、私の関節は強張っていた。
服を半端にまとわりつかせたまま、類はいきなり、私の中に入ってきた。初めてのときのような痛みと衝撃に、私は自分の舌を噛んでしまった。そのまま動かれて、私の上半身はつめたくなった。口の中は血の味がした。膣の内部がやすりがけられているかのように痛くて、でも怖くて、悲鳴さえ上げられなかった。愛してる。と類が私の唇の端で言っていた。
愛してる。愛してる。あいしてる。
類の声と汗が、私の肌に飛び散る。
類の熱も声も、鳥肌を立てた私の内側にはまったく届かなかった。早く終わってほしい。それだけ願って、きつくきつく目を瞑っていた。私はセックスの最中、初めて、どこまででも私だった。私は私の痛みと恐怖に閉じていた。
類は精液を吐き出すと、いつもと同じように湿った息を吐いて、私を抱きしめた。そのときに、私はもう一つの恐怖に思い当った。
類は、避妊をしていなかった。
ゆっくりと、でも痛みを伴って類が私から出ていくと、重たい液体がぬるく、つめたい私の尻を伝った。どろりとした、その感触。凌辱の証拠。
惨めだ、と思った。痛くて、怖くて、惨めだった。自分が取るに足らない、どうしようもない存在で、だから今までも、これからも、踏みつけにされるしかないのだと思った。私の快は嘲笑され、私の不快は黙殺される。そしてこれからも、そうやって生きていくほかないのだと。何の価値もない。一人ぼっちで生きていくことさえ、自分の心でものを感じることさえ、私には許されない。
「里香……里香?」
類が僅かな罪悪感をにじませた声で、私を呼ぶ。でも私はだらしなく脚を開いたまま、動くこともできなかった。類のどんな呼びかけにも答えたくなかった。
「ごめん……ごめんね。痛かったよね。血が出てる……」
噛んだ舌のことかと思ったけれど、類が言っているのは別の部分だった。指先でそっと、ぐちゃぐちゃに爛れて汚れた性器に触れた。びくりと私の身体は痙攣し、痛みに口元が歪んだ。
さわらないで。
声帯も強張っていて、うまく声にはならなかった。私は身体を横向きに倒して、筋が伸びた脚を引き寄せて、丸まった。
「……里香?」
「さわらないで」
自分の声のように聞こえなかった。私はすでにその行為が始まる前の私ではなかった。類の部屋に来るまでは確かに存在していた私の中の何かが、破壊しつくされてしまったことを、麻痺した脳で感じていた。
もう無理なんだ、と、悟った。いろんな不愉快を、それまでも見ないふりをして、それでどうにかやってきたのだ。それが剥がれてしまったら、もう現実を見つめるしかない。そこにはどんな良いものもなかった。ただただ、惨めなだけ。
後ろめたいのか、類はおとなしく、私の言葉を待っていた。ヘイゼルグリーンの瞳。緑と茶が不思議に入り混じった、深い色の瞳。綺麗な男だ、と他人事のように思った。こんなときでも、どんなときでも、彼から美しさを剥奪することなどできはしない。どんな場面でも、彼のすることは全て輝かしく見えた。それが一層、私を惨めにした。
二つ、選択肢があった。惨めな、一人ぼっちの女として生きていくこと。それか、惨めな、類の女として生きていくこと。
どちらがましかなんて、迷うこともなかった。私ははっきりと決断した。
「類。痛い」
低い声でそう言うと、類はほっとしたような顔をした。得体の知れない沈黙よりは、苦痛を訴えられたほうがましだと思っていたのだろう。私の苦痛なんて、いいようにできると思っていたのだ。結局のところ。
「ごめん」
「悪いと思ってるの?」
「うん。本当にごめん。もう二度としない」
「じゃあ、なんでも言うこと聞いてくれる?」
そんなものの言い方をしたのは、初めてだった。
「もちろん。何」
類の瞳が嬉しそうに煌めいた。多分類はずっと、私にそういう話し方をしてほしかったのだろう。ひどい虚脱感が私を襲った。類は、私の中にないものばかり期待する。
「本当に?」
念押ししても、類の瞳は揺らがなかった。
「もちろん」
「じゃあ」
唐突に沸き起こってきた嗚咽が、私の喉を締め付けた。類の顔が不安に翳る。
「わかれて」
言葉とともに、涙がこぼれた。類の前で泣いたのは、ほんの子供のとき以来だった。怒りと恐怖と惨めさの奥のほうで、涙を流せたこと、傷つくことができたことに対する、奇妙な安堵があった。
涙の威力は、絶大だった。類は青褪めた顔で、呆然としていた。私が痛む身体をのろのろと動かして汚れたものを拭い服を整えている間も、ベッドの上で動かなかった。
「里香」
立ち去ろうとする私を、類が呼んだ。
私は振り向かなかった。振り向く必要など感じなかった。
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